NHK連ドラ「スカーレット」主人公の息子氏 “たけしくん” がドラマ終盤に至って患った 慢性骨髄性白血病 の今後が大いに気がかりだが…
それはひとまず置いておいて。
2本前に公開のエッセイ「ネットが社会を分断?? ネットにそんな大それた力は無い。」の続々編の形となるが。
このエッセイテーマとダブる内容の我がエッセイ集バックナンバーを発見した。
早速、2009.01.16公開のオリジナルエッセイを再掲載した「再掲載『自分と他人の境』と題する2019.08.16付エッセイの一部を以下に引用させて頂こう。
このオリジナルエッセイを読み直すと、今から10年程前の当時の我が“思考回路”を振り返る事が可能だ。
2度目の大学にて自分の専攻ではない「哲学」にはまった事に関しては事ある毎に触れているが、その頃の“哲学かぶれ”から未だ脱却していない我が脳内模様がやや懐かしくもある。
(冒頭から大幅略)
人はいろいろな色をその色として認識している訳だが、本当に皆同じ様に見えているのであろうか。 もしかしたら私が“赤”だと認識している色がAさんにとっては私の認識の“黄”であったり、Bさんにとっては“緑”であるのかもしれない。 言語で表されている対象物の認識の感覚とは、実は人により異なるのではなかろうか…。
この命題はまさに哲学的であり心理学的である。 金沢氏が書かれているように、この命題を実証していくためには数冊の哲学書が必要であろう。 また心理学分野においてはもう既にその解明が進展しているのかもしれない。
今のところ残念ながら私はその分野の学術知識をさほど持ち合わせていないため、ここでは専門的な話は素通りさせていただくことにする。
それにしても、「他人の感覚」とはいつの世も捉えにくいものである。 自分と他人との間には必ずや“境目”や“隔たり”が存在するのが人間関係における宿命であるようにも思える。
他人に対して好意を抱いたり興味を持ったりすると、自分とその他人との感覚を接近させ、その境目や隔たりを“超越”して自分の感覚を「他人の感覚」と融合させたい欲求に駆られるのが人情なのだが…。
他人の心とは永遠に分からないものであるのか。 それとも、科学技術の進歩により「他人の感覚」が原理的に解明できる時代がもう既に来ているのであろうか。
他人の心とはわからない方が、実は人間関係は奥が深くて面白いのかもしれない…。
(以上、本エッセイ集バックナンバーを再掲載したもの。)
このエッセイには、大変興味深い“コメント”を数多く頂戴している。
引き続き、それらのコメントを以下に再掲載させていただこう。
他人の感覚な~ (ドカドン)
2009-01-16 17:28:23
他人の感覚や感情が分かったら、世の中無味乾燥な世界になるやろな?
また、エロな事を考えていても、他人に分かるのならエロの感情を常に持っている私は、一生外を歩けない。
人は、時には自分を小出しに、時には爆発的に自分を激昂させる・・・、感情豊かに自分を表現させる方法やもんね!
他人が思う「赤」が、自分の思う「黄」ではないやろか?は、私も経験しました。
感覚の違いは、あって当たり前・・・、妻が面白い映画は、必ずしも私も面白いわけではない。
ドカドンさん、エロもすばらしい感覚じゃないですか! (原左都子)
2009-01-16 20:21:49
やっぱりドカドンさんも経験されましたか。
色って、人との感覚の違いを認識しやすい概念かもしれませんね。
でも、ドカドンさんも若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?
年齢を重ねてきますと、他人との感覚の違いって結構楽しめる要素でもありますよね。
で、ドカドンさんが持ち続けている“エロの感覚”はすばらしいじゃないですか!
人類をはじめ生物が代々にこの世に生き長らえるためには“エロ感覚”は絶大なパワーですし、必要不可欠な感覚ですよね。
ドカドンさん、今後も引き続き“エロ感覚”を失わないようにして下さいね!
錯角? (じぇーん)
2009-01-16 23:22:50
確かに好きな人とは多くを共有したいですよね。価値観が同じ人なので一緒にいて…など。
そう思い込みたいんでしょう。正確には。
でも歳をとって経験値が上がるとそうでないと気がつくことが多いような。少なくとも私は。
ところで個人でも幼少の頃と今とでは色の見え方は違うそうです。
目の水晶体に濁りが入って。幼い頃の白は今よりもっと白かった、と。
こちらも歳をとって失われるものですかねぇ…。
性懲りも無く (issei)
2009-01-17 00:04:04
前投稿のコメントでは低年齢層のおこずかい問題に触れず、いきなり中、高校生のアルバイト問題を一方的に語ってしまい、大きく的をはずしたコメントに大失笑された事と思います。今日も時間が無い。
私も他人を思いやる心とかをいつの頃から芽生えたかと言うようなことは記憶にありません。しかし、「あんなことをされたくないな」と言う記憶はずいぶん小さい頃からあったと思います。色と形の感覚は機械で計算どおりに表現したものを皆で見ているわけで絶対的な評価は出来ています。音については人により感じているものが違うようです。それは音の幅が大きく複雑で聴く人の顎と頭蓋の構造などによる差異が出るように思います。
じぇ~んさん、経験値が上がると他人の感覚の受容量が増えますね。 (原左都子)
2009-01-17 11:36:58
そうですね。
年齢を重ね経験値が上がっていく程に他者の感覚の受容量が増えて、他者との感覚のズレを楽しむ余裕ができてきたりもしますね。
そして、加齢と共に感覚的なものの見え方が変化するのと平行して、実際の体の機能の低下による老化と共に実際に見える風景も変わってくるというのは、生命体にとって合理的な身体と感覚の変遷であるのかもしれません。
今後は、既に霞がかかった頭で霞がかかった風景を楽しみたいものです!
isseiさん、問題なしです。 (原左都子)
2009-01-17 11:45:54
isseiさん、何もお気になさいませんように。
私の方こそ、返答コメントを書かせていただくときに、的外れであったり独りよがりであったりする事がしょっちゅうです。(この前も、isseiさんへの返答コメントで失敗をしでかしたばかりですが…)
特に、沢山のコメントを一度に集中して頂き、それに対する返答を一気に書かせていただく時に、上記の失敗をよくやります。
書き直せば良さそうなものですが、ついついそのままにしてしまっています。
常連のコメンテイターの方々は皆さんお心の広い方ばかりでいらっしゃり、お叱りも受けずにまた新記事にコメントを書きにいらして下さいますので、ついつい甘えさせていただいております。
音に関しては実際に聞き手によって受容している感覚が違うというのは興味深いお話ですね!
感覚と言語 (ガイア)
2009-01-17 17:11:07
冒頭から変な話ですが、私は、私の中にもう一人の私という他人が同居しているように思えます。ですから、自分の事さえ本当は分からないのです。
ましてや、他人の感覚など捉えようがありません。だからと言って他人を無視したり、付き合いをしない、という訳ではありません。
寧ろ他人の感覚を掴みたいとイマージネーションを拡げます。それが人間の人間たる所以ではなかろうか、と思います。
想像力(又は創造力でも良いと思いますが)を働かせて他人の感覚と自分の感覚が一致した時、そこに共有する慶びと価値が生まれます。言葉に言い表し難いインスピレーションの様なものを感じます。
金沢創氏が今後どの様な展開をされるのかは分かりませんが、数冊の哲学書が必要だ、とされているのはこの辺りのことを指しているのではないでしょうか。
ところで、感覚を色のみに限って言いますと、色は言語に置き換える事が多いのですが、言語に置き換えた時、他人とズレが生じるは当然です。同じ赤と言っても赤い色は無数にあります。
この無数さには民族の違いや色を職業として扱う人とそうでない人との間では大きな開きがあります。
例えばイヌイット。雪や氷に伴う色が沢山あり、それらに対応する言語もデリケートな程沢山あります。
例えば、画家やデザイナー。彼らは魔術師のように色を操ります。色に関してはそれを扱い表現出来るように徹底的にトレーニングを行います。美大の基礎科目ではデッサンと共に色彩構成の課題が嫌と言うほど課せられ、それによって色を覚えてゆきます。でも、使っていないと色を忘れ、表現できなくなります。この辺りは音の感覚と似ています。
拡大解釈をすれば言語や文章の感覚も同じだと思います。
感覚を言語に置き換えると難しいですし、ズレが生じます。言語は便利であっても、時には不便であり、無力です。
コメントの観点があらぬ方向に行ってしまった様です。
感覚の共有? (ドカドン)
2009-01-17 18:55:28
>>若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?
若い時に限らず、今も普通にそう思いますよ。
好きな人との共有が、たどり着くのが結婚の様に思いますね?共有の中には、感情や感覚、生活用品から金銭まで全てを含むのでしょうね?
若い頃の共有は、肉体的な快楽に走りそうですが、本来肉体関係の前には、心の共有があるべきなのに、性欲がその手順を狂わせてしまいます。
今の風潮は、心の共有を持ち合わさない快楽至上主義で、恋愛を進行させている様に思えるのです。
心情、感情、感覚の共有は、若い時に限らず常に持ち合わせる本能の様な部分ですが、これが出来た時、次の肉体的な共有(結び付き)に進める様な恋愛に、戻そうよと思います。
質問の趣旨から、また脱線ですかね?
Unknown(abstra)
2009-01-18 01:18:59
こんばんは。
私は、人間には他人とリンクする能力があると思っています。ただ、それを自由に操ることができないだけなのではないか、そんなふうに思います。
全てのものは、きっとどこかで繋がっている。そもそもが、それぞれ個別に存在しているという確証は何もない。
物にも感情があるように感じるときがあり、そんなときにこんなようなことを考えちゃいます。
哲学でもなんでもなくて、ただの個人的な感覚にすぎませんが。
Unknown (ガイアさん、私もそうです。)
2009-01-18 11:38:10
ガイアさん、私なんか何人もの私が心の中に内在していますよ。その一人ひとりがいろんな場面で顔を覗かせます。別に多重人格者という訳ではないのですが、そういう人間の多面性を常に味わいながら生きております。
若かりし頃は、他者に対してこういう感覚の持ち主だと決め付けてしまうことが多かったように思うのですが、加齢と共に、他者の持つ感覚の多面性を観察するキャパシティが備わってきて、人間関係の幅が広がりますよね。
そして、感覚の相違からたとえ一旦ギクシャクしても、また違った側面から別の魅力を見出す事も出来て、関係を修復する能力も備わってくるように思います。
感覚を言語で表現することは、本当に至難の業です。私など、これで失敗ばかりしているようにも思うのですが、さしあたっての表現方法として言語は便利ですので、他に表現手段を持ち合わせていない私の場合はこれを用いることになるでしょう。
訂正とお詫び (原左都子)
2009-01-18 11:39:30
上記(↑)のガイアさんへの返答コメントは名前が抜けしたが、原左都子が書かせていただきました。
ドカドンさんて、まっすぐに生きていらっしゃるイメージがあります。 (原左都子)
2009-01-18 11:54:59
こちらこそ本文の趣旨からはずれまして恐縮ですが、いつもドカドンさんのコメントを読ませていただきますと、ドカドンさんて、本当にまっすぐに真剣に生きていらっしゃる方というイメージがあります。
ドカドンさんと対比して我が身を振り返ってみますと、歪みの大きい人間であることをいつも思い知らされます。
肉体的な快楽への欲求が心情、感情、感覚の共有の手順を狂わせる…、確かにそういう恋愛も多いのかもしれません。ただ、人間とは肉体のある生命体であり、心と肉体は切り離せない部分もあると思うのです。そういう意味では肉体的な快楽も恋愛の重要な要素であり、それが先行してしまう場合もありうるのか、とも思います。
もちろん、売春や風俗など、それのみが目的である行為は私も否定しますが。
確かに、恋愛においてたとえ肉体的快楽が先行して場合も、お互いの心を、感覚を、確かめ合うことは重要ですね。
abstraさんのおっしゃる通り、全てのもののつながりが世の中を構成していますね。 (原左都子)
2009-01-18 19:56:43
abstraさんから私のブログにコメントをいただけるのは、2度目のことと認識させていただいております。
abstraさんのブログのファンである私にとりましては、とてもうれしいことであり、また、何だか返答を書かせていただくことに緊張すら感じる一瞬でもあります。
全ての存在が個別ではなく、そしてまた個別であることを信じたい私です。
もう既に年老いた私にとりましては、“個別”とは内面から欲する言葉であります。この“個別”を求めて旅する人生であるようにも感じます。
ところが、abstraさんがおっしゃる通り、生命体は決して個別には生きられません。
個別を欲する人間など、そもそも生き方を誤っているのでしょう。
それでも個別を愛する人間が存在し、それを誤った事とも認識しつつ、ちぐはぐな人との繋がりを求め彷徨いつつ生きていてもいいのではないかと、私のような未熟者はいつも思いつつ生き永らえております。
また、是非コメントを書きにお越し下さいますように。
(以上、本エッセイ集2009.01.16付バックナンバーを、頂戴したコメント群と共に再掲載したもの。)
この命題はまさに哲学的であり心理学的である。 金沢氏が書かれているように、この命題を実証していくためには数冊の哲学書が必要であろう。 また心理学分野においてはもう既にその解明が進展しているのかもしれない。
今のところ残念ながら私はその分野の学術知識をさほど持ち合わせていないため、ここでは専門的な話は素通りさせていただくことにする。
それにしても、「他人の感覚」とはいつの世も捉えにくいものである。 自分と他人との間には必ずや“境目”や“隔たり”が存在するのが人間関係における宿命であるようにも思える。
他人に対して好意を抱いたり興味を持ったりすると、自分とその他人との感覚を接近させ、その境目や隔たりを“超越”して自分の感覚を「他人の感覚」と融合させたい欲求に駆られるのが人情なのだが…。
他人の心とは永遠に分からないものであるのか。 それとも、科学技術の進歩により「他人の感覚」が原理的に解明できる時代がもう既に来ているのであろうか。
他人の心とはわからない方が、実は人間関係は奥が深くて面白いのかもしれない…。
(以上、本エッセイ集バックナンバーを再掲載したもの。)
このエッセイには、大変興味深い“コメント”を数多く頂戴している。
引き続き、それらのコメントを以下に再掲載させていただこう。
他人の感覚な~ (ドカドン)
2009-01-16 17:28:23
他人の感覚や感情が分かったら、世の中無味乾燥な世界になるやろな?
また、エロな事を考えていても、他人に分かるのならエロの感情を常に持っている私は、一生外を歩けない。
人は、時には自分を小出しに、時には爆発的に自分を激昂させる・・・、感情豊かに自分を表現させる方法やもんね!
他人が思う「赤」が、自分の思う「黄」ではないやろか?は、私も経験しました。
感覚の違いは、あって当たり前・・・、妻が面白い映画は、必ずしも私も面白いわけではない。
ドカドンさん、エロもすばらしい感覚じゃないですか! (原左都子)
2009-01-16 20:21:49
やっぱりドカドンさんも経験されましたか。
色って、人との感覚の違いを認識しやすい概念かもしれませんね。
でも、ドカドンさんも若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?
年齢を重ねてきますと、他人との感覚の違いって結構楽しめる要素でもありますよね。
で、ドカドンさんが持ち続けている“エロの感覚”はすばらしいじゃないですか!
人類をはじめ生物が代々にこの世に生き長らえるためには“エロ感覚”は絶大なパワーですし、必要不可欠な感覚ですよね。
ドカドンさん、今後も引き続き“エロ感覚”を失わないようにして下さいね!
錯角? (じぇーん)
2009-01-16 23:22:50
確かに好きな人とは多くを共有したいですよね。価値観が同じ人なので一緒にいて…など。
そう思い込みたいんでしょう。正確には。
でも歳をとって経験値が上がるとそうでないと気がつくことが多いような。少なくとも私は。
ところで個人でも幼少の頃と今とでは色の見え方は違うそうです。
目の水晶体に濁りが入って。幼い頃の白は今よりもっと白かった、と。
こちらも歳をとって失われるものですかねぇ…。
性懲りも無く (issei)
2009-01-17 00:04:04
前投稿のコメントでは低年齢層のおこずかい問題に触れず、いきなり中、高校生のアルバイト問題を一方的に語ってしまい、大きく的をはずしたコメントに大失笑された事と思います。今日も時間が無い。
私も他人を思いやる心とかをいつの頃から芽生えたかと言うようなことは記憶にありません。しかし、「あんなことをされたくないな」と言う記憶はずいぶん小さい頃からあったと思います。色と形の感覚は機械で計算どおりに表現したものを皆で見ているわけで絶対的な評価は出来ています。音については人により感じているものが違うようです。それは音の幅が大きく複雑で聴く人の顎と頭蓋の構造などによる差異が出るように思います。
じぇ~んさん、経験値が上がると他人の感覚の受容量が増えますね。 (原左都子)
2009-01-17 11:36:58
そうですね。
年齢を重ね経験値が上がっていく程に他者の感覚の受容量が増えて、他者との感覚のズレを楽しむ余裕ができてきたりもしますね。
そして、加齢と共に感覚的なものの見え方が変化するのと平行して、実際の体の機能の低下による老化と共に実際に見える風景も変わってくるというのは、生命体にとって合理的な身体と感覚の変遷であるのかもしれません。
今後は、既に霞がかかった頭で霞がかかった風景を楽しみたいものです!
isseiさん、問題なしです。 (原左都子)
2009-01-17 11:45:54
isseiさん、何もお気になさいませんように。
私の方こそ、返答コメントを書かせていただくときに、的外れであったり独りよがりであったりする事がしょっちゅうです。(この前も、isseiさんへの返答コメントで失敗をしでかしたばかりですが…)
特に、沢山のコメントを一度に集中して頂き、それに対する返答を一気に書かせていただく時に、上記の失敗をよくやります。
書き直せば良さそうなものですが、ついついそのままにしてしまっています。
常連のコメンテイターの方々は皆さんお心の広い方ばかりでいらっしゃり、お叱りも受けずにまた新記事にコメントを書きにいらして下さいますので、ついつい甘えさせていただいております。
音に関しては実際に聞き手によって受容している感覚が違うというのは興味深いお話ですね!
感覚と言語 (ガイア)
2009-01-17 17:11:07
冒頭から変な話ですが、私は、私の中にもう一人の私という他人が同居しているように思えます。ですから、自分の事さえ本当は分からないのです。
ましてや、他人の感覚など捉えようがありません。だからと言って他人を無視したり、付き合いをしない、という訳ではありません。
寧ろ他人の感覚を掴みたいとイマージネーションを拡げます。それが人間の人間たる所以ではなかろうか、と思います。
想像力(又は創造力でも良いと思いますが)を働かせて他人の感覚と自分の感覚が一致した時、そこに共有する慶びと価値が生まれます。言葉に言い表し難いインスピレーションの様なものを感じます。
金沢創氏が今後どの様な展開をされるのかは分かりませんが、数冊の哲学書が必要だ、とされているのはこの辺りのことを指しているのではないでしょうか。
ところで、感覚を色のみに限って言いますと、色は言語に置き換える事が多いのですが、言語に置き換えた時、他人とズレが生じるは当然です。同じ赤と言っても赤い色は無数にあります。
この無数さには民族の違いや色を職業として扱う人とそうでない人との間では大きな開きがあります。
例えばイヌイット。雪や氷に伴う色が沢山あり、それらに対応する言語もデリケートな程沢山あります。
例えば、画家やデザイナー。彼らは魔術師のように色を操ります。色に関してはそれを扱い表現出来るように徹底的にトレーニングを行います。美大の基礎科目ではデッサンと共に色彩構成の課題が嫌と言うほど課せられ、それによって色を覚えてゆきます。でも、使っていないと色を忘れ、表現できなくなります。この辺りは音の感覚と似ています。
拡大解釈をすれば言語や文章の感覚も同じだと思います。
感覚を言語に置き換えると難しいですし、ズレが生じます。言語は便利であっても、時には不便であり、無力です。
コメントの観点があらぬ方向に行ってしまった様です。
感覚の共有? (ドカドン)
2009-01-17 18:55:28
>>若かりし頃には自分が好きな人とは同じ感覚を共有していたいと思いましたでしょ?
若い時に限らず、今も普通にそう思いますよ。
好きな人との共有が、たどり着くのが結婚の様に思いますね?共有の中には、感情や感覚、生活用品から金銭まで全てを含むのでしょうね?
若い頃の共有は、肉体的な快楽に走りそうですが、本来肉体関係の前には、心の共有があるべきなのに、性欲がその手順を狂わせてしまいます。
今の風潮は、心の共有を持ち合わさない快楽至上主義で、恋愛を進行させている様に思えるのです。
心情、感情、感覚の共有は、若い時に限らず常に持ち合わせる本能の様な部分ですが、これが出来た時、次の肉体的な共有(結び付き)に進める様な恋愛に、戻そうよと思います。
質問の趣旨から、また脱線ですかね?
Unknown(abstra)
2009-01-18 01:18:59
こんばんは。
私は、人間には他人とリンクする能力があると思っています。ただ、それを自由に操ることができないだけなのではないか、そんなふうに思います。
全てのものは、きっとどこかで繋がっている。そもそもが、それぞれ個別に存在しているという確証は何もない。
物にも感情があるように感じるときがあり、そんなときにこんなようなことを考えちゃいます。
哲学でもなんでもなくて、ただの個人的な感覚にすぎませんが。
Unknown (ガイアさん、私もそうです。)
2009-01-18 11:38:10
ガイアさん、私なんか何人もの私が心の中に内在していますよ。その一人ひとりがいろんな場面で顔を覗かせます。別に多重人格者という訳ではないのですが、そういう人間の多面性を常に味わいながら生きております。
若かりし頃は、他者に対してこういう感覚の持ち主だと決め付けてしまうことが多かったように思うのですが、加齢と共に、他者の持つ感覚の多面性を観察するキャパシティが備わってきて、人間関係の幅が広がりますよね。
そして、感覚の相違からたとえ一旦ギクシャクしても、また違った側面から別の魅力を見出す事も出来て、関係を修復する能力も備わってくるように思います。
感覚を言語で表現することは、本当に至難の業です。私など、これで失敗ばかりしているようにも思うのですが、さしあたっての表現方法として言語は便利ですので、他に表現手段を持ち合わせていない私の場合はこれを用いることになるでしょう。
訂正とお詫び (原左都子)
2009-01-18 11:39:30
上記(↑)のガイアさんへの返答コメントは名前が抜けしたが、原左都子が書かせていただきました。
ドカドンさんて、まっすぐに生きていらっしゃるイメージがあります。 (原左都子)
2009-01-18 11:54:59
こちらこそ本文の趣旨からはずれまして恐縮ですが、いつもドカドンさんのコメントを読ませていただきますと、ドカドンさんて、本当にまっすぐに真剣に生きていらっしゃる方というイメージがあります。
ドカドンさんと対比して我が身を振り返ってみますと、歪みの大きい人間であることをいつも思い知らされます。
肉体的な快楽への欲求が心情、感情、感覚の共有の手順を狂わせる…、確かにそういう恋愛も多いのかもしれません。ただ、人間とは肉体のある生命体であり、心と肉体は切り離せない部分もあると思うのです。そういう意味では肉体的な快楽も恋愛の重要な要素であり、それが先行してしまう場合もありうるのか、とも思います。
もちろん、売春や風俗など、それのみが目的である行為は私も否定しますが。
確かに、恋愛においてたとえ肉体的快楽が先行して場合も、お互いの心を、感覚を、確かめ合うことは重要ですね。
abstraさんのおっしゃる通り、全てのもののつながりが世の中を構成していますね。 (原左都子)
2009-01-18 19:56:43
abstraさんから私のブログにコメントをいただけるのは、2度目のことと認識させていただいております。
abstraさんのブログのファンである私にとりましては、とてもうれしいことであり、また、何だか返答を書かせていただくことに緊張すら感じる一瞬でもあります。
全ての存在が個別ではなく、そしてまた個別であることを信じたい私です。
もう既に年老いた私にとりましては、“個別”とは内面から欲する言葉であります。この“個別”を求めて旅する人生であるようにも感じます。
ところが、abstraさんがおっしゃる通り、生命体は決して個別には生きられません。
個別を欲する人間など、そもそも生き方を誤っているのでしょう。
それでも個別を愛する人間が存在し、それを誤った事とも認識しつつ、ちぐはぐな人との繋がりを求め彷徨いつつ生きていてもいいのではないかと、私のような未熟者はいつも思いつつ生き永らえております。
また、是非コメントを書きにお越し下さいますように。
(以上、本エッセイ集2009.01.16付バックナンバーを、頂戴したコメント群と共に再掲載したもの。)
2019年8月現在(再掲載時)の我が心境を語ろう。
現在コメント欄を閉鎖している関係で、過去の“コメント欄の栄光”を振り返ると、いつも過去の「原左都子エッセイ集」を羨望してしまう私だ。
ならばコメント欄を再開すればよい、との結論には達しにくい。
この10年間のうちに、「ブログ」を取り巻く環境が大きく変遷した気がする。
ブロガー間のマナーが向上したとの利点と並行して、ブロガー同士の関係性が希薄化している感を抱く。
この10年で私自身も年齢を重ねた。 10年前の“新鮮味”が私の内部に未だ存在するのかどうかも疑問だ。
コメント欄を閉鎖している現在の「原左都子エッセイ集」とて、もちろん“悪くはない”。
これはこれでブログ上の対人関係という“面倒臭さ”も無く、執筆の自由度が高まっているとも解釈可能だ。
とにかく、今はこれで納得しよう。
(以上、2019.08 当該エッセイの再掲載版を引用したもの。)
2020.03.10、今現在の私論でまとめよう。
と思ったが、上記8ヶ月前に記した再掲載版にその私論がきちんとまとまっていることに今気づいた。
その回答とは、まさに丸ごとその通りだ。 付け加える事は無い。
今一度丸ごと反復するならば。
現在コメント欄を閉鎖している関係で、過去の“コメント欄の栄光”を振り返ると、いつも過去の「原左都子エッセイ集」を羨望してしまう私だ。
ならばコメント欄を再開すればよい、との結論には達しにくい。
この10年間のうちに、「ブログ」を取り巻く環境が大きく変遷した気がする。
ブロガー間のマナーが向上したとの利点と並行して、ブロガー同士の関係性が希薄化している感を抱く。
この10年で私自身も年齢を重ねた。 10年前の“新鮮味”が私の内部に未だ存在するのかどうかも疑問だ。
コメント欄を閉鎖している現在の「原左都子エッセイ集」とて、もちろん“悪くはない”。
これはこれでブログ上の対人関係という“面倒臭さ”も無く、執筆の自由度が高まっているとも解釈可能だ。
とにかく、今はこれで納得しよう。
ならばコメント欄を再開すればよい、との結論には達しにくい。
この10年間のうちに、「ブログ」を取り巻く環境が大きく変遷した気がする。
ブロガー間のマナーが向上したとの利点と並行して、ブロガー同士の関係性が希薄化している感を抱く。
この10年で私自身も年齢を重ねた。 10年前の“新鮮味”が私の内部に未だ存在するのかどうかも疑問だ。
コメント欄を閉鎖している現在の「原左都子エッセイ集」とて、もちろん“悪くはない”。
これはこれでブログ上の対人関係という“面倒臭さ”も無く、執筆の自由度が高まっているとも解釈可能だ。
とにかく、今はこれで納得しよう。
そういう事だ。
そこで本日は観点を変えて、何故私が2011年末頃にコメント欄閉鎖措置を執ったのかを思い返してみた。
その第一の理由とは、やはりブログを取り巻く環境が少しずつ移ろい始めた事実であろう。 エッセイを公開すればすぐさま怒濤のごとく押し寄せていたコメント群に陰りが見え始めていた時期だった。
常連コメンテイターが激減し、新入りコメンテイター達に入れ替わる中。
申し訳ないが、コメント内容に学際色が低下し始め、寄せられたコメントを読ませて頂いても、我が内面から湧き出る感動も薄らぐことを実感させられる日々だった。 特に新入りコメンテイター氏達のコメント内容に感情移入出来ず、それに返答を書くことが“義務”のようにすら思えて来てしまい…
そして思い切って2011年末頃に私はコメント欄を閉鎖し、現在に至っている。
このように分析・考察してくると、我がブログがコメント欄を閉鎖したのは、ネット世界の移り変わりと共に必然的行動だったと結論付けられよう。
誰とて、時代の変遷には逆らえないものだ…