佐々木実(2019)『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社
宇沢弘文の著作で読んだのは、「自動車の社会的費用」、「社会的共通資本」程度である。他に、東大教授、三里塚に関与したくらいの知識しかなかった。この本のタイトルで「資本主義と闘った」とあり、図書館にリクエストした。手元に届くと意外と厚く、読めるか心配になった。本の内容は彼の学者としての人生や経済学理論の論争経過が、わかりやすく書いてあって、理論は飛ばしながらも引き込まれて読んだ。著者は学者ではないと謙遜しているが、日経新聞にいたことあり時々の経済記事やその背景の理論を学んでいる。本の前半は宇沢がアメリカでの数理経済学での目覚ましい実績である。言葉や日本人というハンディキャップを背負い、ノーベル経済学賞に値する活躍だと思う。以下、私の興味ある個所のメモである。( )書きは私のコメントである。
東大時代は不破哲三などとも知り合い、マルクス経済学も勉強した。都留重人は滞米中赤狩りにあった。シカゴ大学で出会ったのが、フリードマンであった。かれは「経済理論家」から「イデオローグ」に転身した。「新しい保守主義」の誕生である。フリードマンにとってマネタリズムは、論敵であるケイジアンの主張を覆す理論的な根拠であった。(「シカゴ学派」との関連はどうか?)
興味深いのは後半11章からの日本での活躍である。アメリカで経済理論のトップにいて、なぜ帰ったのか。(ベトナム戦争のせいか?論争のせいか?)
まず名前が出たのが宮本憲一である。(彼の本は1967「社会資本論」、「環境経済学」、「都市計画の理想と現実」など多く読んだ。その影響下の名市大の山田先生からも教えてもらった)宇沢は都留に招かれ、公害研究会に参加した。宮本は「宇沢さんは、マルクスの生産表式を現代的にしたのはおもしろい」と述べている。
田中政権以降、自民党政権は革新自治体が無担保融資制度など、対抗策を次々繰り出して革新自治体を切り崩していく。1970年代の後半には、都市部から革新自治体が一掃された。(高度成長の陰である公害や福祉政策の住民運動で革新自治体が出来た。)70年代後半から「土建国家」の分岐点と井出栄策は指摘する。宇沢は78年東京都知事選挙の候補者選びに関わったが成功しなかった。
1973年第1次石油危機で、アメリカはスタグフレーションを招いた。アメリカのケイジアンは説明できず、フリードマンはこれを「資本主義と自由」などで攻撃し、マネタリズムを完成させた。マネタリズムは29年の恐慌でも、「政府の失敗」とし政府は市場経済に極力介入(?)すべきでないとしている。現実政治に自由放任主義、市場原理主義に正当性を与えた。宇沢は70年の日経新聞でフリードマンを批判した。
軍部クーデターの73年、社会主義政権アジェンデ大統領が暗殺された。今では拳銃による自殺だった。東大とシカゴ大を兼任していた宇沢が、シカゴ大と決別したのは、神野直彦(著書「人間回復の経済学」)が「世界」に寄稿した私信で、「アジェンダ大統領が暗殺されたのを、フリードマンの仲間が喜んでいた。市場原理主義が世界に輸出された。現在の世界的危機を生み出す」。
経済学を離れた時期が10年くらいある。何をしていたか。日本で、公害とか環境破壊の現場を何年も歩いていた。経済学の限界を考え、新古典派経済学の原型を考え、批判した。宇沢にとって、撃つべき「シカゴ学派」(「豊田とトヨタ」にも引用されている。)とは、フリードマン=ルーカスのシカゴ学派だった。ルーカスは、ミクロ的基礎を持つマクロ経済理論を打ち立てるとともに、宇沢が最も重視した「社会的視点」を経済学から放逐してしまった。若い新古典派の経済学者たちが国防相に入り、戦争の効率化をマクナマラのもとでやった。「ベトコン」一人殺すのに、30万ドルかかる。経済学者が「キル・レーシオ」をはじき出す、経済学、アメリカの社会問題として狂気に近い状態である。宮本は公害研究仲間として宇沢を「講演を積極的に受ける。水俣の問題に熱心。加害企業の経営分析を一生懸命やった」などと評した。熊本大学医学部の原田は、有毒性のメチル水銀が胎盤を通って胎児を汚染した事実を突き止めた。その原田と現場を回った。
三里塚闘争の斡旋で反対側の委員を引き受けた。宇沢の結論は、「農業部門における生産活動にかんして、独立した生産、経営単位としてとられるべきものは、1戸1戸の農家ではなく、一つ一つの村落共同体でなければならない」。宇沢はコモンズを論じ、「実験村」を提案したが実現しなかった。その後、鳥取県の「公園都市構想」を本で書き、農社学校の単位が強調されている。
ワシントン・コンセンサスによる発展途上国への「構造調整」政策は日本とも無縁ではなかった。日本にかってないほどの強い圧力をかけて「構造改革」を求めた。日本は公共投資に10年間で430兆円の公共投資を約束させられた。630兆円に膨れ上がった公共投資は、日米構造協議でGNPの10%を、しかも日本の生産性を上げるために使ってはいけない。(ならば、公園や生活道路、公営住宅に使えば良かったのでは?)小泉政権になって地方交付税を大幅に削減した。「身を切る改革」であった。冷戦が終わり、日米関係の力学で決まった巨額の公共投資計画を批判して、それに代わる社会的共通資本の理論を自治労の研究会で説いた。(分裂する前の自治研集会であろうか)社会的共通資本の概念を導入する目的は、「一国の構成員すべてがその所得、居住地などの如何にかかわらず、市民の基本的権利を充足することができるようにする」ための、リベラリズムの理念である。「主義」のない「制度主義の経済学」である。90年京都会議で条約国が締結した「京都議定書」は、宇沢が唱えた温暖化対策とは相いれないものだった。排出権取引を激しく批判した。アメリカは自国の利益にならないと判断し、京都議定書を批准しなかった。社会的共通資本研究センターをつくり、若手を育成しようとしたが成功しなかった。社会の持続可能性を考察する際、ジョン・スチュアート・ミルは「定常状態」を理想的な状態として想定している。(資本および人口の停滞では、資本家側は人口の停滞はとにかく資本の増大を追及するので、対立が生じる。成長とは何か?宮本の「維持可能」の違い?参考:広井良典「定常型社会」)宇沢はフリードマンが始める新自由主義の市場原理主義のアンチテーゼとなっているが、社会的共通資本の理論はそれ以上のメッセージが込められていたとされる。
アメリカの第1次世界戦争への参戦の2か月前に著した「平和論」で、ヴェブレンは独自の学説にもとづきながら、参戦の原因は好戦的愛国心と営利原因にあると主張したことから、「非国民」「社会主義者」などと非難されていた。「酷い時代(1975年から2008年まで)」とは、「市場にまかせればうまくいく」という経済思想がアメリカ、ひいては世界を導いた時代であり、一言で言えば、フリードマンたちの時代だ。ステイグリッツが2008年を「酷い時代」の区切りとしたのは、いうまでもなくリーマン・ショックである。
リーマン・ショックを契機とする世界情勢の大きな変化に、政権交代で誕生した民主党政権は的確に対応していく必要があると考えていた。ところが、民主党政権は最悪の政策を選択したことに、宇沢は憤った。普天間基地の移設問題で、鳩山は「最低でも県外」といい、迷走して辺野古への新基地を認めた。菅が唐突に打ち上げたのが、TPPの参加表明であった。(消費税引き上げ問題もある。民主党の中にも自民系やさらなる右派もいた。2大保守党の性格もある。米の圧力もあり、国民の期待を裏切った。)宇沢は「TPPを考える国民会議」の代表世話人になった。
宇沢はパックス・アメリカーナに依存して高度経済成長した日本にも厳しい目を向けている。1945年8月、日本軍の無条件降伏とともに始まった、新自由主義の政治経済思想が存在する。新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効果的に利用できるという1種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取引するような制度をつくるという考えである。水(水道の民営化)や大気、教育(大学受験の英語検定)とか医療、または公共的交通機関(国鉄)といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく。社会的共通資本を根本から否定するものである。市場原理主義は、この新自由主義を極限まで推し進め、儲けるためには、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を「改革」して、儲ける機会を広げる。そして、パックス・アメリカーナを守るためには武力の行使も辞さない。水素爆弾を使うことら考えてもいい。ベトナム戦争、イラク侵略にさいしてもとられた考えである。民主党政権もこの走狗となった。(日本の経済成長は憲法の制約で「軍事費」を抑え経済成長した、と個人的には評価してきたが?)
最後の著書、「社会的共通資本としての森」では、脱ダムを期待した。04年田中知事の下、長野県総合計画で「コモンズから始まる、信州ルネッサンス革命」をプロヂュースした。田中は9つの県営ダムを中止した。(土建屋の反発を招いたのか?)日本で公害問題を取り組んだ宇沢の変わりよう。アローは「自動車の社会的費用」が、彼の思考の変化を示す作品だと語った。
(*一読して、戦後の大きな経済理論、政治構造など歴史的に理解するのに役立った。政治・経済の革新が求められている今日、経済学を学ぶ学生、政治に関わる人、市民運動家にお勧めである。国民的利益と市民的権利を拡充するために。)