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「資本主義と闘った男」・宇沢弘文

2019-11-04 | 気になる本

佐々木実(2019)『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社

宇沢弘文の著作で読んだのは、「自動車の社会的費用」、「社会的共通資本」程度である。他に、東大教授、三里塚に関与したくらいの知識しかなかった。この本のタイトルで「資本主義と闘った」とあり、図書館にリクエストした。手元に届くと意外と厚く、読めるか心配になった。本の内容は彼の学者としての人生や経済学理論の論争経過が、わかりやすく書いてあって、理論は飛ばしながらも引き込まれて読んだ。著者は学者ではないと謙遜しているが、日経新聞にいたことあり時々の経済記事やその背景の理論を学んでいる。本の前半は宇沢がアメリカでの数理経済学での目覚ましい実績である。言葉や日本人というハンディキャップを背負い、ノーベル経済学賞に値する活躍だと思う。以下、私の興味ある個所のメモである。(  )書きは私のコメントである。

東大時代は不破哲三などとも知り合い、マルクス経済学も勉強した。都留重人は滞米中赤狩りにあった。シカゴ大学で出会ったのが、フリードマンであった。かれは「経済理論家」から「イデオローグ」に転身した。「新しい保守主義」の誕生である。フリードマンにとってマネタリズムは、論敵であるケイジアンの主張を覆す理論的な根拠であった。(「シカゴ学派」との関連はどうか?)

興味深いのは後半11章からの日本での活躍である。アメリカで経済理論のトップにいて、なぜ帰ったのか。(ベトナム戦争のせいか?論争のせいか?)

まず名前が出たのが宮本憲一である。(彼の本は1967「社会資本論」、「環境経済学」、「都市計画の理想と現実」など多く読んだ。その影響下の名市大の山田先生からも教えてもらった)宇沢は都留に招かれ、公害研究会に参加した。宮本は「宇沢さんは、マルクスの生産表式を現代的にしたのはおもしろい」と述べている。

田中政権以降、自民党政権は革新自治体が無担保融資制度など、対抗策を次々繰り出して革新自治体を切り崩していく。1970年代の後半には、都市部から革新自治体が一掃された。(高度成長の陰である公害や福祉政策の住民運動で革新自治体が出来た。)70年代後半から「土建国家」の分岐点と井出栄策は指摘する。宇沢は78年東京都知事選挙の候補者選びに関わったが成功しなかった。

1973年第1次石油危機で、アメリカはスタグフレーションを招いた。アメリカのケイジアンは説明できず、フリードマンはこれを「資本主義と自由」などで攻撃し、マネタリズムを完成させた。マネタリズムは29年の恐慌でも、「政府の失敗」とし政府は市場経済に極力介入(?)すべきでないとしている。現実政治に自由放任主義、市場原理主義に正当性を与えた。宇沢は70年の日経新聞でフリードマンを批判した。

軍部クーデターの73年、社会主義政権アジェンデ大統領が暗殺された。今では拳銃による自殺だった。東大とシカゴ大を兼任していた宇沢が、シカゴ大と決別したのは、神野直彦(著書「人間回復の経済学」)が「世界」に寄稿した私信で、「アジェンダ大統領が暗殺されたのを、フリードマンの仲間が喜んでいた。市場原理主義が世界に輸出された。現在の世界的危機を生み出す」。

経済学を離れた時期が10年くらいある。何をしていたか。日本で、公害とか環境破壊の現場を何年も歩いていた。経済学の限界を考え、新古典派経済学の原型を考え、批判した。宇沢にとって、撃つべき「シカゴ学派」(「豊田とトヨタ」にも引用されている。)とは、フリードマン=ルーカスのシカゴ学派だった。ルーカスは、ミクロ的基礎を持つマクロ経済理論を打ち立てるとともに、宇沢が最も重視した「社会的視点」を経済学から放逐してしまった。若い新古典派の経済学者たちが国防相に入り、戦争の効率化をマクナマラのもとでやった。「ベトコン」一人殺すのに、30万ドルかかる。経済学者が「キル・レーシオ」をはじき出す、経済学、アメリカの社会問題として狂気に近い状態である。宮本は公害研究仲間として宇沢を「講演を積極的に受ける。水俣の問題に熱心。加害企業の経営分析を一生懸命やった」などと評した。熊本大学医学部の原田は、有毒性のメチル水銀が胎盤を通って胎児を汚染した事実を突き止めた。その原田と現場を回った。

三里塚闘争の斡旋で反対側の委員を引き受けた。宇沢の結論は、「農業部門における生産活動にかんして、独立した生産、経営単位としてとられるべきものは、1戸1戸の農家ではなく、一つ一つの村落共同体でなければならない」。宇沢はコモンズを論じ、「実験村」を提案したが実現しなかった。その後、鳥取県の「公園都市構想」を本で書き、農社学校の単位が強調されている。

ワシントン・コンセンサスによる発展途上国への「構造調整」政策は日本とも無縁ではなかった。日本にかってないほどの強い圧力をかけて「構造改革」を求めた。日本は公共投資に10年間で430兆円の公共投資を約束させられた。630兆円に膨れ上がった公共投資は、日米構造協議でGNPの10%を、しかも日本の生産性を上げるために使ってはいけない。(ならば、公園や生活道路、公営住宅に使えば良かったのでは?)小泉政権になって地方交付税を大幅に削減した。「身を切る改革」であった。冷戦が終わり、日米関係の力学で決まった巨額の公共投資計画を批判して、それに代わる社会的共通資本の理論を自治労の研究会で説いた。(分裂する前の自治研集会であろうか)社会的共通資本の概念を導入する目的は、「一国の構成員すべてがその所得、居住地などの如何にかかわらず、市民の基本的権利を充足することができるようにする」ための、リベラリズムの理念である。「主義」のない「制度主義の経済学」である。90年京都会議で条約国が締結した「京都議定書」は、宇沢が唱えた温暖化対策とは相いれないものだった。排出権取引を激しく批判した。アメリカは自国の利益にならないと判断し、京都議定書を批准しなかった。社会的共通資本研究センターをつくり、若手を育成しようとしたが成功しなかった。社会の持続可能性を考察する際、ジョン・スチュアート・ミルは「定常状態」を理想的な状態として想定している。(資本および人口の停滞では、資本家側は人口の停滞はとにかく資本の増大を追及するので、対立が生じる。成長とは何か?宮本の「維持可能」の違い?参考:広井良典「定常型社会」)宇沢はフリードマンが始める新自由主義の市場原理主義のアンチテーゼとなっているが、社会的共通資本の理論はそれ以上のメッセージが込められていたとされる。

アメリカの第1次世界戦争への参戦の2か月前に著した「平和論」で、ヴェブレンは独自の学説にもとづきながら、参戦の原因は好戦的愛国心と営利原因にあると主張したことから、「非国民」「社会主義者」などと非難されていた。「酷い時代(1975年から2008年まで)」とは、「市場にまかせればうまくいく」という経済思想がアメリカ、ひいては世界を導いた時代であり、一言で言えば、フリードマンたちの時代だ。ステイグリッツが2008年を「酷い時代」の区切りとしたのは、いうまでもなくリーマン・ショックである。

リーマン・ショックを契機とする世界情勢の大きな変化に、政権交代で誕生した民主党政権は的確に対応していく必要があると考えていた。ところが、民主党政権は最悪の政策を選択したことに、宇沢は憤った。普天間基地の移設問題で、鳩山は「最低でも県外」といい、迷走して辺野古への新基地を認めた。菅が唐突に打ち上げたのが、TPPの参加表明であった。(消費税引き上げ問題もある。民主党の中にも自民系やさらなる右派もいた。2大保守党の性格もある。米の圧力もあり、国民の期待を裏切った。)宇沢は「TPPを考える国民会議」の代表世話人になった。

 宇沢はパックス・アメリカーナに依存して高度経済成長した日本にも厳しい目を向けている。1945年8月、日本軍の無条件降伏とともに始まった、新自由主義の政治経済思想が存在する。新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効果的に利用できるという1種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取引するような制度をつくるという考えである。水(水道の民営化)や大気、教育(大学受験の英語検定)とか医療、または公共的交通機関(国鉄)といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく。社会的共通資本を根本から否定するものである。市場原理主義は、この新自由主義を極限まで推し進め、儲けるためには、法を犯さない限り、何をやってもいい。法律や制度を「改革」して、儲ける機会を広げる。そして、パックス・アメリカーナを守るためには武力の行使も辞さない。水素爆弾を使うことら考えてもいい。ベトナム戦争、イラク侵略にさいしてもとられた考えである。民主党政権もこの走狗となった。(日本の経済成長は憲法の制約で「軍事費」を抑え経済成長した、と個人的には評価してきたが?)

 最後の著書、「社会的共通資本としての森」では、脱ダムを期待した。04年田中知事の下、長野県総合計画で「コモンズから始まる、信州ルネッサンス革命」をプロヂュースした。田中は9つの県営ダムを中止した。(土建屋の反発を招いたのか?)日本で公害問題を取り組んだ宇沢の変わりよう。アローは「自動車の社会的費用」が、彼の思考の変化を示す作品だと語った。

(*一読して、戦後の大きな経済理論、政治構造など歴史的に理解するのに役立った。政治・経済の革新が求められている今日、経済学を学ぶ学生、政治に関わる人、市民運動家にお勧めである。国民的利益と市民的権利を拡充するために。)

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台北・街歩き⑧淡水

2019-11-04 | traveling, town walking

 旅行のもう一つの目的は地方に出かけることでした。基隆や九份は行ったことがあるので、MRTのある淡水にしました。朝はホテルで無料の飲み物、サラダ、フルーツをいただき、出発です。電車でどこへ行こうとガイドブックを見ると、新北投行きのようで乗客が親切に教えてくれました。こちらの温泉も時間があれば行きたいところです。淡水駅ついたらレンタル自転車を探しました。3人目で犬の散歩中の女性を見つけました。英語で教えてくれましたが。30分無料で登録がいるとのことです。岬に行きたいと地図を示すと、バス停に案内してくれました。感謝です。後でわかりましたが、駅にはインフォーメーションがあります。急行バスで15分程で港に着きました。散歩してランチには早いのでバスでリターンです。

 

 iで地図をもらい、レンタル自転車を教えてもらいました。1時間2台で150元、淡水川沿いを走りました。余り自転車道は長くありません。しかし、古いレンガ倉庫を見つけたので、自転車を返し再度訪ねました。自転車を借りるのにIDが必要ですが、パスポートは止めて免許証にしました。

 

 古い倉庫を見て、老街に向かいました。まずはランチで、大衆食堂に入りました。ご飯と3品で一人50元です。それから路地を歩くと、市場、そして沢山のお寺を見学しました。楽しい壁画をみつけました。山の上のレストランでお茶をし、のんびり疲れをとりました。帰りがけに商店街で土産を買い、駅に向かいました。圓山神社は諦め、中山の地下街に向かいました。誠品書店を見たかったからです。中山の駅で地上に出ると、そこにも誠品のデパートが有り、そこで夕飯を食べました。ここではご飯と4品で一人120元です。店舗も綺麗で味も良かったです。地下の食堂コーナーにはラーメン、うどん、中華、洋食と沢山の店がありました。これも街に出かける魅力の一つです。台湾では夜市など外食文化が根付いているようです。

 

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台北・街歩き⑦士林夜市

2019-11-03 | traveling, town walking

 1日目の土曜日に夜市は行ったけど、2日目も夕飯を夜市で食べることにしました。安い!昨日の食堂で牡蠣のお好み焼き風を食べようとしましたが、行列が凄いので諦めました。ビールを買おうと彷徨いましたが、酒販売の制限があるようで見つかりません。日曜日の午後7時頃なので凄い賑わいです。まずは肉まんを食べることに、路地裏で食べていると、Are you a line?と若い女性に尋ねられました。NO.そこは人気のスープ店の列でした。沢山ある店でも人気店とそうでない店があります。西瓜ジュースを飲み、歩いていると出来立てのケーキが1斤ほどで90元、思わず衝動買いしました。ビールとチェックしておいた駅で寿司を買ってホテルで食べることに。日本のビールが300円ほどと高い、ここでは外国ビールでした。

 ホテルにはバスタブがありません。朝食はないと思っていたけど、飲み物とパン、サラダ、フルーツは自由とのことでした。チェックインで言ってよ!駅近くで便利でしたが、1部屋12000円の三ツ星でした。台湾も地震国だから危ないホテルには泊まれません。連泊だから荷物を置けるし、洗濯もできます。明日は淡水へ。(写真は文房の玄関先です)

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台北・街歩き⑥誠品生活

2019-11-03 | traveling, town walking

 

 大安森林公園からMRT大安駅まで歩き、そこからオレンジラインで一駅、ブルーラインの乗り換えに随分歩かされました。国父記念館の反対側にあると見たてたのは良いが、電車も右側通行であったので、逆方向に歩いてしまいました。しにため目的地までに3回道を聞くことになりました。さらに、若者が[May I help you?]、と親切に声をかけてくれました。誠品生活を聞くと、スマホで調べてくれました。知らない所で道を探すにはスマホが必需品です。でも私は持たず、敢えて道を聞きながら彷徨うのも、コミュニケーションや新発見など街歩きの醍醐味でもあります。

 (90度回転は時間がかかります)

 やっとの思いで写真の入り口に辿り着きました。アプローチは木々に囲まれ、池が見え、誠品生活の建物が見えました。他に倉庫での歴史展示や、古い木造建築での本屋さん。さらに、台湾で生活している人のブログ(「にじいろ台湾」、「たつきちの台湾」)を後で検索すると、「松山文創園区は1937年に建設された台湾総督府のたばこ工場で、1998年に閉鎖された」おあります。中は教室のような作りでした。各コーナーは台湾の伝統、文化を尊重し手作りの製品が並んでいます。独創的なアイデアの新しい製品もあります。さすが台湾のデザイン博物館です。これが新しい誠品生活の店舗とどう関連しているのか興味深いです。

  こちらもテレビで報道されたように、体験コーナーや実演、関連本など興味深いです。日本の流れ作業、ジャストインタイム、コストダウンでのものづくりから、伝統、文化を生かし新しいものづくりを創造している原点の1面が、台湾にあるような気がしました。

 

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台北・街歩き⑤永康街

2019-11-02 | traveling, town walking

 東門市場で焼き芋を買い、小さな公園で食べました。次に向かったのが、雑貨品店などの多い永康街です。人が群がっていたので何かと思っていると、小籠包で有名な店だと日本語で教えてくれました。聞けば80分待ちです。予約をして街歩き続行です。公園で休憩し、トイレでは紙を流してく下さい、と変化していました。タピオカを飲むことにし、店先でお金を払えば、あとは呼び出しサインが出たら受け取る、と隣の日本人客が教えてくれました。人気はマンゴの氷のようです。そして、午後1時頃にお目当ての小籠包を。値段が高いだけあって、美味しかったです。ツアー客も多かったです。次回は豆乳の人気店で、平日に並ぼうと思います。

 この後、大安森林公園を歩きました。市民が思い思いに、ビニールシートなどを広げ、寝そべったり、談笑したり、ブランコやバスケなど楽しそうに遊んでいました。公園の中にMRTの駅があるのに驚きました。(写真は東門駅、左の女性は観光案内ボランチア)

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台北④文房

2019-11-01 | traveling, town walking

 文房へは善導寺駅から忠孝新生駅に向かって、中間を南へ少し行ったところです。しかし、右に曲がるポイントを通過してしまいました。うろうろ探すと日本の住宅群を修復している場所に遭遇しました。さらに歩き、琴の練習をしている古い日本建築物を、厚かましく見学させていただきました。そして、やっと目的の文房に辿り着きました。ちょうど案内が始まっていて、本来は予約制でしたが、親切にツアーに入れてもらえました。中国語の説明は分かりませんが、古民家の様子はわかりました。公益図書館になっていて、まったり本を読んでいる人もいます。説明の後に日本語のビデオを見せていただき、茶菓子を頂きました。老朽し壊れそうな歴史建造物に、文化的意義を認め政府など最近はお金をかけ、整備をしているようです。写真は屋内から中庭を見たところです。アンチークな家具も置かれ、まったりできる空間になっています。

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