ここ数年、公立私立を問わず中高一貫校が急増している。
昨日(1月15日)の朝日新聞夕刊一面記事に、特に大都市圏において高校からの生徒募集をやめて中高一貫校化する私学が急増している現象が取り上げられている。
この記事には、少子化により学校間の競争が激しくなる中、早い段階で生徒を囲い込み、6年一貫教育で進学実績を伸ばしたいという私学の思惑や、中高一貫組と高校からの入学組とで授業の進度を変える「二度手間」を学校が嫌う風潮があることが記載されている。 一方、公立中学からは「優秀な子が私立に流れてしまう」との嘆きが聞こえるとも記載している。
特に数が多く学校の「生き残り」がより激しい女子校でこの一貫校化が目立つ。08年2月の入試から高校募集を停止する東京の某女子校の校長は「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。首都圏での中学受験ブームも追い風になった。」と話しているらしい。
事実、首都圏での小学6年生の今春の私立・国立受験率は過去最高だった今年度を若干上回り、17、7%に上昇すると推計されている。すなわち、今春、首都圏では6人に1人が中学受験に臨むことになる。
この中高一貫校急増のマイナス面としてこの記事では、似たような境遇の生徒ばかりがずっといっしょにいることで、社会性が欠如することを心配する声もあがっていること、また、公立中学側からは、「クラスを引っ張る優秀な生徒が私立に行ってしまうと、公立中はリーダーを育てることから始めなくてはいけない」こと、及び、高校受験の選択肢が狭まること、につき記載している。
さて今回の朝日新聞の記事は、上記のごとく、中高一貫校の急増に対する学校側の言い分につき報道したものであるが、こういう問題は本来子ども及び保護者の立場から議論されるべきである。
私見を先に述べると、生徒、保護者の多様性を考慮した場合、学校選択における選択肢が多いに越した事はない。子どもの能力、個性、適性及び家庭の経済事情等に見合う学校を自由に選択できる社会であるべきである。 そのような意味では、極端に中高一貫校が急増してしまうとアンバランスが生じ、一部の生徒の選択の幅が狭まるという弊害が出現する危険性がある。
上記の記事の中に「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。」とあるが、この記述に関しては信憑性が低いと私は考察する。公立の一貫校誕生後まだ2,3年しか経過しておらず、その真価の程については実証されているとは言い難い。
結局、中高一貫校化は学校側の早期生徒囲い込み、及び教育の効率化、すなわち、学校側の経営事情改善に重点があると見るのが妥当であろう。
一貫校化に対するマイナス要因としてあげられている“似たような境遇の生徒ばかりがずっと一緒にいることで社会性が欠如する”という考え方であるが、これは以前より私立学校全般に関してよく言われている言葉である。私見であるが、この記述も信憑性が低い。確かに私学は公立とは異なり各校の教育理念や校風に特徴があるのは事実だが、集まってくる生徒の個性は様々であり、家庭環境も様々である。ましてや、子どもは学校のみが生活の場ではない。子どもの価値観形成は様々な環境から影響を受ける。私立に進学したからと言って社会性が欠如するなどあり得ず、取り越し苦労、あるいはあくまで仮説の域を超えていないとしか言えないのではなかろうか。これは一貫校化のマイナス要因とは成り得ない。
一方、公立側からの“クラスを引っ張る優秀な子が私立に行ってしまう”という記述も短絡的な発想としか言いようがない。国立私立受験の現状は、偏差値のみにより支配されていると言っても過言ではない。偏差値の高さイコール“優秀”では決してないことを教育者であるならば心得ているべきだ。 このブログのバックナンバー「組織論におけるパワー概念」でも既述しているが、人間の持つ“パワー”は多様である。クラスをひっぱる“優秀”な子どもは公立私立いずれにも偏差値にはかかわりなく必ず存在するものである。これも取り越し苦労、いや、偏見としか言いようがない。公立学校現場の教育者は、自校の生徒の能力をもっと信じて、3・3制に自信を持って常々子どもの教育に臨むべきである。
という訳で最後に私論の結論を導くが、中高一貫化は学校側の経営の効率化が主たる目的であり、一時の流行現象と結論付けたい。
教育の場はあくまで多様で選択の幅があるべきである。中高一貫校が存在してもよいのだが、それがアプリオリの善であるとは考えにくい。人間は環境が変わることにより成長できることも多い。6年一貫を選択するか、3、3制を選択するか、それは個人の自由である。このまま、中高一貫化が進み続けるとは考えにくい。いずれ自然淘汰されていき、両者が切磋琢磨しつつ存在し続けることであろう。
昨日(1月15日)の朝日新聞夕刊一面記事に、特に大都市圏において高校からの生徒募集をやめて中高一貫校化する私学が急増している現象が取り上げられている。
この記事には、少子化により学校間の競争が激しくなる中、早い段階で生徒を囲い込み、6年一貫教育で進学実績を伸ばしたいという私学の思惑や、中高一貫組と高校からの入学組とで授業の進度を変える「二度手間」を学校が嫌う風潮があることが記載されている。 一方、公立中学からは「優秀な子が私立に流れてしまう」との嘆きが聞こえるとも記載している。
特に数が多く学校の「生き残り」がより激しい女子校でこの一貫校化が目立つ。08年2月の入試から高校募集を停止する東京の某女子校の校長は「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。首都圏での中学受験ブームも追い風になった。」と話しているらしい。
事実、首都圏での小学6年生の今春の私立・国立受験率は過去最高だった今年度を若干上回り、17、7%に上昇すると推計されている。すなわち、今春、首都圏では6人に1人が中学受験に臨むことになる。
この中高一貫校急増のマイナス面としてこの記事では、似たような境遇の生徒ばかりがずっといっしょにいることで、社会性が欠如することを心配する声もあがっていること、また、公立中学側からは、「クラスを引っ張る優秀な生徒が私立に行ってしまうと、公立中はリーダーを育てることから始めなくてはいけない」こと、及び、高校受験の選択肢が狭まること、につき記載している。
さて今回の朝日新聞の記事は、上記のごとく、中高一貫校の急増に対する学校側の言い分につき報道したものであるが、こういう問題は本来子ども及び保護者の立場から議論されるべきである。
私見を先に述べると、生徒、保護者の多様性を考慮した場合、学校選択における選択肢が多いに越した事はない。子どもの能力、個性、適性及び家庭の経済事情等に見合う学校を自由に選択できる社会であるべきである。 そのような意味では、極端に中高一貫校が急増してしまうとアンバランスが生じ、一部の生徒の選択の幅が狭まるという弊害が出現する危険性がある。
上記の記事の中に「公立にも一貫校が生まれ、一貫教育のよさが広く認められてきている。」とあるが、この記述に関しては信憑性が低いと私は考察する。公立の一貫校誕生後まだ2,3年しか経過しておらず、その真価の程については実証されているとは言い難い。
結局、中高一貫校化は学校側の早期生徒囲い込み、及び教育の効率化、すなわち、学校側の経営事情改善に重点があると見るのが妥当であろう。
一貫校化に対するマイナス要因としてあげられている“似たような境遇の生徒ばかりがずっと一緒にいることで社会性が欠如する”という考え方であるが、これは以前より私立学校全般に関してよく言われている言葉である。私見であるが、この記述も信憑性が低い。確かに私学は公立とは異なり各校の教育理念や校風に特徴があるのは事実だが、集まってくる生徒の個性は様々であり、家庭環境も様々である。ましてや、子どもは学校のみが生活の場ではない。子どもの価値観形成は様々な環境から影響を受ける。私立に進学したからと言って社会性が欠如するなどあり得ず、取り越し苦労、あるいはあくまで仮説の域を超えていないとしか言えないのではなかろうか。これは一貫校化のマイナス要因とは成り得ない。
一方、公立側からの“クラスを引っ張る優秀な子が私立に行ってしまう”という記述も短絡的な発想としか言いようがない。国立私立受験の現状は、偏差値のみにより支配されていると言っても過言ではない。偏差値の高さイコール“優秀”では決してないことを教育者であるならば心得ているべきだ。 このブログのバックナンバー「組織論におけるパワー概念」でも既述しているが、人間の持つ“パワー”は多様である。クラスをひっぱる“優秀”な子どもは公立私立いずれにも偏差値にはかかわりなく必ず存在するものである。これも取り越し苦労、いや、偏見としか言いようがない。公立学校現場の教育者は、自校の生徒の能力をもっと信じて、3・3制に自信を持って常々子どもの教育に臨むべきである。
という訳で最後に私論の結論を導くが、中高一貫化は学校側の経営の効率化が主たる目的であり、一時の流行現象と結論付けたい。
教育の場はあくまで多様で選択の幅があるべきである。中高一貫校が存在してもよいのだが、それがアプリオリの善であるとは考えにくい。人間は環境が変わることにより成長できることも多い。6年一貫を選択するか、3、3制を選択するか、それは個人の自由である。このまま、中高一貫化が進み続けるとは考えにくい。いずれ自然淘汰されていき、両者が切磋琢磨しつつ存在し続けることであろう。
また、本来勉強、学業とはひとりで取り組むものとも考えます。指導者の役割はあくまでもそのサポートでよいのではないかと思います。
上記2点をつきつめると、極論として学習の場としての学校が不要になってしまうのですが、学校の果たす役割は集団生活の中での社会性の育成のみでもよいかとも考えるほどです。
諸外国のように年齢にかかわらず学業に励むと言う発想が日本にはまだ定着しておらず、人格形成途上の思春期に厳しい受験戦争に臨まざるを得ない現状です。今後は学習時期の自由度がもっと高まり、年齢にかかわりなく学業に励める環境がもっと一般的になることを、36歳で修士を取得した私は期待しております。
そのためには労働環境等、社会的な基盤の大きな転換も要しますが。
記事の趣旨からはズレますが、常々考えている私見を語らせていただきました。
私は学校が全く進路指導(受験指導)をしないので、大学入試の直前に苦労した経験がありますが、「与えられること」に慣れすぎると、人間は自ら苦労して手に入れる意欲を失うものです。そういう意味では苦労が実って今日があるのかなと思います。
先生方は本当に「ゆとりのかたまり」のようでした。
新しくスタートした中高一貫校については、まさに「ゆとり見直し」の学習指導要領へ改訂されようとしている時期にたくさん生まれたことが、唯一の悲劇のように思えます。
しかし、もし学習に重点がおけるような(生活指導の苦労がないという意味)環境の学校は、ゆとりのかたまりのように思えます。
本来の趣旨に沿った学校づくりができるかどうかは、教師がせっぱ詰まったような切迫感を身にまとっているか、「本物のゆとり」のオーラを放っているかで判断ができそうです。
中高一貫校導入の第一義が「ゆとり」であったことを初めて知りました。
実は我が子も現在中高一貫コースを歩む中学生で高校入試は経験せずに済むのですが、その分日々の学習の積み重ねに重点をおく教育方針の学校に在籍しておりまして、決して「ゆとり」はありません。ですが、学習の仕方としては受験時のみに集中するより理想的かと捉えております。
私は、学校の評価が大学進学実績でなされている現状を憂えてもおります。もっとグローバルな視野で総合的な評価がなされるべきです。例えば、そのひとつとして教師の指導力が挙げられるでしょう。
ランキングが好きな国民性のようですが、学校はランキングではなく子どもの個性や適性に応じて選択するべきでしょう。本文にも記載しましたが、その選択肢が多様であることを望みます。
kurazohさん、また是非お立ち寄り下さい!
以後、各自治体が実状に応じて計画し、長期の準備期間を経て、開校され始めました。
第一次答申の「ゆとり」の重要性を強力に引き継いだため、意義(メリット)の第一には高校入試がないことによるゆとりがあげられています。
デメリットとして、受験準備の低年齢化や受験のための教育に偏るおそれが指摘されていますが、これを受けて、中高一貫校では「学力検査」が実施できないことになりました。実質は学力検査ですが、教科の色を混合させ、「適性検査」という名で実施されています。
中高一貫校からは、「優秀な生徒は集めたのはいいが、教師がその能力を伸ばしきることができるか」が課題であるという話を聞いたことがあります。
もちろん大学進学だけで実績をはかるのは問題はありますが、中高一貫校への信頼度が左右される数字であることは間違いありません。
まったく、学校現場ほど“人材育成”概念が取り入れられていない職場は他にないと言っても過言ではないと私も常々思っています。
教師の質の向上に対する制度化がやっと稼動し始めているようですが、教師の評価制度も含め、子供達の明るい未来のため、第三者の立場からも今後の教育制度の充実に目を光らせていたいと思います。
OTTO@平成マンション物語です。
今回もとても興味深い記事ですね。
ありがとうございます。
私も健全な教育の維持、発展のためには、両者が切磋琢磨していくことが大切だと思います。
また、形式的な仕組みのことよりも、学校としては、公立にしろ私立にしろ、教師の質の向上を目指さねばならないと思います。
公立では、先生の評価さえなかったのですから。評価すればいいというものではありませんが、「ない」ということも本来許されるものではないと思います。
また、評価をしたことも「ない」のですから、公正な第三者を入れて、どのように教師の評価をしていくべきか議論するべきだと思っています。
工場と同じく、鍵は、人材育成ですね。
今後ともよろしくおねがいします。
以上