ボランティアに関する“勘違い人種”が、我が国に於いて未曽有の災害「東日本大震災」を経験した後にも未だ平然と存在しているんだ… なる一種嫌悪感を抱かされる相談に出遭った。
その相談内容に関しては、後程紹介する事にしよう。
ところで私は「ボランティア」なる活動に対し、当エッセイ集にて幾度か反論私論を展開している。
その一つ、2011.9.10公開 「俳優向井理の自信の根源をいじくる」 なる題目のエッセイから、一部を以下に紹介させていただく。
俳優向井理氏がNHKの対談番組内で次のような発言をされた。 「ボランティア活動は自己満足でいい。」
この向井氏の発言に対し番組の最後に視聴者から同調意見が寄せられたが、これに関してはもう少し掘り下げて議論されるべき課題であると原左都子は捉える。 向井氏程の若い世代の場合、自分が何かを成し遂げそれに自らが感動(自己満足)する経験こそが大事との、その向井氏の論理自体は許されるのかもしれない。
ただ私論としては、ボランティア活動の被対象者である相手側の“ありがた迷惑”や周囲の反響までをも視野に入れ、活動の目標到達度をボランティア提供者側こそが是非共検証して欲しい思いだ。 ボランティア提供者側の自己満足がもたらす影響に対する後々までの責任を取れて初めて、ボランティア活動とはこの世に存続し続けられるのではあるまいか? これに関しては、時を改めて私論の詳細を公開したいものである。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)
まさに、その“検証の時”がやって来たとも言えよう。
それでは早速、冒頭に示した相談内容を朝日新聞 「悩みのるつぼ」より要約引用しよう。
60代の男性だが、定年後人との付き合いも減り、妻と終日顔を突き合わせてもお互い不機嫌になるだけだ。 そこでこの後の人生は何か社会のお役に立てないかと考え、「電話による自殺防止相談」をボランティアとして続け5年程になる。 活動を始めて直ぐの頃は誰からも感謝されお礼も言われ、世の役に立っていることが実感としてあった。 ところが最近では人の悩みを聞くと、自分の心の中に「優越感」が湧いてきて情けなくなる。 自分の悩みと電話相手の悩みをつい比較して、「自分は幸福だ」なる“よこしまな心”すら潜む事に気付く。 最近は活動当初のような満ち足りた気持ちがなくなりつつあるが、如何に気持ちを切り替えればよいのか? (以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」相談より要約引用。)
ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。
上記相談60代男性を仮に「A氏」と呼ばせていただく。
A氏の場合、たとえボランティアの立場と言えども、そもそも「電話自殺相談者」としての“資格や適性”を持ち合わせていない事態が歴然と推測する。
と言うよりも、この電話相談を実施している団体が如何なる自治体組織かは私が知るところではないが、「電話自殺相談者」として“ド素人ボランティア”を採用しているとは何事か!?! それ自体が所詮無理な話であるし、もしかしたら現行法規にも触れる対応とも推察可能だ。
元より定年退職後のA氏がその種のボランティアに関わってしまった事自体が、不運だったのではあるまいか?
決して諸団体は「電話相談」を甘く見てはならない。 しかもそれが「自殺相談」だとするならば、関係団体はもっと細心の留意の下に適任者こそを選抜するべきだった、としかいいようがない。
今回の朝日新聞「悩みのるつぼ」相談者は、社会学者の上野千鶴子氏であられる。
その回答内容の一部を、以下に要約して紹介しよう。
定年後に「自殺予防」の電話相談をボランティアとしてしていらっしゃるとは、まるで退職男性のお手本のような社会貢献ですね。 その立場にして、人の悩みを聞いて「優越感」が湧く…?? 貴方自身には相談前後で何の変化もないはずなのに、死にたい人を前にしたら自分の生活が幸福に思える…? それを“よこしまな心”と貴方は呼んでおられるようだが、むしろボランティアとは所詮自己満足であり、自分で自分を褒めてあげるのが最大の報酬だ。 他人からの感謝はおまけのようなものと思っていれば、ガッカリする事もない。 特に「自殺電話相談」とは待ったなしの一回勝負。 電話口の対応が悪ければ相手は二度と掛けて来ない。 切羽詰まった人には、相談者側の「優越感」などただちに見抜ける。 結局この相談のホンネは、相談者自身に飽きがきて緊張感や満足感が減っているとのことではないのか? それを「よこしまな心」などとの言葉で繕う必要など何もない。 ボランティアもいろいろだし、他にもいろいろやってみてもよいでしょう。 せめて自分に社会貢献の機会を与えてくれた人達に心から感謝しましょう。
(以上、「悩みのるつぼ」上野千鶴子氏による回答の一部を要約引用。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
上記朝日新聞「悩みのるつぼ」に相談したA氏に関してだが、こいつ 実に“鬱陶しい奴”としか表現しようがない。 正直な話、(たかが定年後のボランティア活動で単純に優越感に浸ってしまう)“単細胞低能男”を亭主に持たなかった事実を、改めて我が人生の一つの救いとみなしたい程だ。
それにしても、自治体(?)団体側の「ボランティア」採用条件とは一体如何なるものなのか??
繰り返すが、特に「電話自殺相談」など、電話を掛けてくる相手は命がけで切羽詰まっているはずだ。 そんなさし迫った現況下に於いて、電話に出た相手が定年退職後の単なるボランティア年寄り、しかも電話の話に“優越感”すら抱くみすぼらしい相談員を採用している“お粗末な事実”こそを今すぐ改善するべきだ!
世の定年後のお年寄り達がその行く末を難儀している事実は、我が家でも定年退職後の亭主及びその母や実母の面倒を看ている我が身としても、十二分に把握している。
それでも「ボランティア」とはあくまでも、我が国の現状に於いてはそれをしたいと志す側の“自己満足”にしか過ぎない事実を、老若男女にかかわらず今一度自覚し直すべきだ。
しかももっと発展した形で自分が成した「ボランティア」を、それを受ける側の身になって振り返る余力があるならば、それぞ「ありがた迷惑」更には「実質迷惑」の“恩着せがましい”行為だった事実をも慮ろう。
それが叶ってこそ、我が国に於ける真なる「ボランティア活動」の未来が訪れるのではなかろうか。
それにしても現世にごまんと溢れている定年退職男ども、どうにかならないものか??
どんだけの力量があって人の世話などを志し、自己満足に浸ろうとするのか! そんな事よりも、死ぬまで我が身を自力で振れる力こそを、定年までに備えておく事が先決問題だろうに。
その相談内容に関しては、後程紹介する事にしよう。
ところで私は「ボランティア」なる活動に対し、当エッセイ集にて幾度か反論私論を展開している。
その一つ、2011.9.10公開 「俳優向井理の自信の根源をいじくる」 なる題目のエッセイから、一部を以下に紹介させていただく。
俳優向井理氏がNHKの対談番組内で次のような発言をされた。 「ボランティア活動は自己満足でいい。」
この向井氏の発言に対し番組の最後に視聴者から同調意見が寄せられたが、これに関してはもう少し掘り下げて議論されるべき課題であると原左都子は捉える。 向井氏程の若い世代の場合、自分が何かを成し遂げそれに自らが感動(自己満足)する経験こそが大事との、その向井氏の論理自体は許されるのかもしれない。
ただ私論としては、ボランティア活動の被対象者である相手側の“ありがた迷惑”や周囲の反響までをも視野に入れ、活動の目標到達度をボランティア提供者側こそが是非共検証して欲しい思いだ。 ボランティア提供者側の自己満足がもたらす影響に対する後々までの責任を取れて初めて、ボランティア活動とはこの世に存続し続けられるのではあるまいか? これに関しては、時を改めて私論の詳細を公開したいものである。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)
まさに、その“検証の時”がやって来たとも言えよう。
それでは早速、冒頭に示した相談内容を朝日新聞 「悩みのるつぼ」より要約引用しよう。
60代の男性だが、定年後人との付き合いも減り、妻と終日顔を突き合わせてもお互い不機嫌になるだけだ。 そこでこの後の人生は何か社会のお役に立てないかと考え、「電話による自殺防止相談」をボランティアとして続け5年程になる。 活動を始めて直ぐの頃は誰からも感謝されお礼も言われ、世の役に立っていることが実感としてあった。 ところが最近では人の悩みを聞くと、自分の心の中に「優越感」が湧いてきて情けなくなる。 自分の悩みと電話相手の悩みをつい比較して、「自分は幸福だ」なる“よこしまな心”すら潜む事に気付く。 最近は活動当初のような満ち足りた気持ちがなくなりつつあるが、如何に気持ちを切り替えればよいのか? (以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」相談より要約引用。)
ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。
上記相談60代男性を仮に「A氏」と呼ばせていただく。
A氏の場合、たとえボランティアの立場と言えども、そもそも「電話自殺相談者」としての“資格や適性”を持ち合わせていない事態が歴然と推測する。
と言うよりも、この電話相談を実施している団体が如何なる自治体組織かは私が知るところではないが、「電話自殺相談者」として“ド素人ボランティア”を採用しているとは何事か!?! それ自体が所詮無理な話であるし、もしかしたら現行法規にも触れる対応とも推察可能だ。
元より定年退職後のA氏がその種のボランティアに関わってしまった事自体が、不運だったのではあるまいか?
決して諸団体は「電話相談」を甘く見てはならない。 しかもそれが「自殺相談」だとするならば、関係団体はもっと細心の留意の下に適任者こそを選抜するべきだった、としかいいようがない。
今回の朝日新聞「悩みのるつぼ」相談者は、社会学者の上野千鶴子氏であられる。
その回答内容の一部を、以下に要約して紹介しよう。
定年後に「自殺予防」の電話相談をボランティアとしてしていらっしゃるとは、まるで退職男性のお手本のような社会貢献ですね。 その立場にして、人の悩みを聞いて「優越感」が湧く…?? 貴方自身には相談前後で何の変化もないはずなのに、死にたい人を前にしたら自分の生活が幸福に思える…? それを“よこしまな心”と貴方は呼んでおられるようだが、むしろボランティアとは所詮自己満足であり、自分で自分を褒めてあげるのが最大の報酬だ。 他人からの感謝はおまけのようなものと思っていれば、ガッカリする事もない。 特に「自殺電話相談」とは待ったなしの一回勝負。 電話口の対応が悪ければ相手は二度と掛けて来ない。 切羽詰まった人には、相談者側の「優越感」などただちに見抜ける。 結局この相談のホンネは、相談者自身に飽きがきて緊張感や満足感が減っているとのことではないのか? それを「よこしまな心」などとの言葉で繕う必要など何もない。 ボランティアもいろいろだし、他にもいろいろやってみてもよいでしょう。 せめて自分に社会貢献の機会を与えてくれた人達に心から感謝しましょう。
(以上、「悩みのるつぼ」上野千鶴子氏による回答の一部を要約引用。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
上記朝日新聞「悩みのるつぼ」に相談したA氏に関してだが、こいつ 実に“鬱陶しい奴”としか表現しようがない。 正直な話、(たかが定年後のボランティア活動で単純に優越感に浸ってしまう)“単細胞低能男”を亭主に持たなかった事実を、改めて我が人生の一つの救いとみなしたい程だ。
それにしても、自治体(?)団体側の「ボランティア」採用条件とは一体如何なるものなのか??
繰り返すが、特に「電話自殺相談」など、電話を掛けてくる相手は命がけで切羽詰まっているはずだ。 そんなさし迫った現況下に於いて、電話に出た相手が定年退職後の単なるボランティア年寄り、しかも電話の話に“優越感”すら抱くみすぼらしい相談員を採用している“お粗末な事実”こそを今すぐ改善するべきだ!
世の定年後のお年寄り達がその行く末を難儀している事実は、我が家でも定年退職後の亭主及びその母や実母の面倒を看ている我が身としても、十二分に把握している。
それでも「ボランティア」とはあくまでも、我が国の現状に於いてはそれをしたいと志す側の“自己満足”にしか過ぎない事実を、老若男女にかかわらず今一度自覚し直すべきだ。
しかももっと発展した形で自分が成した「ボランティア」を、それを受ける側の身になって振り返る余力があるならば、それぞ「ありがた迷惑」更には「実質迷惑」の“恩着せがましい”行為だった事実をも慮ろう。
それが叶ってこそ、我が国に於ける真なる「ボランティア活動」の未来が訪れるのではなかろうか。
それにしても現世にごまんと溢れている定年退職男ども、どうにかならないものか??
どんだけの力量があって人の世話などを志し、自己満足に浸ろうとするのか! そんな事よりも、死ぬまで我が身を自力で振れる力こそを、定年までに備えておく事が先決問題だろうに。