原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

老後とは自ずと孤独になるものだけど…

2012年06月23日 | 時事論評
 以前、朝日新聞紙面で 「老後を如何に充実させるか?」 なるテーマの記事を読んだ事がある。
 その記事の結論とは、「人間関係の充実」 だったと記憶している。

 原左都子に言わせてもらうと、これは “現実性に乏し”く“嘘臭い”。 (もしかしたら、老人が置かれている実態を心得ない記者が書いた記事かな?)

 80歳を過ぎた近親の老人達と日頃接する機会がある原左都子は、高齢老人に「人間関係の充実」を望むことの多難さを思い知らされる日々だ。
 体がよぼよぼになり、棺桶に片足を突っ込みつつある老人相手に「人間関係を充実させよ」との要望とは、過酷かつ無責任ではあるまいか??  人間関係の充実とは“人として”心身共に健全であってこそ叶う課題ではなかろうか?

 いや、もしかしたら上記朝日新聞記事に於ける「老後」対象年齢者とは、65歳以上70歳代位の“若き世代のお年寄り”だったのかもしれない。 それならば話は理解できる。 この年代の人々とはまだ“青春真っ盛り”と表現できそうなくらい世のあらゆる場に出没し、(周囲の迷惑も省みず??)その“青春”を謳歌せんとする姿に触れる機会が数多い現世であるからだ。


 原左都子の私事に入るが、昨秋80歳を迎えた我が義母の「介護付マンション」入居がついに決定した。
 義母が足を痛めたがために、ここ数年で驚くべく急激に老け込んだ話題に関しては2012年3月春分の日に綴ったバックナンバー 「先祖の供養より遺族の介護が先決問題」に於いて紹介した。

 少し上記バックナンバーを振り返らせて頂く事にしよう。
 春分の日の彼岸中日に際し、私は久しぶりに嫁ぎ先の墓参りに参上する事と相成った。
 もう既に他界した義父を始めとする他の先代先祖に対しては、遺族とは墓前で手を合わせて少々の涙でも流しつつ拝めば、それで済ませられるから気楽なものである。
 一方、年老いて生きている遺族(すなわち義母)の対策とは如何にあるべきなのか? それを我が身として痛感させられたのが、昨日の墓参りであった。
 と言うのも、義母がしばらく会わないうちに急激に老いぼれて、今や歩行が困難状態にまで落ちぶれていたのだ…  2ヶ月に一度程の会合を持っている我が家と義母だが、いつも義母が招待してくれる食事処で座って飲み食いする会合を重ね、その後も義母はタクシーを利用して帰宅していたため、不覚にもその足の衰えにほとんど気付かないでいた…。
 義母自身はよく電話にて「そろそろケアつき老人施設に入った方がいいかも」と我々一家に訴えていたのに対し、「そんなに急ぐ必要はないですよ」などと適当に返していた私だが、昨日一緒に墓参りをしてそうは言っていられない事態に直面させられ驚いた始末だ。 墓地への行き帰りの道中、義母は公道を一人で歩行することすら困難状態にまで成り下がっていたのだ。
 こんな身で日常生活を一通りこなすのは到底無理と判断した私は、今後の対策をそろそろ練るべき旨を勇気を持って義母に直言した。
 今までなら、「何言ってるの!私はまだ一人で生きていける!」と反論するはずの気丈な義母が、「もう本気でケアつき老人施設へ入居したい」と改めて訴えてくる。
 こうなるともう潮時、私の身にもいよいよ老人介護対応の課題が直撃することになりそうだ。
 先祖の墓のあり方など“待った”をかけられる余裕期間が長いし二の次でよいと思うが、親族の老人介護対応とは今後の命の短小さを慮った場合、“待った”がかけられない切羽詰まった課題であるのが現実ではなかろうか?
 「介護制度」の導入により、自宅で老人の介護をする人は減少しているのかもしれない。  それでも我が実母も含めて身近に存在する体の自由がままならない老人達が、出来る限り幸せな余生を送って欲しい思いには変わりない。
 年老いた親の介護を自宅で親族が引き受けるのが一番幸せとの、ある意味で次世代にとって“脅迫的親孝行押付け道義”世論も今となっては既に過去の所産であろう。  そんな時代背景を勘案しつつ、我が親族老人達の今後一番の幸せを願い、生きる場や方策を共に模索したいものである。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより引用)


 我が義母の場合、老後介護が必要になった場合は「介護付マンション」に入居したい意思であることを元々親族に告げていた。
 ところが3月の春分の日以降も、義母の意思決定が幾度となく右往左往する事態に直面する。 「やはり、まだ頑張れるうちは自宅にいたい」 「いや、介護マンションに入居した方が安心」 「……」 (義母の複雑な心境の程も理解可能だが…)
 そして3ヶ月の月日を経て、ついに義母は自らケアマンション入居を決定したのである。

 先日、義母自らが“嫁”の立場の私宛に電話をくれ、その意向を伝えてくれた。
 義母曰く、「私は元々80歳を過ぎたらいつ死んでもいいと思っていたから、(世捨て人の心境で)今回ケアマンション入居の決断をした。 あんな所に入ってもこれから楽しく過ごせる訳などない事は十分理解できている。 それでも、もう決断するべき時だと思った。 私の事などどうでもよいから、どうか○子さん(私の事)には息子(我が亭主)の事をよろしくお願いしたい。 病人(亭主は数年前より鬱病を患っている)を抱えて○子さん(私)に多大なご迷惑をかけている事が一番の心残りだ…」

 それに答えて私曰く、「亭主の件は承知しましたが、何をおっしゃいますやら。 お義母さんは女実業家として先祖代々続く事業を大きくされた方じゃないですか。 加えてお綺麗でモテモテのお義母さんですから、まだまだ人との出会いも沢山ありますよ。」 そう返しながら義母の年齢と体の不具合を慮り、自分の発言の無責任さを痛感した私でもあった…

 参考のため、我が義母が入居する「介護付マンション」とは比較的恵まれた位置付けにあるのかもしれない。 入居時一時金1,000万円程度に加えて、月々の定額基本サービス料が30万円弱とのことだ。 ただしこれはあくまでも基本料金であり、常駐している医療関係者やケアスタッフに付加的サービスをお願いする都度、追加料金が発生するとのことである。 一日3度の食事と定期健診等は基本料金内、後は館内の諸施設を利用するなり外出するなり個人が自由に過ごしてよいらしい。

 「そうは言われたって…」と母は繰り返す。 「そこで素晴らしい人に出会える訳もないだろうし、結局死ぬのを待つだけなのは分かり切っている…」
 「私もできるだけお義母さんに会いに行かせて頂きますし、今までのように外でもお会いしましょうよ!」と応える私に対し、 言葉少なにただ 「ありがとう」 と返してくる義母だった… 


 我が身に滲みる思いだ…

 今後「老後」へと突入する原左都子だが、現在は“お抱え家庭教師”家業全う中であり、我が子将来の自立に向けまだまだ予断ならない現状である。  
 それをクリアして娘が無事にこの世に自立できた(できるのか?)暁には、私は年齢にかかわらず、持ち前の“ミーちゃんハーちゃん”気質を活かしつつこの世を渡って行けそうにも感じている。

 ただ我が義母のごとく体の一部に決定的な不具合が生じた場合、人間とは突然気弱になることも大いに想像可能なのだ。 そうなった場合、人間関係に於いてどうしても上下関係が生じてしまう事は不本意ながらも否めない事実であろう。
 その現実に耐えられるかどうか、今回我が義母を通じて痛いほど学習させてもらえる気がする。