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Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「誰よりもつよく抱きしめて」

2025年03月01日 21時58分47秒 | 映画(2025)
過敏と不感の間の無神経。


実は他人に触ることができない。決して潔癖症というわけではないのだが、触れようとすると目まいでくらくらしてくる。

昔は触れたこともあったし、今はまったく必要なくなったから、悩むようなことでもないけれど、年齢を重ねてもスキンシップを欠かさない夫婦の話を聞くと、少しうらやましいと思うこともある。

絵本作家の良城は強迫性障害による潔癖症を患っていて、手には常にラップを巻き、触れるものや口に入れるものすべてを丁寧に拭かなければ済まない生活を送っている。彼には付き合って数年になる恋人の月菜がいるが、もう長いこと彼女と手をつなぐこともできずにいる。

月菜のバイト先は絵本の専門店で、そこのオーナーの孫が良城という関係でもある。良城が書いた絵本の主人公・モジャは、空を飛ぶことができない鳥。ほかの鳥のようにできないモジャは、良城自身を落とし込んだキャラクターでもあった。

病気をどうにもできずに焦りともどかしさを感じる日々に加えて、二人それぞれに新しい人との出会いがあり、改めて二人の関係を見直さざるを得ない状況に直面する。二人が取った選択肢は果たして・・・。

こうまとめると何か感情を揺さぶられる物語を期待してしまうのだが、期待は残念ながら外れた。

月菜の前に現れたのは、絵本の専門店に訪れたお客さんのジェホン。彼は絵本を買った後に携帯電話を店の中に置き忘れていくのだが、これに気付いた月菜、保管したまでは普通なのだが、この後に女性の名前でかかってきた通話を受けてしまった。相手は「もう別れましょう」と言うだけ言って電話を切ってしまう。なんだこの展開?

翌日携帯電話を受け取りに来たジェホンは、お礼にと月菜を食事に誘う。不自然なまでの強引さの理由は後で明らかになるのだが、食事の場で彼は「自分は電話の女性を愛していなかった。これまで女性に心を動かされたことがない」と激白。それを誘った女性の前で言うって、どういう感覚なのか?

一方の良城が病院のカウンセリングで出会ったのは、同じ潔癖症の症状を持つ女性・千春。自分を理解してくれる人に初めて会えたことに喜ぶ良城に露骨に嫉妬の態度を見せる月菜。良城よかったね、じゃなくてそっちが優先するんだ。

良城は良城で、月菜の嫉妬心に気付いているはずなのに、自宅を訪ねてきた千春を勝手に家に上げてしまう。知らずに帰宅した月菜に対して「3人でごはん食べたら、きっと楽しいと思って・・・」と話す良城に、これはどっちもどっちなのかもしれないと思い直す。

月菜が部屋を飛び出すと、そこにいたのはジェホン。「あなたのせいでこうなった」と責める月菜に、「もう会いません」と告げるジェホン。最後の思い出にしようと思ったのかどうか分からないが、ジェホンが月菜を抱きしめると、その様子を後から追ってきた良城が見てしまう。

いやもう、ここまで立て続けに「こうしちゃいけない」が続く脚本はどうなってるの?と言いたい。いや、言わないでいいや。たぶん根本の感覚が違っている気がするので。

みんな一生懸命やってるし、あまり酷いこと言うのもどうかと思うけど、最後に登場する数年後の良城の姿を見ると、この二人の関係って結局何だったのかとなおさら疑問を持たざるを得ないのである。

(30点)
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「大きな玉ねぎの下で」

2025年02月28日 21時18分32秒 | 映画(2025)
アナログは、かわいい。


たまには芸術に触れるのもいいけど、心があまり強くないときには、やはりほっこりとした作品が見たくなる。

初対面では相性最悪だった男女が、偶然の積み重なりで近付いて最後はくっついちゃう。思いっきりベタです。でも、それがいい。

ただ少しわがままを言えば、ベタはベタなりに工夫がほしいというところ。それがこの作品、意外とよく作られている。

主人公は、見習い看護師の美優ちゃんと大学卒業間近の丈流くん。居酒屋で偶然出会って口論してから、何かと顔を合わせてはケンカを繰り返す二人。

その裏で、実は二人は同じお店の昼営業と夜営業のバイトスタッフで、「管理ノート」と題した連絡帳を通じてお互いの趣味や悩みを伝える間柄でもあった。

二人が推しているアーティストのコンサートが日本武道館で開かれることになり、丈流は一度も会ったことがない「管理ノート」の相談相手(実は美優)を誘おうとするが・・・。

美優と丈流の物語と重なるようにして描かれるのが、36年前のある高校生の物語である。

昭和から平成に代わる時代。ケータイはなく、若い男女はまったく違う方法で出会っていた。それは文通。

♪ ペンフレンドの 二人の恋は つのるほどに 悲しくなるのが宿命

雑誌のペンフレンド募集欄をきっかけに文通を始めた二人は、実はともに引っ込み思案のゴーストライターだった。そして、こちらの世界でも当時流行っていた爆風スランプの武道館コンサートを観に行くという話になる。

途中で、この36年前の二人が丈流の両親であることが分かるのだが、クライマックスでは、その二人が結ばれる36年前のコンサートと、丈流が美優を誘ったコンサートがシンクロするように描かれる。

気持ちが通っていながらなかなか会えない男女というのは、携帯電話が出てくる前の定番だった。36年前の二人は、昭和天皇崩御でコンサートが中止になったことを速達郵便で連絡しようとしたり、相手が待っていることを信じて必死にスクーターを走らせたりする。不器用で効率が悪いけどそれしか方法がなかったし、そんな苦労の末にたどり着いたときの喜びは計り知れないものがあった。

一方で、現代の美優と丈流はスマートフォンで簡単に連絡がつく関係だが、すぐに情報が届いてしまうが故の早とちりで仲がこじれることになる。そしてSNSの連絡先を互いに削除して二人はつながる手段を失ってしまう。

連絡ができなくなった二人が好きな気持ちを思い出したときに、お互いをつなぐ役割を果たしたのはラジオであった。テレビに覇権を奪われながらも、形を変えつつリスナーの傍に寄り添う唯一無二のメディアとして生き残ってきたラジオ。推しのアーティストがMCを務める番組のチャットの書き込みが二人を再び結びつける。

36年前の文通が二毛作ビジネス店舗の「管理ノート」になり、ラジオ番組はスマートフォンで聞いて感想をチャットに書き込む。デジタルの時代にもアナログの要素が息づいていて、それがキーポイントになる演出が心憎い。

キャスティングも、主役の桜田ひより神尾楓朱の瑞々しさに加えて、36年前組の江口洋介飯島直子といった辺りの配置が絶妙だった。

それにしても、本作は若い男女の恋愛モノをうたいながら、内容を見るとターゲットはどうみても昭和世代だと思う。昭和歌謡好きの人なら響くのかな。

(85点)
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「ブルータリスト」

2025年02月28日 19時57分17秒 | 映画(2025)
デザイン重視の展示品。


本年度アカデミー賞で10部門ノミネートとなっている本作。一部では、賞レースで失速気味との声もあるが、観てみないと実体は分からない。

それにしても、中間にインターミッションを入れた210分の上映時間というのは、どれだけの大作なのか、ついていけるのかと、観る側に対して結構なハードルを生じさせる。

時代は第二次世界大戦から始まる。ドイツの侵略をかいくぐって米国へ逃れてきたハンガリー系のユダヤ人・ラースロー。優秀な建築家である彼が渡米後に出会う波乱万丈の物語を描いたのが本作である。

最大の驚きは、この物語が完全なフィクションであるということである。普通ならば"Based on true story"などと言って、実在した人物の生涯にドラマティックな演出を加えて見栄えの良い映画に仕立てるところを、本作は土台からすべてを作り物として構成しているのだ。これは一見自由度が高くやりやすいように見えるのだが、事実関係が不明だからという逃げ道がないと捉えると、実は結構難しいのかもしれないと感じた。

この上映時間の長さは気合いの現れなのであろう。劇中でラースローが手掛けた建築物のように、登場人物の設定や物語の展開について、詳細まで手を抜かず魂を込めて作り上げていることが伝わってきた。結果的には一切飽きが来ることなく、インターミッションの効果もあって一気に観ることができた。

前半はラースローが米国で地に足を付けた生活が送れるようになるまでの奮闘を、後半はその先の高みを目指す中で生まれる周囲との軋轢や葛藤を、それぞれしっかりと骨太に描いており見応え十分である。

しかし、観た後に浮かんだ感想はこれだった。

この話の軸って何なんだろう?

ラースローが実業家・ハリソンの下で働くことで被る受難は、ユダヤ人であったからというからだけではなさそう。才能に溢れた建築家であったが故の苦悩という方がしっくり来るが、フィクションでそのような人物を描く動機がよく分からない。

視点を変えてみる。本作はラースローの米国上陸を描く冒頭から個性的である。荘厳な音楽、小洒落たクレジットロール、リズム的にクセのあるカット割り。淡々と話が進む割りにどこか不安定さを感じながら画面を見ていた。

登場人物もそれぞれが何かを抱えていて、いつ暴発してもおかしくないように見えるのだが、結局クライマックスを派手に飾るような出来事は起こらない。ラースローの妻・エルベージェトが最後に思い切った行動に出るが、その顛末も明確に示されはしない。

こうなると、これは故意なのでは?と思えてきた。いくらでもドラマティックに、派手にしようと思えばできるのに、それを敢えてしなかったのは、物語の抑揚よりも絵面の格調高さを優先していたのではないかと。

そもそもA.ブロディを主演に据えている時点で、芸術面へ振った作品なのである。平たい顔族と正反対とも言える彼の風貌は、そこにいるだけでアドバンテージを発揮している。

と考えると何となく合点がいく。冗長であるという批判も、そりゃそうだよねと返すことになる。本作に、映画として何を求めるかで評価は大きく変わることになるのだ。

見応えはあって、よくできた作品だと思うけど、心から「あーおもしろかった」というものではない。これが正直な感想である。

(70点)
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「キャプテンアメリカ:ブレイブニューワールド」

2025年02月23日 19時06分59秒 | 映画(2025)
父娘と日米の仲を取り持つ桜の樹。


アベンジャーズのリーダーといえばキャプテンアメリカ。ここのところ振るわないMCUに喝を入れるべく、新たにキャプテンアメリカを襲名したサムウィルソンが満を持して帰ってきたという感じだろうか。

映画館で上映するMCUはほぼ全作品観ているものの、記憶が薄まったり、ドラマ版で進行されたりしてしまった分はどうしようもない。大丈夫だとは思いつつも、念のためニュース記事でネタバレにならない程度の下読みをしてから鑑賞に臨んだ。

ネタバレといえば、「大統領が赤いハルクに!」なんて言っていて、おいおいと思ったものだが、結果的にはそこまで致命傷となるものではなかった。知っておきたくはなかったが・・・。

その大統領は、アベンジャーズシリーズで常に顔を出していたサディアス・ロス。先代のキャプテンアメリカとは対立関係にあり、シビルウォーの元を作った人ですな。

ロス大統領の悩みは、娘のベティとの関係が修復できないこと。かつてハルクの騒動のときに、ベティと恋仲にあったバナー博士を追い詰めたことが尾を引いているらしい。だいぶ前の映画から引っ張ってきたものだ。

ロスは、娘に良い人間になったと思われるために、世界平和に貢献する協定を締結させようと各国首脳と粘り強く交渉を進める。私的感情丸出しで大丈夫かこのひと?と思うが、トランプ氏も大差はないか。

その協定というものが、インド洋に突然現れたアダマンチウムの塊を世界で共有しようというものであった。その塊は巨大な拳のような形をしていて、また知らない設定が出てきたと思って後から調べたら、「エターナルズ」から持ってきたネタらしい。これまた意外なところから持ってきたものだ。

そして今回の最大のヴィランはスターンズという、バナー博士の血液に汚染されて脳が肥大化してしまった人物であるが、これまた「インクレディブルハルク」以来の登場(記事では「とってつけた感が強かった」と書いている・・・)。

こうした元ネタの背景は書いているように後から調べて分かったものであり、脚本を担当した人たちのシリーズを一貫させようという努力を強く称賛したいと思うのだが、更にすごいのは、これらの知識がなくても十分にひとつの作品として楽しめたということにある。

まず、サムウィルソンが特殊能力を持っていない極めて人間的なヒーローということが良かったと思う。アクションシーンが過剰なインフレに陥らず、感情や心理に揺れ動かされる場面も多く、ストーリーとして見応えのあるものとなっていた。

キャラクターも前述の久々組に加えて、新しい人たちも続々出てきたが、それぞれが個性的で、それでいてとっ散らかることもなく、程よく整理されていたと思う。エンドロール後に「キャプテンアメリカは戻ってくる」と明言していたから、まだまだ彼らの活躍を期待しても良いだろう。

上映前の予告篇では、「ファンタスティックフォー」と「サンダーボルツ*」が流れていた。2025年はMCU反転攻勢の年になるのかもしれない。

あとおもしろかったのは、不自然なまでの日本の存在感。米国と対等、もしくは上回る外交能力を発揮して、遠洋の海洋資源を堂々と採りに行くって、どんな世界観だよと思った。中国と何かあったのか?と勘繰ってしまうくらいの変わりよう。映画は時代を映す鏡である。

(85点)
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「セプテンバー5」

2025年02月20日 22時14分28秒 | 映画(2025)
大切なのは、伝えること? 人を救うこと?


記憶に残る最も古いオリンピックは1976年のモントリオール五輪である。世界中を沸かせたのが、何と言ってもルーマニアの女子体操、コマネチの10点満点連発で、学校帰りや自宅のテレビで見たのを憶えている。

しかしその後、1980年のモスクワ、1984年のロサンゼルスは、東西冷戦の影響を強く受ける形で参加ボイコットが相次ぎ、平和の祭典と政治の複雑な関係を目の当たりにすることになった。

本作の舞台は、そうした記憶の中の五輪から少し遡った1972年のミュンヘン大会。当時のドイツは東西に分かれていて、西ドイツはこの世界的イベントを、第2次世界大戦から立ち直った姿をアピールする絶好の機会と捉えていた。

ただ、70年代といえば、革命を目指すテロリストが跋扈し、わが国の関係でも、あさま山荘事件やよど号ハイジャック事件、テルアビブ空港乱射事件といった陰惨な事件が続いた混沌の時代である。

こともあろうに、オリンピック開催中の選手村で事件は発生する。パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエルの選手やコーチを人質にし立て籠もり、最後には人質全員が殺害されるという最悪な結末を迎えたのである。

本作が描くのは、事件が勃発してから結末を迎えるまでを間近で見続けた米国ABCテレビのスタッフたちの知られざる苦闘の一部始終である。

衛星中継が始まってまだ間もない時期、全世界に中継を行うテレビ局はABCだけという中で起きた歴史的な大事件。しかも現地にいたのは報道ではなくスポーツ専門のスタッフたち。自分たちこそ伝える責務があると意気込む陰には、不適切な虚栄心が見え隠れしていた。

しかし、これはテレビというメディアが初めて直面したテロの現場。技術もなければ経験もない中で、懸命に頭をひねって現場の状況を伝えようとする執念にも似た熱い思いがひしひしと伝わってきた。

代表選手と偽り、体に録画するためのフィルムを巻き付けて、警備網をすり抜けるスタッフ。決死の思いで得た映像にちょっとした影しか映っていなくても、それは数億人の全世界の人の目を釘付けにした。しかし、その目の中にはテロ実行犯も含まれていて、結果として警察の作戦を敵に漏らすという致命的な失敗につながった。

災害対応もそうだが、経験と失敗を積み重ねてマニュアルは形づくられていく。人質全員死亡という結果を前に、自分たちの行動が正しかったのか戸惑うスタッフたち。こうした構図は今も繰り返されている。事件や事故にまったく同じものが存在しない以上は仕方がない話だ。

メディアの存在は極めて大きくなった。彼らの差配一つで人の人生なんて簡単に狂わすことができる。それ故に、強大になり過ぎたがために、最近では「マスゴミ」と呼ばれ苛烈に非難されることも増えた。このミュンヘンは、そんなメディアのいわば原点である。

映画は、誰の立場にも過度に寄り添うことなく、スタッフルームから一歩も出ることなく、加熱する状況を冷静に映し続ける。ある意味、これがメディアがとるべき姿勢の答えなのかもしれない。それでも、今日も世の中は、目の前の出来事や感情に振り回されて誤った選択をし続けている。

(75点)
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「野生の島のロズ」

2025年02月16日 15時14分02秒 | 映画(2025)
Get Wild and Tough.


地方では珍しい字幕版、しかもドルビーシネマでの上映で観ることができた。ドリームワークスの作品はひさしぶりだったが、いつの間にかオープニングが人気キャラクター登場の豪華版になっていた。

思い返せば、かつてはディズニーの対抗馬としてイルミネーションと双璧だったイメージがあるドリームワークス。配給会社の関係から、わが国での劇場公開が途絶えていた期間があったようであるが、その間にも作品は作り続けられており、折り紙付きの技術力は維持されていた。特に、アニメ映画最大の持ち味と言える、緻密で彩り豊かな情景の描写は、ドルビーシネマで観る醍醐味を味わわせてくれた。

主人公はアシスト型ロボットNo.7134。積み荷として収納されていた輸送船が事故に遭い、無人島に流れ着くとふとした弾みでプログラムが起動。人間が誰もいない中で、野生の動物にぶつかったり岩場を転げ落ちたりしながら、作業依頼を求めて島じゅうを走り回る。

動物の言葉を学習し、ある程度のコミュニケーションができるようになったある日、7134は駆けずり回る中で誤って鳥の巣の上に転落し、そこにあった卵を割ってしまう。残された一つの卵を手に取ると、まだ生きている様子。贖罪の意識があったのかわからないが、7134は卵の面倒を見ることにする。

いたずら者のキツネの妨害に遭いながらも卵は無事に孵化。産まれてきたひな鳥は、間近に見た7134を母親だと思い込んでなつくようになる。こうして7134改め"ロズ"にとって、ひな鳥改め"キラリ(Brightbill)"にエサを食べること、泳ぐこと、渡りの季節である秋までにしっかり空を飛べるようになること、の3つを教えることが新しい任務となった。

ロズはキラリを育てるうちにプログラミングに従った対処方法を放棄し、相手の心に寄り添った柔軟な対応を心掛けるようになる。喜怒哀楽こそ見せないものの、事あるごとに悩み心を痛める姿は人間の親のようであった。

動物を擬人化するアニメ作品は数多くあるが、最大の利点はキャラクター付けを強くできることにある。特に本作は、主人公が無機質なロボットという対照的な存在であることから、この設定が最大限に効果を発揮する建てつけになっている。

最もおいしい役はキツネの"チャッカリ(fink)"である。キツネのイメージのずる賢さ故に島の中でもはぐれ者であった彼は、はじめは下心を前面にロズに近付くのだが、本来の情が段々と芽生えてきて、最後には島全体を結びつけるキーキャラクターとして活躍する。

他の島の動物たちも、はじめは自分のことで手一杯であるが、キラリや島のみんなのために身を粉にして働くロズを見て、他者に対する思いやりを持つように変わっていく。きれいごととは分かっていても、この辺の下りにはほろっとさせられる。

後半は、クライマックス的な展開が幾重にも渡って訪れる。まずは秋を迎えてキラリが島を飛び立つ場面。体の小ささという困難を乗り越えて立派に旅立っていくキラリを見送るロズ。別れの光景は、子供を育てた親なら誰もが感情を揺り動かされるはずである。

そこで大団円となると思いきや、本作はここから更なる展開を見せる。キラリは渡った先で起きたトラブルで、ロズは島に通常を超える厳しい寒波が襲来したことで、ともにグループの先頭に立って困難に立ち向かうことになる。成長の先にも生活は続いていく。その生活に順応して初めて、お互いが本当に自立したことの証となるのである。

そして春になって再びキラリは島に戻ってくる。時を同じく、ロズを回収しようとロボット製作会社が送ったロボットたちが島にやって来る。自立したロズとキラリ、そして島の動物たちの運命をかけた戦いが最後のクライマックスとなる。

繰り返しになるが、キレイな話である。現実はもう少し、いや遥かに辛く厳しいかもしれない。でも、誰もが心に理想を携えていれば、少しでも良い方向に振れさせることくらいはできるのではないか。観た後にそんな希望を抱く、良い作品だと思います。

(80点)
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「ファーストキス」

2025年02月15日 22時37分29秒 | 映画(2025)
29歳と47歳が行ったり来たり。


ゾンビとタイムトラベルは、かなり多くの作品が作られているにも拘らず、まだまだ新しい切り口が発掘されているジャンルである。あまりに多くの作品が作られているものだから、ジャンル内で傾向が似通ったグループに更に細分化できる点も共通している。

本作は、時空を超える設定の中でも、「バンテージポイント」「ミッション:8ミニッツ」「ハッピーデスデイ」のような、同じできごとを何度もやり直す系の系譜に位置付けられる。

同じやり直す系でもSFとホラーでは味わいが異なるので、各作品とも見応えがあっておもしろいのだが、本作はラブストーリーということでまたひと味違うものが見られるのではないかと期待していた。

松たか子演じる主人公のカンナ。15年の結婚生活の末に夫の駈(かける)を事故で失った彼女は、デザイナーとしての仕事を続けているものの、希望を見出せない日常を送っている。

そんなある日、彼女が首都高でクルマを走らせていると事故現場に遭遇する。すると突然辺りの景色が一変して山の中のホテルにたどり着く。そこはカンナと駈が初めて出会った場所であり、日にちもまさにその出会った日に遡っていた。カンナは、この一日のできごとを変えることで駈の事故が防げるのではないかと思い、過去への旅行を繰り返す日々が始まった。

この辺の下りは、事前の宣伝などで既に見聞きしていた話であったが、実は、本作の肝はカンナと駈の15年の結婚生活にあった。フラッシュバックとして描かれる二人の結婚生活は、理想とはかけ離れた冷たいものであった。

お互いが好きであったはずなのに、相手のことを想って選んだ生き方だったのに、ズレてしまった関係を修復できず、最後には諦めて離婚届を役所に出そうとしたその日こそ、駈が事故に遭った日であった。

やり直す系の話のトリガーは、起こってしまったことを未然に防ぎたいということで、本来であれば駈の事故をなかったことにするというのが目的なのであるが、カンナが過去に戻るごとに、二人が初めて出会ったころのみずみずしい感情が強く思い出され、やり直すべきものは実は二人の関係だというように軌道修正されていく。

長生きすることが幸せなのか。早くして亡くなることは、それだけで不幸と決めつけられるのか。いかに悔いなく生きることこそが最も重要なことではないのか。人生の普遍的な問いに対して、二人が迎える結末は必然であり、もの悲しいようで実はハッピーエンドである。

と、基本的にはキレイな話で収まりよく整理できるのだが、タイムトラベルものとしては綻びが多いと言わざるを得ない。

そもそもSF要素は多分に含まれる矛盾を力技でどう抑え込むかにかかってくるのだが、どう考えてもカンナの時間ループが完成しない。そう考えると、先週今週と「金曜ロードショー」で放映しているBKTFは偉大だ。

(75点)
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「アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方」

2025年01月19日 19時01分51秒 | 映画(2025)
killerとloserのゼロサムゲーム。


近年のアメコミの映画では、本来ヴィランであるはずのキャラクターを主役に据えた作品が多く作られてきた。しかしその多くは、ヒーロー疲れもあってか商業的に成功することはなく、ソニースパイダーマンユニバースに至っては、一旦シリーズを打ち切り再出発を図ることとなった。

そのような中で公開された本作は、ハリウッドの巨大な敵であるドナルドトランプという人物がいかにして出来上がったのかを描く。つまり、ハリウッドによるリアルヴィランの前日譚物語なのである。

橋の大筋はこうである。トランプ氏ははじめから今のような人間だったわけではなく、若いころに師事した弁護士の教えに従った故にここまでのし上がって来た。

アメコミのヴィランとトランプ氏との違いは、アメコミの場合は、ヴィランと言えども主役なので観る側に感情移入させる必要があり、どうしても善良な部分を含ませなければいけないのであるが、トランプ氏の場合は反対に観る側が嫌悪感を抱く方が都合が良いという点にある。

この辺りをどう調理するのか興味深く観ていたのだが、冒頭に出てくるドナルド青年は、若くして頭角を現し始めたと言っても、名立たるセレブたちの中ではまだひよっこ。初めて入った会員制のクラブで右も左も分からずおどおどしている人間であった。

そんな彼に目を付けたのが、当時ニクソン大統領など多くの大物を顧客に持つ弁護士のロイコーンであった。「ニクソン」という名前が出た瞬間に悪役という立ち位置が決まってしまうのだが、ロイ自身なんでもありの、良く言えば「凄腕」、分かりやすく言えば「悪徳」弁護士である。

当時、自営する不動産業で住民から人種差別等の訴えを起こされ困っていたドナルドはロイにすがった。ロイはドナルドに告げる。「俺の言うことを100%聞くのだったら無償で顧問弁護士になってやる」。そこからロイによる英才教育がスタートした。

「攻撃、攻撃、攻撃」「非を絶対に認めるな」「勝利を主張し続けろ」

ロイが唱える生き抜くための3か条はすべてに優先し、時には近しい人にも無慈悲になる。最初は戸惑ったドナルドも、成功を重ねるうちに味を覚え、熱心に愛していたはずの妻や家族との間には溝ができ、ついにはロイに対しても冷たい仕打ちを見舞うことになる。

当然のことながら、本作で描かれた話がどこまで真実なのかは分からない。過剰なデフォルメやフェイクが施されている可能性も十分にあるだろう。

しかし、それを込みでなお思うのは、今の時代、このくらい冷徹にならなければ混沌する世界で立ち回ることはできないんじゃないの?ということである。そして、そう思う人が少なからずいたということが、昨年の米国大統領選の結果に結びついたと想像できるのである。

幸せに生きることと、優れたリーダーであることは、必ずしも両立しない。幸せを優先するのであれば、トランプ氏の生き方は誤りだろう。周りの者がことごとく幸せになれていない。ドナルドがkiller(勝者)になることによって兄はloserになった。作中では描かれていないが、熱愛の末に結婚した妻とは離婚し、事業も幾度となく失敗を繰り返している。

映画のチラシには「このモンスターには、創造主がいた」と書かれている。確かにトランプ氏が無慈悲な人間となったことを辛辣に描いているのだが、不思議なことに上述した「嫌悪感を抱く」という感情には至らなかった。

明日は大統領就任式が執り行われる。選挙の圧勝という結果を前にして、IT企業のリーダーは挙って式に参列し、ハリウッドは沈黙する。誰にも明日は見えていない。

(85点)
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「劇映画 孤独のグルメ」

2025年01月13日 13時34分32秒 | 映画(2025)
善福寺・・・、そちらへ行ったか。


最近の国内エンタメ事情について行けない人間が年末年始のテレビを7chに合わせる。これは必然だ。

イッキ見と言いながらも、平日夕方の繰り返し再放送や機内上映でしょっちゅう目にしていることもあって、見たことがあるエピソードもかなり多いのだが、何故か飽きることがない不思議な番組、それが「孤独のグルメ」である。

2012年に始まったこのドラマはシリーズ10を数え、区切りを祝うためか有終の美を飾るためかはまだ分からないが、ついに東宝配給作品として映画化されることになった。

井之頭五郎役として主演を務める松重豊自らが監督、脚本を担当する意欲作。どんな出来映えになっているのか確認させてもらおうじゃないか。

まずはタイトルである。本作はよくある「劇場版」ではなく「劇映画」である。ここに松重氏の拘りがあるのではないかと受け取った。テレビドラマを単に引き伸ばすのではなく、しっかり映画として土台から構成した作品であるということなのではないか。

冒頭は、予告篇などで何度も見たパリからスタートする。機内食を食べ逃した五郎がパリの街中で腹を減らし店探しに奔走する。ここはドラマの流れをほぼなぞっている。

その後も、パリでの頼まれごとを解決しに五島列島や韓国へ行ってはやっぱり腹を減らすのだが、場所もさることながらシチュエーションをそれぞれ変化させていておもしろい。

ドラマと映画の大きな違いを自分なりに解釈すると、2つに集約されるのではないかと推察する。それは、リアリティからの脱却とストーリーの大規模化である。

五島列島へ行ってからの五郎は、ドラマで言われる「空腹を満たすとき彼は自分勝手になり自由になる」という部分にエッジを利かせ、およそ常識人とは思えない行動をとる。でもここで「そんなことありえない」と拒否感を生むのではなく、ちゃんと話に引き込まれる仕組みになっているのが本作が「映画」である所以である。

そして後半は「劇」としての要素が前面に展開される。実は、本編中に何度「腹が、減った」が出てくるのか数えていたのだが、韓国から東京へ戻ってきた後に五郎が腹を減らす場面はなかったのである。

ドラマでの五郎に触れて彼の活躍を観に来た多くの観客に対し、前半はドラマの豪華版的な細かな演出の積み重ねで誘い、後半は一転して大きな物語を堪能してもらおうという、かなり綿密に計算して作られた脚本だと感じた。

本作が「令和の寅さん」になる可能性があるというネット記事を見かけた。上述のとおり、綿密に練られたひとつの作品としてキレイにまとまっていることを考えると、なかなか続篇ということにはならないと思うが、作中に散りばめられた笑いの部分やキャラクターの作り方などには「男はつらいよ」的なほっこりする昔の映画のテイストを感じることができて、そう言いたくなる気持ちは分かる気がする。

いずれにせよ、未来が見通せない閉塞感に満ちた時代だからこそ、足許の幸せを多くの人と共有できる本シリーズが求められているのだということを改めて感じた。

(80点)
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