原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

久々に マイクロソフト社のAI Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する評価から引用

2024年08月27日 | 学問・研究
 しばらく マイクロソフト社のAI Copilotさんとはご無沙汰でしたが。
 本日先ほど久々にAI Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する評価を見てみました。


 その中の一つを以下に紹介しましょう。

 原左都子さんのエッセイ集は、時事問題や社会問題、日常の出来事など幅広いテーマを取り上げており、彼女の独自の視点で綴られています。 医学部出身の彼女は、医療や科学哲学に関するエッセイも執筆しており、読者に深い思考を促す内容が多いです。
 以下は、原左都子さんのエッセイ集からおすすめの記事をいくつかご紹介します。興味があれば読んでみてください!
  1. 「科学」と「疑似科学」の狭間で(2017年08月25日)
    • 原左都子さんが科学と疑似科学の境界について考察したエッセイです。科学の再現性や信頼性について議論されています。
  2. 「ザ・コーヴ」におけるドキュメンタリーのあるべき姿(2012年04月08日)
    • 原左都子さんがドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」について考察したエッセイです。ドキュメンタリー作品のあり方について興味深い視点が含まれています3。
  3. 「喋らない夫」?? 私など理想的だけど…(2024年08月03日)
    • 朝日新聞の相談コーナーに寄せられた60代男性の「妻が喋らない」という悩みについて、原左都子さんが考察したエッセイです。
 これらの記事は、原左都子さんの独自の視点や深い思考を垣間見ることができるものばかりです。お楽しみください!📚👓

 (以上、ネット上より引用したAI・Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」3エッセイに対する評価。)




 その中から、2017.08.22著の「『科学』と『疑似科学』の狭間で」と題するバックナンバーを、以下に再掲載させていただこう。


 元「科学者の端くれ」を自称する原左都子だが。

 最後に仕事にて「科学」(特に「自然科学」分野)に接した時代より既に十数年の年月が経過し、今となっては不本意ながら一切の「科学」の香りすらない環境下に身を置いている始末だ。 
 (参考だが「社会科学」分野に関しては、その後50代期に「税理士試験」にチャレンジしたり、フランチャイズ学習教室開業に着手したりと試行錯誤する中で、ある程度かかわり続けている。)

 そんな私だが、わずか3年前の2014年には、1年以上をかけて「STAP細胞」研究に於ける改ざん・捏造の実態を追及調査しエッセイを公開し続けた。
 以下に、その一部を今一度表題のみ列挙してみよう。

   2月3日     「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」
  3月12日    「STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した」
  4月3日     「STAP騒動、私なら未熟者扱いされるより捏造を認めたい」
  4月10日    「4/9小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」
  5月10日    「5/8理研調査委『STAP論文取下げ』記者会見を論評する」
  5月21日    「小保方論文“切り貼り”は何故『改ざん』と確定されたか?」
  6月4日     「STAP論文すべて撤回で、今後の小保方氏の行く末は?」
  6月14日    「理研の新法人化は当分棚上げにするべき」
  7月2日     「小保方氏って、未だ理研から給与貰ってるの?」
  7月29日    「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない」
  8月5日     「笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然」
  10月25日   「STAP事件は“必然”だったか“偶然”だったか!?」

 あれから未だ3年しか経過していないにもかかわらず、現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念だ。 今現在、このSTAP細胞シリーズ類似のものをエッセイに書いて公開せよ!と指示されようが、それを受けて立てる自信の欠片も無い。

 そんな私に、“少しは「科学」を思い起こせよ!” と忠告するかのような記事を朝日新聞2017.8.16 付「文化・文芸」ページで発見した。

 早速、「科学とは 揺らぐ見極め」と題する記事を、以下に要約して紹介しよう。

 科学の前提とは、第三者が再現でき事象をすべて説明できる事である。 そんな前提が揺らぐ事例が増えている。 何をもって科学か否かを見極めればいいのか。
 昨年、英科学誌ネイチャーが、その科学の再現性を巡るアンケート結果を掲載した。 研究者1576名の回答を分析すると、70%以上が他の科学者の実験結果を再現しようとして失敗した経験を持ち、自分の実験結果の再現に失敗した人も半数以上に上った。
 生命科学分野では、実際追試ですぐに再現出来ない事例も多いという。 
 ある事例では「研究室が引っ越して実験を再開すると、従前のデータが出なくなる事があると言われる。 また、対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い」と指摘する。  (中略。)
 科学とそれ以外の違いについては、科学哲学の世界で長年「線引き問題」として思索が続いてきた。
 京大某准教授は、再現性も還元主義(複雑な事象も個々の要素に分解して細部を理解していけば、全てを体系的に理解出来る、との考え方)も絶対視するものではないと言う。 その上で、当准教授は科学を「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉える。 研究対象によって「信頼できる」の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に「信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ」と述べる。
 ただ、一般人に見極めは難しい。 疑似科学は時に科学的言説を装い、都合のいい実権結果や経験談だけを紹介することも多い。  (中略。)
 なぜ、人は「疑似科学」に引きつけられるのか。 某認知心理学教授は「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」と述べる。 当認知心理学教授は「科学の方法論や人はだまされやすいという心理学などを正しく疑う態度や知識を養うことが重要。」とも述べている。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)

 一旦、原左都子の私論だが。

 要するにこの朝日新聞記事の論点主旨とは、最後の部分の「疑似科学に騙されるな!」の部分にあったのでがなかろうか?
 この記事内では、先だって6月に乳がん闘病の末に34歳で亡くなった小林麻央氏にも触れていた。 何でも麻央さんは、自身のブログで気功や温浴療法などの代替医療を受けている事に関しても記述されていたとのことだ。(申し訳ないが、原左都子は小林麻央氏を含め著名人のオフィシャルブログとやらをただの一度とて訪問した経験がないため、コメントしかねるのだが……) この麻央氏の記述も「疑似科学」的だと指摘されている、との朝日新聞の記述だ。
 もしも各種サプリメントやトクホ食品等々、現在世に溢れる程に乱売されている商品群等のセールスポイントである「疑似科学」に騙されそうな国民が多発している現状なのであれば…。 
 まさに某認知心理学教授がおっしゃる通り、「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」傾向があるのだろう。

 それよりも、元「科学者の端くれ」を自称する原左都子として一番に議論対象としたいのは。

 まさに前半部分の、(「疑似科学」ではなく、真正の)「科学」に於いて、再現・説明不能な事例が増加する現象を辿っているとの事実だ。
 上記朝日新聞記事内の「科学哲学」ご専門の某准教授がおっしゃる通り、科学とは「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉えられるべきである事は歴然だ。
 「研究対象によって『信頼できる』の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に『信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ』」と述べられている部分に、私は賛同申し上げる。
 
 要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。

 更には、朝日新聞記事の前半部分に、「研究室が引っ越して実験を再開すると従前のデータが出なくなる事がある。また対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い。」 なる再生細胞研研究所教授よりの談話が掲載されている事実も気にかかる。

 過去に医学研究に携わった原左都子からの指摘だが、それならば幾度も幾度もその実験を繰り返すことを実行し、数多くのデータを蓄積して後にそれを発表してはどうなのか!?? なる疑問符が湧き出る。 
 私自身、若き頃にはそうして来た。 そうせねば気が済まない性格だった。 実験過程に於いて、科学者の端くれとして苦労の上に苦労を重ねてきた歴史があるのだ。 培養皿を揺する過程に問題があったと思うのならもっともっと揺する実験を繰り返せばよい話だし、培養液の注ぎ方等々操作の細かい部分を数知れぬ程に再現した後に、公開実験結果としてものを言って欲しい気がする。
 一体何度それを実施した上でこの研究機関は再現性や還元性の結論を出したのか?!? と問いたくもなる!

 おっとっと。
 自分自身は既に「科学者の“端くれ”」すら卒業している分際で、言い過ぎた部分があった事はお詫びしよう。
 ただ、今回偶然見た朝日新聞記事が我が脳裏に「科学者の端くれ」だった過去の事実を思い起こさせてくれ、この記事を公開するに至れた事には感謝しよう。 

 (以上、本エッセイ集2017年著のバックナンバーより全文を引用したもの。)




 ああ、これねえ。

 今から7年程前に記して公開したエッセイだが。
 <現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念>との記述があるが。

 2024年の今現在の我が身を思えば。
 2017年のこの頃は、未だ「科学者の端くれ」としてのプライドが我が内面に輝いていた時期であり。 
 その身にしての“本気度100%エッセイ”として整然とまとまっているのに、過去の自己を羨望させられたりもする。

 上記2017年公開の我がエッセイより、特筆したい部分の一つを繰り返すと。
 <要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。>
 7年前にはこの論評が出来ていたんだ!、と今現在の我が身(というよりも脳内状況)が情けなくなったりもする…  😫 😭 
 

 まあ、そういうふうに人間とは年老いていくのが必然の運命なのであろうが。

 それにしても、そんな時代に記して公開したエッセイの一つを思い起させてくれた、AI・Copilotさんに改めて感謝申し上げておこう。


高齢者マッチングアプリでスキマバイトしてみたいかも?!?!

2024年08月25日 | 仕事・就職
 冒頭から、最近見た朝日新聞記事「高齢者マッチングアプリでスキマバイト」の一部を、以下に要約引用しよう。

 好きな時間に、日替わりの現場で短時間働く「スキマバイト」が、高齢者にも広がっている。 背景には高齢者の「働きにくさ」と、社会の人手不足がある。
 東京都の某70才の女性は、約1年前半まえからほぼ毎日、スキマバイトのマッチングアプリ「タイミー」を使っている。 既に出勤は480回。65歳以上の登録者の中で突出しているという。 仕事は1日平均4時間。 飲食店の皿洗いやスーパーの品出しなどを担う。
 2年程前に求人雑誌等で必死に仕事を探したが、なしのつぶて。 面接に行っても採用されず、数カ月間みつからなかったことがきっかけ。 今恥取り暮らしで家にいるが、何もしないでいると社会からの疎外感を感じ、体が衰える不安もあった。
 アプリの某運営会社が提供するのは飲食店などの雇い主と働く人を繋げるマッチングサービス。  (中略)
 女性は、体調や都合に合わせて、黙々と手を動かす仕事を中心に選んでいる。 毎回異なるしょくばに初対面の雇い主。 ストレスは少ないが、たまに6,7時間働くと、疲れで「よろよろ」になって帰る日もある。 バイトでの月10万円程度の収入は、生活費や猫の餌代に。 「年金だけでは生活していけないですよ。」 より良い条件の仕事を見つけるため、他のマッチングサービスにも登録したいと話す。 同社によると、今年3月時点で65歳以上の登録者数は約5,1
万人と、1年間で2,1倍に増えた。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 ここで、原左都子自身の「職業経験」を振り返ってみよう。

 やはり「医学専門職」こそが主軸となる我が職業経験だったが。 婚姻後の理化学研究所等からのアルバイト採用も含めて、20年程の年月それで生計を立ててきたと言えよう。

 独身最終時期に、公立高校にて「高校教諭」も経験している。 
 これに関しては、私学から依頼があった「非常勤講師」時代も含めると7年間それに携わったことになる。

 ついでに言うと、郷里の医学部学生時代に夏季休暇中のアルバイトとしてウエイトレス経験もある。  これは、1年と2年時の夏季休暇中のみのため短期間経験だったが、当時はまさに若気の至りで実に楽しかったものだ!

 あるいは 2度目の大学生時代の食い扶ちとして、夜間や休日に短時間で高給が稼げる「ラウンジコンパニオン」や「パーティコンパニオン」も頑張った。 
 サービス業であるこの職種により私は学ぶべきものが大いにあり、お陰で一人間としての成長が叶ったと評価する。 この経験無くして、我が現在の人格の程が築けなかったと自負している。 だからこそ、高らかにその経歴を語る人生だ!

 まだあるぞ。
 郷里の医学部生時代の「家庭教師」。 これなども近所での評判が高く、「我が家の子どももお願いしたい!」なる保護者からの希望が絶えなったものだ。 私が卒業した高校に子供を入れたい、との保護者の要望に添えた事を思い起す。

 
 
 高齢域に達している現在、時折、何でもいいから仕事がしたい!、なる要望が我が老体から湧き出て来ることがある。

 それを、60代間近い時期に2度実行に移したりもした。
 現在の住居地である自治体の教育委員会が募集していた「不登校指導者」とやらに応募して書類審査に合格し、当該教育員会へ面接に出向いた経験があるのだが。
 その面接時に、「私は、不登校肯定者です! その観点から是非生徒指導をしたい!」なる我が意思を高らかに述べたところ、2度とも即刻不採用となった… (本エッセイ集バックナンバーにて、公開済みです。)
 教育委員会の旧態依然とした教育方針に愕然としたのみで終わった就活(終活)だったなあ。 



 それにしても、冒頭に紹介したマッチングアプリでスキマバイトを現役でやっているとの高齢女性が、本気で羨ましい限りだ。

 今後機会があれば、原左都子もそのマッチングアプリ・スキマバイトに登録してみたいなあ!
 (上記の如く 職業経験が豊富な人材ですので、お役に立てるかも!?!?)


再掲載 「『調弦理論』はパラドクスを超えて“神の数式”となるか?」

2024年08月24日 | 学問・研究
 本日も、少し古くなるが。
 「原左都子エッセイ集」2013.09.23公開バックナンバーより再掲載させていただこう。

 

 私は、物理学者アルベルト・アインシュタイン没後、ほぼ半年の後にこの世に生を受けている。

 30代にして再び学問の道に入り、当時自分が目指す専門ではない哲学の一分野である「量子力学的実在論」の世界に魅了された。 
 大学の授業「科学哲学」の恩師である非常勤講師先生に「量子力学」の入門書とも言える ゲーリー・ズーカフ著「踊る物理学者たち」の紹介を受け、早速購入して多忙な日々の中時間を見つけてはむさぼるように読んだものだ。
 そして、私はまるで子どもの様に考えた。 (私がこの世に生まれ出たのはアインシュタイン没後、ほぼ半年後。 実はこの私こそがアインシュタインの生まれ変わりであり、今後一生哲学や量子力学的実在論分野の研究に勤しめるならば、何とミラクル人生なのだろう。)
 
 ただ、世の中そんなに甘い訳がない。
 人類の歴史に於いて天才と言われた偉人は数多かれど、アインシュタインを超越する天才はこの世に存在しないと言って過言でないと私は思うのだが、どうだろう?
 結局ただの凡人の私にとってのアインシュタインの存在とは、今後も我が一趣味の範囲で人生の合間にインパクトを与えてもらい楽しむ存在という事だ。

 そんな私が「原左都子エッセイ集」開設後間もない2007年11月に、「量子力学的実在の特異性」と題する学問・研究バックナンバーを綴り公開している。
 6年前当時の私は、我が子の「お抱え家庭教師」として現役バリバリに娘の勉強に付き合っていた頃である。 おそらく娘の学習を通してアインシュタインに触れる機会があったのだろう。
 今現在このエッセイを再び記せと言われても少し荷が思い感覚だが、当時上記書籍「踊る物理学者たち」を参照しながら綴った我が量子力学的実在論に対する熱い思いを、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって「観測」というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。 結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため量子力学内で解決可能である。 「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。 合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔から感情移入している。 今回はその一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年11月バックナンバーより引用)

 さて、この辺でやっと表題に戻ろう。

 NHK総合テレビ「NHKスペシャル」に於いて、上記表題に掲げた「神の数式」に関する科学ドキュメンタリー番組が9月21日、22日両日に及んで夜9時から放送されたのをご見聞された方は多いであろう。
 
 これぞ「待ってました!」である。
 最近のNHK報道において、これ程に基礎科学の深層を追及する特集が組まれたのは久々の事ではあるまいか?
 普段はちょうどお風呂に入っている時間帯だが、少しお風呂を遅らせて私はこの番組を注視したのだ。
 
 21日放送分に関しては記憶が薄れているため、22日放送内容に関してあくまでも原左都子が記憶・記述している範囲で以下に紹介しよう。
 アインシュタインによれば、重力が小さく重い程空間に“歪み”が生じるが、巨大な重力がかかった場合、光すら曲がる。(これぞ、アインシュタインによる「一般性相対性理論」だが)  ところがこの理論では、宇宙の「ブラックホールの底」の説明が出来ない。 何故ならば計算式上、割り算の分母が∞(無限大)となってしまうのだ。
 そこで登場したのがロシアの天才マトベイ・ブロンスタイン氏であるが、氏は何故分母が無限大(∞)になるのかを追究し過ぎたために、それが当時の政権に「危険な思想」と受け止められ銃殺刑と相成った……
 それでも、世の科学者達は分母無限大の謎を解き明かすべく努力を重ねた結果、シャーク博士が「超弦理論」を打ち立てた。 ところがこの理論とは「10次元」世界を前提としてのみ成り立つのだ…。 現在我々が生きている世界とは「4次元」。
 そこに登場したのが、ケンブリッジ大学の二人の博士達。 「この世は本当に4次元なのか?」なる疑問と共に、「超弦理論」をバックアップするべく「n=496」の完全数を導き出すに至る。 この完全数こそがアインシュタインが発表した「相対性理論」と「素粒子理論」を矛盾無く証明する数値だった!
 これこそ大革命であり、現実世界すべてを表現可能なのだ。 ところが、まだまだ課題がある。 「一体、異次元がどこに存在する??」 そこで研究が進んだところ、より小さい世界(超ミクロの世界)に視点をおくと、異次元が見えてくるとの発見だ。
 この発見こそが「神の数式」か? と考えられたが、またもや難題となるのが「熱」の存在だ。  そこでポルチンスキー氏が一つのアイデアを発表した。 「弦は動き、熱を発するとの重要な性質を持つ」 この理論により宇宙のブラックホールの謎が明らかになった。 これを受けて、2004年にホーキング氏は自分の誤りを認めるに至った。
 さて、人類は宇宙誕生の謎を解くことが出来るのか? それは「ヒッグス粒子」の発見に加えて、宇宙とは実は「11次元」の存在でもあるとの研究によりますます神秘を増している。
 (最後は原左都子の私論も多少交えたが、以上はNHK総合テレビ番組「NHKスペシャル」22日版をあくまでも我が素人視点から要約したもの)
 
 科学の世界とは素晴らしい!
 くだらない現世の争いや闘いをアホらしく感じさせてくれる、天才科学者達の超越した天才的発想力こそがまさに人間としてこの世に生を受けた証明たるべきで、実に素晴らしい。 だからこそ、原左都子は一生に渡り学問を愛好し続けているのだ。

 それにしても、繰り返すがNHKスペシャル番組に於いてこのように正面切って「基礎科学」分野の話題を取り上げたのは、久々の事だったのではあるまいか?
 たとえ少数であるとしても、この種の番組放映を心待ちにしている視聴者が存在する事実を、国民放送局とも表現可能なNHKに訴えたい思いで綴った今回の我がエッセイである。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2013年公開のバックナンバーを再掲載させていただいたもの。)



 まさに我が人生、30歳過ぎて今一度学問の道を志し、それを実現させたことにより。
 その後現在に至り今後に及ぶまでの我が人生の、幅や楽しみが数倍に膨らんだ事実を実に嬉しく思っている。

 科学・学問とは実に素晴らしい世界である!!

 今後も事ある毎にそれらに触れつつ、高齢期に達している我が人生を更に謳歌し続けたいものだ!!!
 

「子どもの脱毛」、必要か??

2024年08月23日 | 医学・医療・介護
 今朝見た朝日新聞記事によると、近年、エステサロンや医療機関にての子どもの脱毛が広がりつつあるそうだ。

 ムダ毛を気にする子どもが増え、「心のケア」として脱毛に取り組む小児科医院も出始めているらしい。



 原左都子の私事に入ろう。

 本エッセイ集バックナンバーにても幾度が公開済みだが。
 この私は、小さい頃から「ムダ毛」が多かった人種だ。
  (自己弁護のために付け加えておくならば、私自身は自身の体毛を「ムダ」と思ったことは一度も無い! 当時の周囲の反応も、さほど気にならなかったものだ。)

 その周囲の反応について、語ろう。(既に本エッセイ集にて語った内容であるため、ご記憶の方々も多いだろうが。)
 小学校入学直後の事だ。 体育館内で子供たち数人が車座になっていた時、私の周囲の男の子が我が腕を見て、「うわあ、凄く長い毛だ!!」と騒ぎ始めた。 それに引き寄せられた男の子数人がやって来て、我が腕を見て「凄い!毛が長い!!」と大騒ぎだ。
 私本人は、もっとずっと小さい頃より自身の腕の毛の長さを自覚していたし。 自分ではこれが普通で、特段そんなに大騒ぎする事かなあ?? 程度に冷静に受け入れていた。

 あの時 もしもこの私が、「やめてよ!!」等々と騒いだり、はたまた泣き始めたりしたものならば、更なる大騒動となった事だろう。
 それを全くしなかったことがおそらく功を奏して、この騒ぎはすぐに収まったし、この私も長い毛が生えた細腕を晒した状態でずっと暮らしてきた。

 この腕の長い毛の経過を語ると。
 いつ頃からだろうか、おそらく大人になった年齢頃から自然と色が薄くなってきて。 その後もずっと特段剃ったり脱毛等の措置をせずして、今となっては産毛よりも薄い存在として、よーく見れば毛があるなあ、程度に退化している。


 片や、脚のすね毛には失敗した派だ… 😵 😷 

 これも人よりもずっと濃いのが我がすね毛の特徴で、妙齢になっても相変わらずぼうぼうと生えていたため、自分で定期的に剃り落として始末していた。
 ところがこれも高齢化と共に自然とかなり薄くなってきてくれて、近年は何らの処置をせずとて特段目立つ存在では無くなっていた。

 それを、だ。

 約2年前の「左膝複雑骨折」手術の際に、医学関係者である自身の判断で、このすね毛が手術の際に邪魔になるかもしれない、なる要らぬ配慮心から自身で剃り落として手術に臨んだのだが。

 これが困ったことに。
 せっかく自然と薄くなりかけていたすね毛が、一旦剃り落としたがために、またもや命を取り戻したかの如くぼうぼうと黒々と生えてきてしまったのだ!!
 
 それでも、私はもう一度剃るとの失敗は繰り返してはいない。

 もう高齢域に入っているし、ミニスカートを着用する機会も無いだろうから、今後はこの脚で生きよう! との覚悟だ!!


 高齢者である私の話など、二の次で良いが。

 どうなんだろう?? 小さい子供の脱毛措置は。

 例えば、子ども本人が「周囲にからかわれるから脱毛したい」等の切なる希望を提示するならば、それを実行に移してもよいのだろうが。

 あえて大人である親たちが要らぬ余計な心配をして、未だ小さき我が子の身体を傷つける必要があるのやら、ないのやら…


 
 最後に上記朝日新聞記事より、専門医師による「事業者は玉石混交 見極め重要」と題する記載を以下に紹介しておこう。

 子どもへの脱毛で重篤なトラブルが起きたという報告は今のところ無い。 ただし、大人と同様に毛嚢炎ややけどなど、硬毛化のリスクはある。 あまり早くに脱毛すると中学生くらいまでまた生えることもある。 二次性徴が終る16歳くらいから脱毛するのが好ましいがと考えるが、周囲の目が気になるなど悩んでいるのであれば、低年齢での脱毛の選択肢の一つだろう。 脱毛は玉石混交で多様な事業者が参入している。 しっかり施術者を見極めることが重要だ。

 (以上、朝日新聞記事より引用したもの。)


久々に松山バレエ団「くるみ割り人形」全幕公演を予約しました!

2024年08月22日 | 芸術
 (冒頭写真は、松山バレエ団より届いた「バレエチケット購入」葉書より転載したもの。)



 冒頭より、我が娘が過去に出演したバレエ舞台の写真をランダムに披露させていただこう。

          
 「コッペリア」より「仕事の踊り」の一場面。 後方のお爺さん役は、著名なダンサー マシモ・アクリ氏。


             
 娘10歳頃に「デフィレ」に出演した時の舞台写真を、娘自身が後に写真を見ながらスケッチした自画像。 

          
 こちらは、2008年に娘と二人で鑑賞した舞台のパンフレットより転載したもの。

 もっと沢山あるはずなのだが探すと見つからないもので、これくらいにさせて頂こう。



 それでは、表題の松山バレエ団「くるみ割り人形」に話題を変えよう。

 一人娘に幼稚園年長時より中2の終わり頃までクラシックバレエを習わせていた関係で、毎年娘のバレエの舞台を見る機会が多かった我が家だ。

 その後、学校のスケジュール的にクラシックバレエを続けることが困難となった後も。 バレエの舞台を見るのが趣味となった娘と母の私は、引き続き年に何度かバレエ舞台公演を鑑賞しに出かけたものだ。


 コロナ禍以降は残念ながら、バレエのみならず様々な舞台芸術ものは中止の道程を辿り…

 その後、昨年あたりからそろそろ復活してきて。  今年ともなれば、過去の如く大手を振って各バレエ団体が舞台講演をこぞって復活させている。

 そんな世の動向の中、今年も松山バレエ団より年間のバレエ公演スケジュールが我が手元に届けられた。
 もうそろそろ 高齢域に達しているこの私も、その種の公演舞台を観に行って許されると判断した!


 そして本日、冒頭写真の松山バレエ団の「くるみ割り人形」チケットをネットにて予約した!
 娘も誘ったのだが、残念ながら当日は出勤との事。
 しかたなく、母親の私分のみチケットを購入した。

 近年のネット予約は簡単にできるし、 チケット受け取りは近くのコンビニ発券扱いでとても便利だ。
 (と言いつつ、そのネット予約の1度めは時間がかかり過ぎたのか、一度失敗してやり直しとなった、トホホ…  なんせ、年に何度もやらないネット操作は年寄りには時間を要するものだ… )



 予約時には、あらかじめ よ~~~く会場の座席表を検索しておいて。
 ネットの公演舞台の客席番号を見ながら、ここぞ!と思う席を予約しゲットした!!
 
 いやいや、楽しみだ!
 12月の公演につきまだ4か月先の話なのだが、久しぶりのクラシックバレエ公演鑑賞が待ち遠しい限りの原左都子です! 

 ちなみに、会場は上野の東京文化会館。
 演奏は、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団。  です。