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神野直彦「財政と民主主義」その①

2024-05-12 | 気になる本

神野直彦(2023)『財政と民主主義ー人間が信頼し合える社会へ』岩波新書 その①

 この本は著者のおそらく体力的に最後の本であろう。これまでの多くの著作の集大成と言える。少し難解であるが、「最大公約数」的で、論理的には反論する点はなく同意できる。思想的には社会的共通資本の宇沢弘文の流れを汲む。終わりにあるように、人間を「人間として充実させるビジョン」を描く使命を背負って生きている、と学者哲学が見られる。政府は、新自由主義でとアベノミクスで失われた30年、今の日本に暮らしも平和も、若者の未来への希望も見えない。国は借金まみれで武器の爆買い、庶民は円安物価高に苦しみ、自民党の政治家は裏金の金権腐敗政治で、その人たちが平和憲法を変えようとしている。

「地域再生の経済学」の思想が現実にどう生かされたか、地方分権は仕事だけ地方に押し付け、財源と権限は国に集約されている。金子勝の「平成経済史」のように、アベノミクスをばっさり批判検証できるか?以下は本書の拾い読みである。(  )内は私のコメント。

 戦後、資源配分機能、所得再分配機能、経済安定機能という3つの機能を、有効にシステム統合を図る、福祉国家体制が先進諸国で定着していった。いわゆる「黄金の30年」であった。しかし、①1973年は福祉国家体制が崩壊してく象徴する年となった。 1973年9月11日、反市場主義を唱え、圧倒的な民衆の支持を集めてチリの大統領に就任したアジェンデが、軍のクーデターによって惨殺される。クーデターにはアメリカのCIAの関与がされており、民主主義を旗印に掲げた覇権国アメリカが、自ら野蛮な暴力でこれを破り捨てた。② 1973年には、経済システムの重化学工業化の行き詰まりを告げる石油ショックが起きた。

 第二章 イギリスの政治学者は「2008年のロシア・グルジア戦争は、最初のNATO拡大を阻止する為の戦争だった。2017年のウクライナ危機が二番目だ。三番目が起これば人類が生き延びられるかどうかはわからない。」との警告している。パレスチナにおいても始まってしまった。

 私たちは「根源的危機」の時代に生きている。「生」は偶然だが、「死」は必然である。社会環境の破壊によって、経済的危機・社会的政治的危機という内在的危機も爆発してしまっている。(地震など自然災害は防げないが、戦争、不況、食料・資源危機は政治の責任である)

 人間が生存するための生活は、家族や地域社会などという共同体を形成して社会システムで営まれるが、生存のための財・サービスは経済システムの生産物市場から購入することになる。従って労働市場で労働販売して賃金という所得を獲得し、それによって財・サービスを生産物市場から購入しなければならないのである。ポスト工業社会となり、知識集約産業やサービス産業が基軸産業になると、女性も労働市場へ進出するようになり、子どもたちや高齢者のケアに無償労働として従事する者が姿を消して行く。そうなると政府が財政を通じて育児や高齢者へのケア・サービスを公共サービスとして提供しないと、格差や貧困が溢れ出してしまう。というのも労働市場への参加形態が砂時計型に両極分離してしまうからである。コロナ・パンデミックによって日本では、エッセンシャル・ワーカーが低賃金と劣悪な労働条件の下で働いていることも再認識させられた。これは政府が対人社会サービスへのアクセスの保障責任を果たしていないことのメダルの表と裏の関係にある。1990年代日本では新自由主義に基づく労働市場改革が強行されるとともに、低賃金で劣悪な労働条件の雇用が溢れ出していたこの多くが「規制緩和」と「民営化」の掛け声とともに、本来は政府が責任を持って提供すべき公共サービスを、民間に丸投げすることによって生じたものである。(1995年「新時代の日本的経営」、正社員・終身雇用・年功序列の廃止、勤務評定など人間コスト削減。賃金低下でデフレに陥り、金融緩和で弱い日本経済に。)

 生活面よりも生産面を優先した日本の対応。社会的セーフティネットとしての社会保障には現金給付と現物サービス給付がある。現金給付には社会保険と公的扶助がある。日本の社会保険は網の目が粗く、パートや非正規という雇用形態や自営業者を充分に包摂できていない。こうした網の目の粗さによって、ポスト工業社会の社会的セーフティネットとしては、機能不全に陥ってしまう。情報メディアの発展か雇用がネットワークで組織されるため、フリーランスなどと呼ばれる雇用型自営業が大量に存在するようになる。

 バンデミック・コロナでアングロ・アメリカン諸国では、社会的危機を回復するために財政を膨張させて、多額の現金給付を実施せざるを得なくなる。福祉国家が社会的セーフティネット強化したために、それがモラルハザードとなって勤労意欲が失われ、経済停滞が生じているとする新自由主義の経済政策思想に基づいて財政を運営してきたアングロ・アメリカン諸国にとって、福祉国家なき福祉を気前よく拡大したことは財政運営方針の大転換ということである。(安倍政権のコロナ対策はどうであったか検証が必要である。医療の削減が背景にあった。現金給付は必ずしも悪いと言えない。ワクチンが日本で開発されなかった。突然の学校休校、ガーゼのマスク配布や大阪のうがい役は根拠がない。国債発行はやむを得ないとしても、補正予算、予備費の流用には問題があった。国や岡崎市長公約の現金給付はバラまきという側面もあるが、生活不安もありやむを得ない面もあった。豊田市では公的病院が少なかった。軽症感染者と家族を隔離するホテルが、市内に設けられなかった。)

 「人への投資を原動力とする成長と分配の好循環実現へ」と銘打った内閣府は、「経済あっての財政の考えのもと、経済をしっかり立て直すことが重要である」と訴えている。コロナ・パンデミックを克服するために財政は、債務残高はGDP比を大きく高まった(2.6倍)が、倒産や失業が急増する事態を回避させることができた。しかし、「ウクライナ情勢等を背景とした原材料価格の上昇や供給面での制約、金融資本市場の変動などの下振れリスクが存在している」。そのため、「感染症の影響がやわらぎ、持ち直しつつあるわが国経済を腰折れさせることがあってはならず」、「経済あっての財政」という考えのもとに、経済を成長させていく方針を主張している。歴史的教訓は、民主主義の経済である財政に委ねる「財政あっての経済」という考え方に転換することである。

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