「全快された方がいらっしゃるのも事実ですし…、しかし、一応のお覚悟は必要かと思われます。告知は希望されないということでしたので、病院側も極力伏せますが、末期となれば、自ずと悟られるでしょうから、そこら辺りのところはお二人にお任せを致します。結論から云えば、初期ではないが末期でもないということで、さきほど申しました通り、私どもも最善を尽くしますので…、希望は捨てられぬよう御願い致します」
長々と続いた説明が漸(ようや)く終わった。暫(しばら)く静寂の時が流れ、「そうですか…」と智代が呟いた。姉さんにしては珍しいな…と圭介が思える智代の神妙な声である。圭介はただ黙って椅子に座ったまま上半身を軽く折って一礼した。
「それから…、申し忘れましたが、この手術同意書に記入して戴きまして、ナースセンターへお出し下さい」と、三島が加えた。
暑気は既に失せ、陽射しの勢いにも翳(かげ)りが見え始めている。智代が今日は付き添うと云うので、圭介は自宅へ戻ることにした。さすがに今日は、いや最近はパチンコをやろうという気さえ起こらない。上空の茜空も、うろこ状の鰯雲が現れて澄み渡り、秋の訪れを微かに知らせるようになった。視線を下へと落とすと、アスファルトの汗ばむ熱気は去り、圭介は車が慌しく流れる光景を見ながら、歩道を緩慢に歩んでいた。けだるい虚しさだけが移動する軌跡の所々で襲ってくる。 ━ なるようにしか、ならん… ━ と、自らに云い聞かせ、地下通路への階段を降りていった。やがて、来た地下鉄の車輌に乗り、暫く揺れる。
駅を出て地下通路を昇り、月極(つきぎめ)の駐車場へ置いた車を始動する。いつもなら、適当に外食を済ませて帰宅するのだが、何故かそういった思考回路が働かない。車は自宅へとひた走っていた。ビル群が減って郊外へかかると、地平線が際立つ光景が展開する。日没近い太陽は昼間より幾分か大きく橙(オレンジ)色に染まり、上空は薄朱と橙色に蒼天が色づけられている。
「もう秋だな…」と、体感から、圭介はひと言、そう発した。
手術(オペ)は予定されたとおり、木曜に行われた。五時間半に及んだ手術は、一応の成功をみたが、三島が説明したように、術後の再発がいつ起こるか予断を許さない。昌には胃潰瘍だ、と云ってある手前、圭介は再発時の話を如何に取り繕うかと術前は悩んだのだが、 ━ 先生の話は全て聞かなかったことにして、忘れりゃいいんだ。母さんが癌であることを… ━ と、勝手な論理で自分を納得させ、冷静であろうと努めていた。昌の余命は、恐らく…と、浮かぶ想いが心の深層を氷結させる。病から逃れようという気持ではないが、母の余生が短いとは、思いたくもなかった。
手術の最初の夜は、智代が病室で寝泊まった。集中治療室(ICU)は完璧に他人を遠ざけて、万一の急変に呼応している。心臓の脈拍(プルス)を刻む音が、機械化されたされた音に変えられ、規則的なリズムを奏でて室内に継続して鳴り響く。
三島の術後報告は、幸いなことに手術が順調に推移し、成功裡に集結した・・というものであった。
二日目の夜、母の病床横に臥す。脈拍(プルス)を刻む機械音、緑色に浮き上がるベッドサイド・モニターに囲まれ、何か落ち着けぬ不安を抱いて圭介は瞼を閉じる。生と死を分ける間(はざま)の部屋に、静寂の時がただ流れる。
━ 俺がやみくもに足掻(あが)いても、母さんの病状がよくなる訳じゃない。先を知るは神仏のみか…。母さんがよくなったら旅行に連れてってやろう。どうか、救って下さい ━
そう巡った術中の想いが、ふたたび昌と二人の集中治療室(ICU)で甦って浮かんでくる。それでも、圭介はいつの間にか微睡(まどろ)んでいった。
深夜、もう更けて三時頃なのだろう…。外科付きの看護師が点滴注射の袋(パック)を替えに入室して、圭介は微かな音に目覚めた。その圭介に気づいたのか、にこっと笑みを向けて、「大丈夫ですよ…」と、小さく慰めの言葉を吐き、去っていった。内科の井口さんとはまた違った感じの人だ…と、圭介は単に思った。それ以上の想いは、流石に今日は浮かばない。静穏なのだが、室内の照明は白色蛍光管の眩い光に覆われている。昌の体内から吸引排出されるドレーン装置と体内から装置を結ぶチューブが圭介の眼にはまた異様に映る。その光景を遮ろうと、圭介はふたたび瞼を閉じた。眠ろうと無理には思うが寝つけない。だが、人間である証か、ふたたび微睡んで、意識は次第に遠退いていった。
昌の意識が戻り、口元を水に浸したガーゼで拭っていたものが、三島のOKもでて、吸い飲みで口を潤してやる。一日交代で智代とバトンタッチするため病院へと馳せると、その都度、母の容態に回復の兆しが増していた。
喜ばしいことなのだが、人間とはやはり生き物なんだ…と、圭介を思わせたりもした。
集中治療室(ICU)から個室、個室から二床病室、二床病室から四床病室へ・・、昌の回復とともに外科病棟での入院生活は続いていった。
執刀医の三島本人が、「長引いても三ヶ月ほどでしょう」と太鼓判を押してくれたこともあるが、圭介は退院までの容態は、さほど気にしていなかった。彼は予後のことを悩んでいたのである。 ━ スキルス形態で進行した……手術しても再発率は非常に高くなっておりまして…… ━ 圭介の脳裡を過るいつか云った三島の言葉が、繰り返し、そしてまた繰り返し、反芻しては彼を責め苛(さいな)んだ。しかし、日を追って回復する母の病状を見ていると、三島が云った警鐘も嘘のように思える。圭介はふたたび、その時はその時だ…と考えないことにして、テンションの下がる自分を慰めた。
術痩の治癒も順調で、圭介が予想していたよりは少し早めの退院となった。約二ヵ月半の入院生活だった。既に師走も半ば近く、街頭のあちらこちらにクリスマスなどの歳末風景が溢れている。母を庇(かば)って乗り込む車。運転席の姉は何を考えているのか、「もういい? でるわよっ。忘れ物ないわね?」と、感情の籠らない事務的な声で云ってのける。「ああ、いいよ…」と、圭介も返す。
見送りに出た三島と井口を含む看護師が三名、玄関口から車に近づく。昌はそれに気づき、慌てて自動ドアを下ろす。「もう帰ってきちゃいけませんよ」と、笑いながら三島が中腰になって昌へ優しく語る。
「先生、どうも有難うございました」と感謝を込めた声を返し、昌は一礼する。その緩慢な母の姿を見て、圭介も追従して三島に軽く頭を下げ、黙礼した。
車は渋滞を避けるかのように主幹道路から迂回してひた走る。退院の際に渡された薬袋が入った手提げ鞄を大事そうに両手で抱える母・・その昌の姿をチラッと横目で見遣って、圭介は何故か寂れる自分に気づく。気丈さを装って、「母さん、薬と隔週一回の診察は、きちっとな…」と放つ。
「んっ、分かってるよ」 と、昌はそう呟くように返す。以前の昌に比べると随分、覇気がなくなっているように圭介には思えた。運転する智代が、「お母さんにそんなこと云ってないで、あんたの方はどうなのよ? 会社は大丈夫なの?」と、逆襲する。圭介は思わず沈黙した。
ふたたび平凡な親子の生活が戻った。無理は出来ないまでも、昌は精一杯、家事を熟(こな)した。勿論、圭介もその点は心得ていて、以前とは異なり、自分のことは自分がやる。そして、隔週一回の診察日には、母とともに幾分早く家を出て母を病院へと送る。
「もういいよ、自分で行くから。・・・お前、会社が大変なんだろ?」
以前の覇気はまだ戻ってはいないが、少し元気を取り戻したようで声に艶がある。
「そんなこたぁないよ。母さんを送るくらい別に大したことじゃない」と圭介は一応、否定するが、実のところは昌を余り疲れさせたくはないのだ。だが、余り大事にし過ぎて怪しまれてもいけない。心境は微妙だった。