夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

裏磐梯、この時節は粉雪舞ふ日々の中で・・。【12.1.15.~1.18】 第4回

2012-01-19 17:17:42 | 
       第3章  この地域の雪に思いを馳せれば

私は『裏磐梯猫魔ホテル』に滞在していた3泊4日の間、
お風呂には朝食前の6時過ぎ、夕暮れ前の4時前後には毎日入浴したりし、
そして夜の8時過ぎには、二日目と三日目に入ったりした。

いずれも大浴場で身も心もゆだねて、温まった後、大浴場の片脇から階段を降りて、
露天風呂に入ったりした。
二日目の日は、粉雪も止んで、露天風呂の縁取〈ふちどり〉りの岩には、積雪があり、
前方に高い松が数10本が囲まれ、そして雑木林越しに氷結した檜原湖が観え、
夜空には月が煌々と光を帯びていた。
私はぼんやりと湯につかり、長らく見惚〈みと〉れたりしていた。

そして三日目の夜は、粉雪が舞ふ時に、たまたま露天風呂に入っていた。
暗い天上から音もなく舞い降る粉雪を眺め、前夜と様変わりした天候に微苦笑したり、
こうした粉雪に頭の毛や顔に受けるのも、なかなか機会がないからなぁ、思ったりしていた。

しばらく粉雪を受けていると、この地域の付近で、過ぎ去った日に雪の降る情景が想いだされた・・。

私が50代の初めの頃だったので、今から15年以上のことであり、
雪の舞い降る会津地方の情景を観たくて、確か2月の中旬だったと思うが、
付近の芦ノ牧温泉の旅館に予約して、家内と共に夫婦の旅を2泊3日で訪ねた。

上野駅より東北新幹線で郡山駅で下車した後、在来線に乗り換えて、
会津若松駅に降り立つと、雪が降ることの多い会津地方なのに、快晴で雪跡もなく、戸惑ったりした。

その後、県立の公園を散策している時、急に雨が降ってきた。

近くにお茶を賞味できる店があったので、
家内と雨やどりのように、濃茶と幾つかの和菓子を選定して、私たちは味わったりした。

その後、冬の冷たい雨は、本降りのようになったきた。

『お客さま・・通り雨ですから・・直ぐに止むと思われます・・』
と仲居さんから教えられた。

そして私は、地酒の弐合徳利を注文し、庭先の雨の降りしきる庭園を観ながら、
ゆっくりと味わった・・。

家内は薄茶と和菓子を味わっていた。

こうして、45分過ぎると、雨はあがった。

その後、芦ノ牧温泉の旅館に到着した時は、三日前に大雪は降ったが、
除雪はされて清々しい雰囲気であったが、私たち夫婦としては少しばかり落胆していた。

この夜に私は大浴場で湯に入っていた時、
たまたま見知らぬ60代の男性の方と言葉を交わしていた時、
この方の知人が、喜多方から更に新潟県に近い県境の付近にお住まいで、
この時節は毎夜のように雪が降るので、しばしば屋根などの雪おろしし、
もとより旅行などで家を空けることはできない、と私は教えられたりした。

そして私たち夫婦は芦ノ牧温泉地で初めて朝を迎えた時、
周囲の風景は雪一色に染められていた。

少なくとも30センチは越えていると思われ、
たった一夜の間に積雪の多いこの地方の冬を改めて実感させられた。

そして快晴となった積雪り中、私たち夫婦は付近の里山の小路を散策していた時、
突然に風が吹き、雪は這い上がり地吹雪のようになり、私たちは5分ぐらい立ちすくんだりした。

その後の日中は、日本酒の酒造処めぐりをして、
屋根の軒下、出入り口の軒下も積雪の中、氷柱〈つらら〉を観たりして、
この地域の寒さ、そして天候の激しい変貌に驚いたりした。

そして徳利の形をしている最中などを買い求めて、勤めている職場の土産として、
多くの方たちより好評を受けたことなどを、
私は懐かしげに想いだしていた。

そして髪の毛が粉雪で濡れて冷たくなったので、露天風呂に別れを告げて、
大浴場で心身温まろう、と私はゆっくりと足元を確かめながら歩いた。

                                《つづく》

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裏磐梯、この時節は粉雪舞ふ日々の中で・・。【12.1.15.~1.18】 第3回

2012-01-19 14:19:24 | 
       第2章  スノー・モービルに初めて同乗して

裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』に宿泊した翌日の16日の朝、
私は家内に、ホテルの周辺を散策しょう、と誘った。

このホテルの無料サービスのひとつとして、猪苗代湖までのバスも日に三往復があったが、
私は白鳥の飛来の情景も魅了されることもなく、
五色沼の遊歩道は少なくとも積雪は50センチ前後であり、不慣れな私たち夫婦は遊歩道か沼地か解らなく、
檜原湖の湖畔に近い雑木林、歩道を散策しょうと思ったのであった。

そして冬の積雪のある中を歩くので、登山靴などを含めた防寒着のセータ、スポーツシャツなどを
今回の旅も宅配便を利用して、このホテル宛に送っていた。

私は厚手の冬のフィールド・コートとマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの登山靴、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの登山靴で、
靴下、長ズボン、スポーツ・シャツなども含めて、アウトドアの専門店の石井スポーツで買い求めたりしてきた。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。


どんよりとした曇り空の中、ときおり粉雪が舞ふ中、
雑木林の林積雪は30センチぐらいの歩道を歩いたりした後、
その後は国道の歩道を除雪された10センチほどの雪道を10分ばかり歩いたりしていると、
土産店が数軒ならぶ湖岸に着いた。

そして店前から湖岸、そして氷結された湖上を少し歩いたが、
無念ながら氷結の厚さに不安を感じたりしたので、店前にスノー・モービルが置いてある店先に行った。
そして私はスノー・モービルに近寄り眺めていると、
50代ぐらいの男性が店内から現れて、
『よろしかったら・・このスノー・モービルで湖上めぐりしませんか』
と私たち夫婦に言った。

『私はスノー・モービルも運転したこともないし・・』
と私は50代ぐらいの男性に言った。

『若い店の人に運転はさせますので・・お客さん二人は後部座席に座っていれば・・
20分ぐらい湖上から湖畔や山なみを見物ができますょ』
と50代ぐらいの男性が明るく大きな声で私に言った。

そして店内の一面に手書きで、
《    スノーモービル氷上遊覧
 氷結した桧原湖の上を、スノーモービルの後ろに乗って周遊します。
 当店直営のわかさぎ釣りの見学をしたり、磐梯山をバックに写真撮影をしたりできます。
 2名限定20分ほどの遊覧体験です。

 開催期間・・・1月中旬~3月中旬.
 時  間・・・9:00 ~ 15:00
 料  金・・・1組2名:3,000円 》
確かこのような意味合いのことが記載されていた。

『XXちゃんさぁ・・ホテルでも確か同じようなこと18日から施行するポスターを見たりしたが・・
こちらのお店の方が早く実施しているし・・
私たちは幸運に恵まれているよねぇ・・』
と私は家内に言いながら、乗車に誘った。

そして若い25歳前後の感じの良い青年のドライバー兼案内人の基で、
私は初めて乗るスノーモービルの後部座席に座り、この後ろに家内が座り乗車した。

まもなく湖畔から氷結した湖上を疾走すると、私たちは小声で歓声を上げて、
前方のわかさぎ釣りの幾重かの小屋を観たり、湖畔の雑木林、遠方の山なみの情景を眺めたりした。
そして幾たびか青年のドライバー兼案内人は停車して、
私は周辺の情景をデジカメで撮ったり、スノーモービルの運転席に座った家内の記念写真を撮ったり、
或いはわかさぎ釣りをしている小屋に案内してもらったりした・・。

そして走破している湖上は氷結20センチと教示してもらったりし、
私たち夫婦は30分ぐらい案内して頂いた。

この後、店先に戻ると、
家内はコーヒーでも頂こうかしら、と言ったりした。
そして、展望の良い所の二階の食事処に私たちは移動した。

窓辺の席からは、氷結した湖上、雪の湖畔の雑木林、里山、そして遠望の幾重かの山脈の雪の情景を展望でき、
店内の客は私たちだけであり、
家内はコーヒー、私はわかさぎの天ぷら、地酒を注文した。


私は地酒の300mlの小瓶の生酒を吞みながら、わかさぎを頂き、
初めてスノーモービルに同乗でき、氷結した湖上からの周辺の情景を観ることが出来、
良かったよねぇ、と私は高揚しながら家内に言ったりした。

私は40代の初めの頃、スノーモービルに関しての本を、あこがれのような心情で買い求めたことがあった。
漠然として少年のようなあこがれであったが、いつの日にか里山の中を運転してみたい、
と気持ちであったのである。

その後、私は定年退職した2004(平成16)年の秋の後、
自動車の普通免許証の更新時を取りやめたので、もとより夢の世界となった。

たまたま今回、初めてスノーモービルに同乗できたので、
齢を重ねた67歳の私としては、これも人生の良き成り行きと微苦笑をしたりした。

                                《つづく》

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裏磐梯、この時節は粉雪舞ふ日々の中で・・。【12.1.15.~1.18】 第2回

2012-01-19 00:44:13 | 
       第1章  団体旅行の観光ツアー型、滞在型の効用は

私は今回の旅で、リゾートホテルに宿泊する団体温泉滞在型、と表記したが、
個人か夫婦、知人だけで、自動車とか鉄道、航空機などを利用されて旅を重ねられた人も多いので、
昨今の団体旅行の国内旅行に関して、少しばかり綴ることにする。

私たち夫婦は共通趣味のひとつとして国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から日本の各地を四季折々に訪れたりしている。

2004〈平成16〉年の定年退職後は、現役時代の多忙な身から解放されて、
ある程度は自在な日程が設定できるので、旅行の宿泊数も増えたりしている。

そして『気にいったプランがあれば・・行こうょ・・』
と私はバソコンでネットのニュースを見ながら、家内に言ったりしている。

私は旅費が程々であり、私たち夫婦が心身意欲のあるうちに
旅行をしょうよ、と家内に言ったりしている。

そして私たち夫婦は、ときおり旅行会社の企画に魅了された時は、
団体旅行の観光ツアー型、或いは滞在型にも参加している。


私が若き40歳の少し前までは、JTBなどの旅行会社に予約して、個人旅行をしていた。
団体観光の場合は、旅行日程に制約があり、
同行の見知らぬ方たちと一緒なので、何かと息苦しく感じ、
宿泊先の観光ホテルなどでも気詰まりのように思っていたのである。

私が40歳を過ぎた頃、新年まもない土曜日の午後、
2月の初旬、山寺と蔵王の樹氷めぐり、そして最上川の船下りした後は越後地方を周遊し、
この間、上ノ山温泉と温海温泉に宿泊する、
という団体旅行の観光ツアーの新聞に掲載された広告を見た。

個人旅行としては、真冬の山寺を歩いて参拝したり、蔵王の樹氷の景観を眺め、
その上に最上川の雪の光景の船下り・・
と私たちは思案してきたが、真冬の時節でもあり、交通の不便な処を行き来するので、
長年にためらってきたのであった。

家内に思い切って参加してみよう、と相談し、参加することにした。

東北の雪の中の旅程なので、防寒着で身を固めて、
指定された集合場所に定時前に着き、バスに乗り込み、
あらかじめ指定された座席に腰を下ろした。

持参した純米酒を呑みながら、車窓から東北の冬枯れの情景を眺めた上、
バス・ガイドさんの解説を聴いたりして、時折まどろんだりしていた・・。

観光地の最寄で降り立って、周遊した後は、再び走行するので、
途切れた時間待ちがないので、
特に冬の寒い時節は、移動は楽であることを実感させられた。

宿泊先の観光ホテルは期待していなかったが、想像以上に質感が感じられ、好感したりした。


私たち夫婦は個人旅行の魅力も知っているつもりであるが、
団体観光ツアーの価格の廉(やす)さには驚いたり、赤字にならないのか、
と余計な心配もしたのは事実である。

私たちは自動車を保有しない信条なので、
この旅行で好感したので、ときおり団体観光ツアーを利用している。
そして、滞在型は現地の宿泊先に殆ど直行するので、
交通機関、宿泊代が個人型の夫婦旅行費より、圧倒的に廉(やす)く、
ときおり私たち夫婦は利用してきている。

何より魅了されたのは、バスの車内、休憩時間のサービス・エリア、お土産屋さんのひととき、
或いは新幹線の車内、空港の待合所など、
そして食事処などで共に参加された年配のご夫婦の何気ない会話、
しぐさを私たちは学んだことである。

そして私たち夫婦が魅了されたご夫婦の方たちとさりげない会話を重ね、
私たち夫婦は人生の大学の生徒となったりした。

こうした中で、日常生活のさりげない人生を教示して頂いたり、
私たち夫婦も60歳代になった時は、あの方たちのような夫婦になれたら、
とツアーの参加のたびに、数多く学んだりしてきた。

こうして最初に団体観光ツアーに参加してから、
早くも25年を過ぎようとしている。

今の私たちは、個人型の夫婦旅行をしたり、ときおり団体旅行も利用しているが、
私たち夫婦は、昨今は10歳前後の年配の70歳代のご夫婦に関心を持っており、
旅先のひととき、数多く学んでいる。


たまたま今回の裏磐梯猫魔ホテルの3泊4日の団体旅行の滞在型は、
東京駅に15日の日曜日の昼12時50分に集合して、
東北新幹線で郡山駅に午後3過ぎに下車し、待機してくれたホテルの送迎バスに乗り、
ホテルに到着したのは午後5時過ぎであった。

そしてグループ毎に指定された部屋を利用し、
最終日の18日のホテル発の郡山駅までの送迎バスの午前10時発車までは、
もとよりフリープランとなっている。
そして郡山駅より東北新幹線で東京駅に下車し、解散となったのは午後3時前であった。

滞在の間は、朝食はバイキングとなり、夕食は和食、翌日は洋食、その後はバイキングが付き、
宿泊代、交通費も含めて、お一人様として、直接の旅費としては4万円を少し欠けるのが実態であった。

ここ10数年、デフレ経済の中、昨今の旅行業界は、
旅行会社、ホテル、観光旅館、交通の航空会社、JR、バス会社などは熾烈の競争下、
低価格とサービスは限界に近く、利用者だけが享受している、
と私は特に団体旅行の観光ツアー型、滞在型の場合は、思っている。

こうした時、私たち夫婦は、宿泊するホテル、観光旅館に申し訳ないと感じ、
せめて館内の売店で、お酒、食べ物、お土産品を買い求めたりすることが多いのである。

そして今回の旅で参加された60、70代の夫婦は5組を中核に、
友人グループ、或いはお一人様で参加された60、70代の男女の方たちも多く、総勢22名となり、
ときおり私は多くの方に言葉を重ねて、談笑したりしていた。

                              《つづく》

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裏磐梯、この時節は粉雪舞ふ日々の中で・・。【12.1.15.~1.18】 第1回

2012-01-18 19:47:00 | 
       序 章  この時節は粉雪舞ふ日々が多く

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨年の11月の下旬に、ある有力な通販の旅行会社より、定期雑誌が郵送され、
この中の旅行企画のひとつとして、1月、2月の9回施行予定として、
《 ちょっと優雅な休日を・・
    裏磐梯猫魔ホテル 4日間 》
と題されたリゾートホテルに宿泊する団体温泉滞在型が掲載されていた。

私たち夫婦は、この裏磐梯地域に、ゆっくりと滞在したことはなかったので、
少し魅せられて、話し合ったりした・・。

こうした中で、私たち夫婦としては、福島県の旅は少なく、
雪の舞い降る会津地方を観たくて、付近の芦ノ牧温泉に連泊したり、
晩秋に二本松の菊人形を鑑賞し、そして五色沼を散策したりして磐梯熱海温泉に宿泊したり、
私の定年退職後に土湯温泉に4連泊した程度であり、
山形県の旅の帰路に通過しながら、情景を観てきたぐらいであった。

このような思いもあり、猪苗代湖の北にそびえるの磐梯山の連峰、
磐梯山の麓は南地域は表磐梯、北地域は裏磐梯と称されているが、
この時節に雪の情景を観ながら、裏磐梯の檜原湖、五色沼の美麗を鑑賞し、
積雪のある中を少し歩き廻り、そして温泉に身も心にゆだねるのも良いかしら、
と私たち夫婦は微笑んだりした。

そして過ぎし1月15日より18日までの3泊4日で、
裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』に宿泊し、
この時節に初めて、この地の情景を観たりした。

http://nekoma.jp/
☆【裏磐梯猫魔ホテル】公式ホームぺージ☆

訪れた日は雪の降った後であり、積雪は50センチ前後であり、
滞在中はどんよりとした曇りの日が続き、ときおり淡い陽射しが射したりしたが、
こうした中で、粉雪が舞ふ時が多かった。

旅人の私たち夫婦としては、積雪の中を散策したり、露天風呂から、
或いは部屋の窓辺から、風情ある情景だよねぇ、情感ある風景よねぇ、
と話し合ったり、幾たびも見惚(みと)れたりした。

                           《つづく》

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東京郊外の田舎者の私は、『会津磐梯山』の歌を心に秘め、裏磐梯を訪れることになり・・。

2012-01-14 18:04:24 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
先ほど、庭のテラスに下り立ち、
明日の15日からの3泊4日の国内旅行に思いを馳せると、

♪会津磐梯山(あいづばんだいさん)は 宝の山よ
 笹に黄金(こがね)が エーまた
 なりさがる

かぼそい声で私は唄ったりした。

もとより福島県の会津地方に古来から伝わる民謡のひとつの『会津磐梯山』の歌であるが、
歌が巧(うま)く唄えない私は、エイーヤー、などとは恥ずかしくて唄えないのである・・。


私たち夫婦は、共通趣味のひとつは国内旅行であり、ときおり旅を重ねている。
昨年の11月の下旬に、ある有力な通販の旅行会社より、定期雑誌が郵送され、
この中の旅行企画のひとつとして、
《 ちょっと優雅な休日を・・
    裏磐梯猫魔ホテル 4日間 》
と題されたリゾートホテルに宿泊する団体温泉滞在型が掲載されていた。

私たちは、この裏磐梯地域に、ゆっくりと滞在したことはなかったので、
少し魅せられて、話し合ったりした・・。

私たち夫婦としては、福島県の旅は少なく、
雪の舞い降る会津地方を観たくて、付近の芦ノ牧温泉に連泊したり、
晩秋に二本松の菊人形を鑑賞し、そして五色沼を散策したりして磐梯熱海温泉に宿泊したり、
私の定年退職後に土湯温泉に4連泊した程度であり、
山形県の旅の帰路に通過しながら、情景を観てきたぐらいであった。

このような思いもあり、猪苗代湖の北にそびえるの磐梯山の連峰、
磐梯山の麓は南地域は表磐梯、北地域は裏磐梯と称されているが、
この時節に雪の情景を観ながら、裏磐梯の檜原湖、五色沼の美麗を鑑賞し、
積雪のある中を少し歩き廻り、そして温泉に身も心にゆだねるのも良いかしら、
と私たち夫婦は微笑んだりした。


そして私は宿泊するリゾートホテルのホームページを検索して、
少し見たりした後、家内もしばらく見たりした。
http://nekoma.jp/
☆【裏磐梯猫魔ホテル】公式ホームぺージ☆

この中の【アクティヒティ】のひとつに、『かまくら茶屋』は可愛らしく、
齢ばかり重ねた私でも、確かな伝統文化であり、ぜひ拝見し、食味したいと微笑んだりした。
http://nekoma.jp/activity/list.html#ac01
☆【裏磐梯猫魔ホテル】公式ホームぺージ<==【アクティヒティ】<==『かまくら茶屋』☆

この後、【お料理】の中で、『東北6県 日本酒飲み比べ』を見て、困ったなぁ、
と思わず心の中で呟(つぶや)いたのである。
http://nekoma.jp/cuisine/cuisine5.html
☆【裏磐梯猫魔ホテル】公式ホームぺージ<==【お料理】<==『東北6県 日本酒飲み比べ』☆

私は温泉のある観光ホテルに滞在した時の習性としては、
朝の10時頃から午後の3時頃まで、付近を散策しながら、その地を鑑賞し、
帰館後は、風呂に入った後は館内の売店で4合瓶ぐらいの地酒を買い求めて、
夕暮れ時に部屋でゆっくりと夕食時まで、吞む時を過ごしていることが多い・・。

この時節は4時半過ぎに暗くなるので、吞んでいると思われ、
その後の夕食に、この『東北6県 日本酒飲み比べ』を吞みながら頂くと、
『会津磐梯山』の歌を重ねてしまったのである・・。

♪小原庄助(おはらしょうすけさん)さん
 なんで身上(しんしょう)つぶした
 朝寝(あさね) 朝酒 朝湯(あさゆ)が大好きで
 それで身上つぶした
 もっともだ もっともだ

しかしながら東京郊外の田舎者の呑兵衛である私の弁明になるが、
もとより旅先は非日常の出来事であり、
平素の日常生活ではないので見逃してねぇ、と天上の神々に懇願したりしている。

このように初めての裏磐梯地域を宿泊する旅をするので、
投稿文は、しばらくは休止とさせて頂く。

帰宅後、つたないなりに心を揺さぶられたこと、ときめきを感じたことなどを
素直に綴る予定である。

尚、私のこのサイトの右側にあるカテゴリーに於いて、
『旅』として、これまでの旅の最中に感じたことを発露した紀行文の形式で、
170通ばかりあり、お読み頂き、ご笑話を頂ければ、幸甚である。


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公共交通機関の利便性のある地域に住む高齢者の一部の方、なぜ歩かないの、と苦笑し・・。

2012-01-14 13:42:46 | 私が理解できない社会現象のひとつには
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。


今朝の午前中のひととき、家内から買物を依頼されて、
私は最寄駅のひとつの『仙川』駅の商店街をめざして歩き出した。

淡い陽射しの中、北風が吹き5度ぐらいと思われ、バスの通る歩道を歩き、
途中の坂道の上りも速度を緩(ゆる)めることなく、
15分ばかりで商店街に着いた。

この間、バス停を5つばかり通り過ぎたが、60、70代ぐらいの男性、女性の多くが、
バスを待ちわびて並んでいた・・。
こうした情景を私は見たりし、高齢者の方はバスなどに頼らず、
歩くことが何よりの健康の源(みなもと)なのに、と苦笑させられたのである。

もとより高齢者の方で、膝を痛めたり、歩行が困難な方、
冠婚葬祭などでお出方の方、急ぎのある方たち、
或いは地方にお住まいで公共交通機関の不便な方たちは例外であるが、
単なる駅前で買い物、小用のある方たちは、歩かれた方が良いのに、と思ったのである。


高齢者の何よりの悩みは、貧富にかかわらず、
いつの日にか寝たきりの状況を一番恐れていると思うが、
こうしたことを回避する特効薬は、日常生活の中で歩くことが、まず第一歩と私は確信したりしている。

ご自分の老後の生活を大切にし、ご自身の意思で日々を過ごしたいならば、
何よりも歩けることが、肝要であるのに、と心の中で高齢者3年生の私は呟(つぶや)いたりしている。

昨年の春先、作家の曽野綾子さんの随筆を読んでいた中で、
ご主人の三浦朱門氏が、渋谷の本屋に行く為に、
お住いの田園調布より7キロぐらいの道のりを電車、車などに頼らず歩くことが多い、
このような意味合いを綴られていた・・。

私は氏は80代のご高齢なのに、恐れ入ります、と思いながら、
ご健在の秘訣のひとつかしら、と微笑んだりした。


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来(きた)る1月15日は『苺(イチゴ)の日』と知り、ささやかな私のイチゴの想いを馳せて・・。

2012-01-13 14:58:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の67歳の身であるが、
今朝ぼんやりと、我家の台所の壁際に掲げている風物詩に富んだカレンダーを見ていると、
何故かしら1月15日は『苺(イチゴ)の日』とイチゴの絵も描かれて、可愛らしく表示されていた。

私はイチゴの生産か販売に携(たずさ)わる方たちが、
イチゴの消費拡大を目的として、この日はたまたま15日であり、
【一五(いちご)】の語呂(ごろ)あわせ、健気(けなげ)に制定した、
と何かの本で読んだことがあった。

そして私は、イチゴかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
つたない私でも少しばかり思いがあり、ささやかな想いも秘めているので綴る。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
自主的に日常の買い物を担当しているので、
もとよりスーパーの生鮮野菜コーナー、果物コーナーなどを見たりしている。

この時節、イチゴの赤く成熟した大粒が並んでいる。
家内は好きな果物のひとつであるので、買い求めたりしている。

1951(昭和26)年の頃、小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で、小作人だった人たちのご協力を得ながら、程々広い田畑を耕していた。

父の妹のひとりは20歳で未婚だったので、私はこの叔母に何かと懐(なつ)いたりしていた。
この叔母は陽当たりの良い畑の一角で、草花を植えたり、イチゴなどの果物を植え込んでいた。
草花は仏様、お墓の墓前に供えたり、或いは室内の花瓶に生けたりしていた。

イチゴは5月頃になると、白い花をつけた後、結実し、初夏の頃に赤み帯びて成熟する。

私は幼年期であり、イチゴを見つめながら、
『まだ駄目・・!?』
と私は叔母に懇願するように言ったりした。

『まだ白さがあるでしょう・・もう少し・・待ってからねぇ・・』
と叔母は言いながら、2坪ぐらいの広さのイチゴ畑の中で、
少し赤く色づい実を捜して、ひとつぶを私の口に入れてくれた。

私は口の中で噛み砕いているうちに、甘み拡がってきた・・。


1975(昭和50)年、家内と交際をはじめ、婚約した後、1月の下旬だったと思うが、
東京駅で待ち合わせ、新幹線の『こだま』で清水駅まで利用し、
日本平付近の丘陵のイチゴ園に行った。
陽当たりの良い丘陵の中、ビニールハウスの中で養育されていた。
入り口でカップに入れたミルクを頂き、ハウス内のイチゴを捥(も)で食べる方法であったが、
途中で家内に私のミルクを手渡して、私は外に出た。

ハウスの入り口から少し離れた所で、
私は煙草を喫いながら海上の光る浪間を観たりしていたが、ときたま微風を受けると寒さが感じられた。
そして私は3粒を頂いたが、初夏の果物がどうして・・と思ったりした。

1960(昭和35)年の高校生になると、季節を問わずショート・ケーキの上にイチゴが載せられたり、
日本の各地でビニールハウスの情景が見られたりした。
私は民間会社に中途入社した1970(昭和45)年を過ぎる頃、
会社の部署旅行で2月に旅先で、イチゴ園に寄ったりした。

このように私は露地栽培の初夏、実がまばらな小粒で、淡い甘さが幼年期の想いでのためか、
昨今のイチゴには、殆ど一年の大半にイチゴを見かけたりすると、
季節感がなくなった、と戸惑いを覚えたりしている。

そして、私は日本酒の辛口、ビールなどのお酒大好きな呑兵衛の男であるので、
イチゴは女性、そして女の子、男の子らの婦女子の果物のひとつであると確信し、30数年過ぎている。
家内がこの時節も愛食しているが、
私は1年に2粒ぐらいお付き合いしている程度である。

このようなイチゴに、ささやかな思いがあるので、
昨今は、コンビニなどでも、イチゴのスイーツのおしゃれな食べ物を見かけたりし、
高齢者の私には無縁かしら、と微苦笑したりしている。


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政府は財政難の危機と公言されても、実は『どんぶり勘定』と教示され、私は溜息を重ね・・。

2012-01-12 15:38:37 | 時事【政治・経済】等
先ほど、ネットでニュースを見ようと、【YAHOO! JAPAN】を開いた後、
ぼんやりと【雑誌】コーナーを見ていたら、
《 「ミスター埋蔵金」が直言! 日本には消費税50年分の資産が眠っている 》
と見出しされた記事を見て、どういうことなの、と思わずクリックした。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120112-00000001-president-bus_all
☆【YAHOO! JAPAN】
       <==【プレジデント】《 「ミスター埋蔵金」が直言! 日本には消費税50年分の資産が眠っている 》☆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の高齢者の身であり、
政治にも疎〈うと〉い身であるが、昨今の日本は、震災、長期デフレ、円高、世界経済の危機など、
まぎれなく国難が山積している現状である、と認識しているひとりである。

もとより過ぎし3月11日、東日本大震災、そして福島原発により、
巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たち、原発で避難されている方たちが、明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながらしてきた。

そして与党政権は、昨年の9月に復興財源案を提示され、
『所得税』、『住民税』などと多くの国民が負担となるが、こうした国難の前では、無力な私でも賛意する。

政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を深める中、
震災地の復旧・復興に関し、日本経済の復興こそが、何よりも日本再生の道である、
と無力な私は心の片隅に思い続けている。

政府の首脳閣僚の諸兄諸姉の議員が、真摯で国益に合った政策を取れば、
やがては私たち多くの国民が享受できるので、
直面する税負担が多少増えようと、私は生活を切り詰めて我慢し、賛意をする。

私たち高齢者は、敗戦後からの一部の方を除き、誰しも貧乏な時代を知っている世代なので、
あの悲惨な時代を思い馳せると、
今日の難題が山積しているが、日本の多くの人たちが一時的に総集すれば、
乗り切り、明るい明日が見える、と信じているひとりである。

このように思ったりしてきたが、政府・民主党の復興財源案の財源の検討の中で、
9月27日の党税調では、国家議員の定数削減、公務員の人件費削減なども検討された、
と読売新聞の記事に掲載されていた。

この記事を読んだ時、国家議員の歳費の大幅な削減こそが、何よりも肝要である、
と私は瞬時に感じた。


そして、消費税に関しては、急速な超高齢化社会を迎えている今日、
現在の社会保障制度に於いては、このまま放置すれば毎年一兆円が増加され、
国の負債は1000兆円を超えて、財政難と新聞、雑誌などから学んできている・・。

問題の中核は各世代の負担であるが、
もとより30、40代の若い世代に現状のように加重負担させるのは過酷であり、
肝要に働いて下さる諸兄諸姉の多くの方の明日への芽を摘み取ることになる。

現状の財産形成の人口分布は、高齢者の方達が圧倒的に多く占有しているが、
高齢者自身は安心でき、将来も託すことのできる社会保障制度になっておらず、
多くの高齢者はやむなく自己防衛のために、生活を切り詰めて、少しつづ貯金をしている面もある。

もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取り、
明確には、現役世代がその時の高齢者を支えているのである。

ふりかえれば私より10歳以上齢上の人たちは、
敗戦後の荒廃した日本を、少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代と称される世代も奮闘し、
確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

その上、経済は低迷していると云われている現在さえも、国民は飢えることなく飽食の時代となり、
長寿化の時代を迎えている。


昨今、政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化の今日、
社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と報じられている。

こうした中で、多くの高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉の多くは、高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
私のように定年退職し年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない、
危険な政治状況と憂いているひとりである。

このような思いになると、たとえば福祉などは、
高齢者の方たちは、これ以上に国、都道府県、区市町村に頼るのは甘えである。

或いは現状の社会保障制度のままで放置すれば、
現役世代の若い30、40代の人たちは、何かと過重負担となり、
やがて耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と思ったりしている。

そして、働いて下さる諸兄諸姉は、高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、益々粗末にする風潮の世界となる。

このようなことを配慮すれば、私も高齢者3年生の67歳の身であるが、
あえて、消費税5%を撤廃し、社会保障税を少なくと10数%(専門家の諮問委員会で試案させる)を設定し、
年金、医療、介護の専用の財源とし、国からの負担の助成とする。
そして各世代の人々が社会保障税として程々に負担するのが望まく、社会保障制度を万全に近い形とした上で、
多くの方たちが安心できる社会を期待しているのである。

こうした心情で私は昨年を過ごし、昨今の政府が提案された『消費税』案は賛意している。


今回、嘉悦大学教授・ 高橋洋一氏の寄稿文を読んだ後、
政府は財政難の危機と公言されても、実は『どんぶり勘定』である、と学び、動顚したのである。

氏は大蔵省入省され、内閣府参事など歴任した後、2006年から内閣参事官。
その後は2007年「埋蔵金」を公表した後、2008年に退官された、とプロフィールで知り、
確かな信頼の高い専門家と感じながら、私は多々教示された。

《・・
そもそも財務省は、日本は債務残高がGDPの2倍、1000兆円もあると消費税増税と財政再建キャンペーンに利用しているが、
政府の資産も650兆円、実にアメリカの約150兆円の4倍になる巨額なものだ。
霞が関はこれについて口をつぐんでいるが、その多くを隠匿している。
私は、増税の前にそれを国民の手にとりもどすべきであると言っているだけだ。

例えば、多額の借金を抱える企業があれば、まず不要資産や保養所、社員の宿舎を売却する。
それに本社ビルを売ってリースバックしたり、子会社などを処分するはずだ。
ところが、財政赤字の1000兆円が大変だと騒いでいる財務省が、
自分たちの宿舎や天下り先の関係子会社は守り、JTや郵政などの有価証券も全部は売らない。
それなのに、財政再建のためには税金を上げますというのでは話にならない。

政府は現在、JT株の2分の1にあたる500万株を所有しているが、
タイミングを見てこれを売却すれば、約2兆円の収入になる。

国のバランスシートを見ると、資産647兆円、負債1019兆円(2010年3月末)である。
資産の中には、国有財産37兆円、公共用財産145兆円などのほか、
現金・有価証券111兆円、貸付金155兆円、年金寄託金121兆円、出資金58兆円と流動性の高い金融資産が多い。

647兆円の中には土地や建物など、すぐには換金できないものや、
年金寄託金は将来の年金のためにとっておくとしても、
おおよそ300兆円の金融資産があり、容易に売れるはずだ。

とくに貸付金や出資金などは天下り先の特殊法人に流れているわけで、
それらを民営化すれば、天下り法人の廃止と資産のスリム化が一気にできる。
国債償還に回せば負債サイドのスリム化にもなる。
一般の企業がリストラの過程で資産と負債の両建てのスリム化が好ましいのと同様である。
公務員宿舎に限らず国の資産を民間に売却して有効活用すれば、民間経済の活性化にもなる。


政府資産の中には、今すぐにでも国民のために使える資金がある。
いわゆる「霞が関の埋蔵金」だ。
これは一般会計とは別に各省庁が特別な事業、スペシャル・プロジェクトを行うために設けられた特別会計のことである。
主に役所が管理し、額が大きいだけでなく、一般会計のように国会で議論されることも少ない。
特別会計の規模は、11年度予算で約220兆円。
一般会計が約92兆円だから、その2.4倍もの規模である。
しかし、額の大きさよりも、問題は資金が余っている特別会計の存在だ。
余った資金が無駄遣いされているケースがあるのだ。

では、霞が関に埋蔵金はどれぐらい眠っているのか。
これは埋蔵金の定義によっても変わってくるが、
一般的な定義の特別会計の資産、負債差額に絞っても数兆円はすぐに見つけ出せるはずだ。
実は2010年も、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構から1.5兆円が見つかっている。

このほかにも特別会計の余剰金はまだまだある。
例えば、厚労省所管の労働保険特別会計には、
数理に基づいた保険料が設定されていないために、「私のしごと館」など無駄遣いをしてもなお「埋蔵金」が5兆円程度あるのだ。

多くの国民は、政府は厳密におカネを管理していると思っているだろうが、実態は逆である。
ひと言でいえば、どんぶり勘定だ。
民間会社では経費は精査され、赤字の事業は見直す。
でなければ、たちまち経営難に陥り、倒産してしまう。

ところが国の場合、倒産はないので、おカネの管理はひどく杜撰だ。
私が財務省時代につくるまでは、確かな国のバランスシートさえなかったのである。

足りなくなれば国民に負担を願えばいい、というのが役人の金銭感覚だ。
特に財務省はやるべきこともやらずに、ただただ「増税命」の役所である。
政府・財務省は、復興増税や消費税増税の前にやるべきことがあるのではないか。
・・》

こうした寄稿文を読み終わると、私は巨大メディアの新聞の記事、
テレビのニュースをある程度は信頼してきたが、余りにも無知だったことに、猛省をしている。
そして財務省の諸兄諸姉に、本当の財政実態、そして今後の状況はどうなの、と問いたい。


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総合月刊雑誌の『文藝春秋』を読まなければ、社会人として失格と思い、早や40数年が過ぎ・・。

2012-01-11 17:45:40 | 読書、小説・随筆

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
毎月10日になると、総合月刊誌のひとつである『文藝春秋』を買い求めて精読している。

私が『文藝春秋』を定期に購読を始めたのが、遅ればせながら、
確か1970(昭和45)年の春の頃からで、25歳の時であった・・。

私の雑誌に関しては、恥ずかしながらこれまでの簡略歴を綴る。

私は1944(昭和19)年に東京の郊外の農家の三男坊として生を受けた。
祖父、叔母、両親、兄2人などの7人の家族であり、
敗戦後も祖父、父が中心となり、小作人だった人たちの協力を受けて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして多忙期の時などは、農業大学の研修を目的とした実習生なども受け入れていた。
このような家庭環境であったが、
本にしても雑誌に関しても、私は思い馳せても農協の発刊する月刊誌『家の光』しか記憶がなかった。

私が小学4年生を過ぎた頃、
都会から引越しされた同級生のサラリーマンの家に遊びに行った時、
居間にある書物を見て、余り多くあるので驚いて、
子供心に衝撃を受けたのである。

この頃の私は、月刊の漫画雑誌のひとつの『少年画報』などを下校の時、
本屋で買い求め、読みながらとぼとぼ帰宅したりした。


私が読書に目覚めたのは、遅ればせながら高校生になってからである。
創作者の綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
この時からとりつかれた。

人並みに文学の文庫本、単行本を買い求めたりしていたが、
授業の時事に魅了されたので、週刊誌の『朝日ジャーナル』を購入し、
海の彼方のケネディなどの政治家に心酔していた。

大学に入学する少し前から、映画専門雑誌の『キネマ旬報』に熱中し、
小学4年生の頃から独りでたびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で大学2年の時に中退し、映画青年の真似事の期間を過ごしたりしていた。

その後、文学に移り、純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読したり、
総合雑誌の『文藝春秋』を不定期に購読していた。


1970(昭和45)年の25歳の時、映画・文学青年の真似事も挫折し、
やむなく企業に中途入社をして、社会人のひとりとなった。
この時、私は余りにも社会人として、
一般的な常識の政治、外交、軍事、経済、社会などに欠けていたことに気付かされ、
劣等感も抱きながら、総合月刊雑誌の『世界』、『中央公論』、『文藝春秋』を毎月読むようになった。

この頃は、血気盛んな私は独身青年であったので、娯楽週刊誌の『平凡パンチ』まで読んでいたので、
私は秘かに『世界』から『平凡パンチ』まで雑誌を読んでいるのは、
日本広しといえども私ぐらい、と自惚(うぬぼ)れしてもいた時期であった。

しかしながら、たまたま音楽業界のレコード会社に勤めて情報畑で奮闘していると、
数多くのサラリーマンと同様に多忙となり、
やがて結婚をしたり、住宅ローンの返済に苦労したりすると、
次第に格調高い『世界』の知識についていけず、
ときおり『中央公論』だけは特集に関心させられた時だけ購読するようになった。

そして結果的には、毎月に愛読している総合月刊雑誌としては『文藝春秋』だけとなり、
定年退職後の今でも、このようになっている。
高齢者3年生の67歳の私にとっては、毎月秘かに逢える友のひとりとなっている。


私はそれぞれの寄稿文を読みながら、私と同じような思いに安堵し微笑んだり、
記載されていることの内容が程度の低いことと感じられ、綴られた著者に失望したり、
或いは私が無知だったことを知り、謙虚にご教示頂いたりしている。

ここ数年の楽しみのひとつとしては、毎月10日に発売されているが、
その日の朝、読売新聞に広告として掲載されている・・。
この時に特集記事が明記されているので、私は読みながら、やはりこの記事だった、
と私なりに予測していたことと同一の場合は、独り微笑んでしまうのである。

尚、私は『文藝春秋』の数多くの寄稿文で、読みながら理解出来なくなった時は、
ボケた時と確信し、やむなく、この世とおさらばし、自裁する時と思ったりしている。


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齢ばかり重ねた私、ときには二度寝をして、年金生活の何よりの特権、と照れながら・・。

2012-01-11 09:20:40 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
昨夜、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(2月号)を深夜まで読み、
1時過ぎに暖かな電気敷き毛布のセットしてある布団にもぐり、寝付いた。
今朝、5時に目覚め、トイレでオシッコを終えて、洗面台の横の窓を開けて外を眺めると薄暗く、
まだ日の出前には早いょ、と思いながら再び寝室に戻り、布団にもぐったのである。

その後、布団の中のぬくもりを感じながら、過ぎ去った日々のことを思いだしたり、
これからの国内旅行のことをぼんやりと思いながら、寝付いてしまい、目覚めたのは7時半であった。

家内も珍しく寝ていて、私は起きだして、洗面した後、雨戸を開けたりし、
まばゆい陽射しが射し込む庭を眺めたりした。

そしてガスファンヒーターで居間を暖房にセットした後、
今日は資源ゴミの日だった、と思いだしながら、
新聞・雑誌などの古紙を市の指定の道路際の門扉に置いたりした。

この後、NHKのニュースをぼんやりと視聴していると、
家内は起きだしてきて、洗濯物を洗濯機に入れたりした後、
『私も・・珍しく寝坊してしまったわ・・』
と家内は照れながら私に言ったりした。

『僕だって・・定年後は日の出前に起床して・・と公言してきたし・・。。
ときには寝坊しても良いじゃない・・時間で競争する時代は我が家は終わったょ』
と私も寝坊してので、照れ笑いしながら言ったりした。


定年後の私は、年金生活を始めて、だらけた日常生活を過ごしたくないので、
日の出前に起床することを殆ど実践してきたし、家内も5分遅れぐらいで起きだして、
洗濯などを始め、そして台所を清めたりし、
この付近で我が家はゴミ出し一番が圧倒的に多い。

私の定年前の5年間は、リストラの烈風の中、私は出向となり、遠方の勤務地の為、
起床が4時45分とし、そして始発のバスに乗り、小田急線の電車の通勤途上で、
この冬の時節は日の出を迎えたりしていた。
帰宅も夜の9時過ぎが多く、もとより睡眠不足となり、
休日の時の昼下がりに昼寝をして補(おぎな)ってきた体験がある。

50代の後半で体力テストは勘弁してほしい、と思いながらも、
自分の敵は自分であり、努力しなければ何事も手に入らない、と奮闘してきた・・。


こうした私であるので、年金生活をしている今、
ときには二度寝をして寝坊できることは、
年金生活の何よりの特権かしら、と微苦笑したりしている。


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『文藝別冊』シリーズの本の数々、創作者を学ぶ入門書として、最適と微笑んで・・。

2012-01-10 12:04:39 | 読書、小説・随筆
私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている・・。

昨日、駅前の喫茶店で、妹たちと待ち合わせをしていたが、
少し時間が余裕あるので、駅ビルの3階にある本屋に、私は立ち寄った・・。

店頭のひとつのコーナーに、見やすいように傾斜のある陳列棚で、
『小松左京』、『中上健次』、『金子みすゞ 』、『銀色夏生』、『開高 健』、『宮脇俊三』、『太宰 治』、
『吉村 昭』、『半村 良』、『司馬遼太郎』、『白洲正子』、『須賀敦子』、『山口 瞳』、『佐野洋子』、
『寺山修司』、『古今亭志ん生』、『つかこうへい』、『ちばてつや』、『荒木経惟』、『小沢昭一』、『黒澤 明』、
『ジョージ・ハリスン』『クイーン 』、『ポール・マッカートニー 』、『マイケル・ジャクソン』、『尾崎 豊』、
『忌野清志郎』、『石井好子』、『フルトヴェングラー』、『マーラー』、『グレン・グールド』等の本が並び、
私は眺めながら圧倒された・・。

そして敬愛して殆ど購読している作家・山口 瞳、紀行作家・宮脇俊三、
或いは10数冊買い求め愛読している白洲正子・・各氏の本を取りながら、
河出書房新社から発刊する『文藝別冊』シリーズの本の数々と私は理解した。

この後、各分野で確かな時代の点を残された創作者のデパートであり、
この創作者を学ぶ入門書として、最適と私は確信を深めたりした。

http://www.kawade.co.jp/np/search?lgen_id=12
☆【河出書房新社 公式ページ】<==《文藝別冊》紹介サイト☆


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。


私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読し、かれこれ50年となっている。

古来の人々から言葉から文字へと人々の営みの中から文明が生まれ、
その中の一部として、文化が発生している。

そして創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれの人々が読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、高校生の時からとりつかれている。

その後、20代の前半に、大学を中退し映画・文学青年の真似事をしたので、
小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻は基盤として精読した上、
純文学、中間小説の月刊雑誌を購読し、そして興味のある数多くの単行本、文庫本を乱読した。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)、
そして立原正秋(たちはら・まさあき)の両氏であった。

この後、文学青年の真似事を敗退した後、やむなく民間会社に中途入社し、
音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
水上勉(みなかみ・つとむ)、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)、
城山三郎(しろやま・さぶろう)、松本清張(まつもと・せいちょう)、山口瞳(やまぐち・ひとみ)、
向田邦子(むこうだ・くにこ)、宮脇俊三(みやわき・しゅんぞう)、倉本聡(くらもと・そう)、
浅田次郎(あさだ・じろう)の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが特に多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
塩野七生(しおの・ななお)、佐野真一(さの・しんいち)、藤原正彦(ふじわら・まさひこ)、
嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)、曽野綾子(その・あやこ)、各氏の作品に深く魅了され、精読している。


このように愛読した作家名を思いだしたりしたが、
もとより睡眠時間を削り、アルバイト、契約社員をしながら
明日の見えない映画・文学青年の真似事をした時代は、
各作家の作品を読み、読書量が多かったのは明記するまでもない。

昨今は丸66年の歳月が過ぎ、67歳を迎えた今、過ぎ去った人生を思い重ねて、
特に塩野七生、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、各氏の作品を購読して、
多々教示されたり、或いは、そうですよねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


このような拙(つたな)い身の私は、今回の『文藝別冊』シリーズの本の数々を眺めたりすると、
おべんちゃらの嫌いな私でも、特に若い方たちに、それぞれ興味を持たれた創作者の本を精読され、
学び深められれば、と余計なことを思ったりしている。


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幾たびか年を重ね、私たちは天上の母に守られて、早や丸14年は過ぎ去り・・。

2012-01-09 16:17:37 | 定年後の思い
私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている・・。

私の母は、入退院を3年ばかり繰り返した後、深夜に亡くなったのは、
1998(平成10)年1月13日のことであり、私は53歳の時であった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた都心の広尾にある赤十字の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を吞んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい吞みで少し呑んだりしていた。

10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは実家の長兄宅で葬儀が始まった。
私は小学2年に父が病死されたので、
母、そして父の妹である叔母が嫁ぐまて、私たち兄妹は育てられたのである。

13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私の会社関係は辞退の連絡をしたりした。

親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降る中に来宅して頂き、
私たち親族は恐縮しながら、出迎えたりした。

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

そして、『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と云っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は通夜の雪が降った情景に思いを重ねて妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして昨年の『十三回忌』の法事があった。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹で、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、
別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、
付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は妹のふたりも60代となった。

私たちはお互いに幼年期より『ちゃん』付けで呼び合っているので、
ビール、日本酒、ワインなどを呑みながら昼食を頂き、
『XXちゃん・・あの時は・・』
と話しかけたりしているのである。

そしてお互いに思いだすように、
『あの時・・お母さんは・・このように言っていたよ』
と言ったりしている。

このように私達は、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。

私はこの時節になると、自宅などで雪を舞い降る情景を見つめると、
『私を忘れないでね・・』
と母のおもかげと共に声が聴こえたように思い、
心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりする時もある。


本日、私たち夫婦は妹の2人と駅前で、母の命日に際してお墓参りをする為に、待ち合わせをした。
予定時間に集合し、近くの寺院に向ったが、
この時節としては、風もなく暖かな陽射しに恵まれた。

境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂であった。

お墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと青空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのであるので、私は感謝の一心で、
手を合わせたりした。

生前の母と家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このように風もなく暖かい時・・初めてみたい』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、澄み切った青空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


この後、予約していた日本料理店で昼食を頂きながら、
私たち4人は、お互いに談笑し、懇親したのであった。

そしてお互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は妹のふたりに話したりした・・。


私は昨年に67歳となり、妹は65、63歳であり、家内も62歳の身であるので、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できるのである。

私の現役時代の50代の時、私の余り変わらない方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、昨年には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつこの世と告別するか、
もとより天上の神々の采配によるので、私は1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは日本料理店を辞した後、
駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・10年先まで・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりしたのであった。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。


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『冬景色』の歌、この時節を迎えると齢ばかり重ねた私は、愛惜を秘めながら心の中で唄い・・。

2012-01-08 09:29:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の齢ばかり重ねた67歳の身であるが、
いつものように日の出の7時前には、起床した。

今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点(つ)けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなり、
この後は、ネットで地元の天気情報を見たりした。

朝の6時はマイナス1度、昼下がりは7度、そして夜の6時は5度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となり、この時節の平年並みかしら、と微笑んだりした。

そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスで煙草を喫ったりした。
落葉樹の小庭の冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。

こうした情景を眺めたりしていると、

♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】

と何気なしに心の中で唄っていたのである。


この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。
そして世の中の多くの方は、3連休明けで何かとお忙しいと思いながら、
私の定年退職前の5年間は、出向の身となり、起床が4時45分としていた。
そして始発のバスに乗り、小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。

7時半過ぎに、まばゆい朝の陽射しを受けながら、霜が光帯びている情景を見ると、

♪ただ水鳥の 声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

【 『冬景色』 作詞、作曲・不詳/文部省唱歌 】

と心の中で呟くように心の中で唄っていたのである。

私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
この時節に迎えると、特に『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。


遠い昔、私は東京の郊外の農家の児として1944〈昭和19〉の秋に生を受け、
祖父、父を中心に程々の広さの田畑を保有とて、
小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。

この時節になると、宅地、竹林、そして畑、田んぼのあぜ道などが、霜で白く染められ、
霜柱が多く見られたりした。
或いは、ときには雪が降り30センチぐらいの積雪となったりした。

こうした時には、幼年の私はゴムの長靴の中に、
母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
付近を歩き廻ったりしていた・・。

こうした情景は1955〈昭和30〉年頃から、都心のベットタウンとして急速に変貌し、
住宅街となり、消滅していった・・。

こうした私の想いを秘めているので、哀歓を寄せたりしている。


何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。
作詞はどなたが創られた不明であるので、《文部省唱歌》となっている。
こうしたのを聴いたりすると、どの歌手はもとよりどなたが歌っても、
私はときたま涙ぐんでしまう時がある・・。

私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解るつもりである。


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『七草粥(ななくさがゆ)』を頂く今朝、我が家は平素の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』となり・・。

2012-01-07 15:25:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
古来より正月の7日の朝食には、七草粥を食べる習慣の家が圧倒的に多いと思われが、
恥ずかしながら我が家の朝食は、世の中の時流に逆らっているのかしら、
と私は朝食の時、家内を見ながら、微苦笑したりした・・。

朝食前にお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りに、さよならしながら別れを告げた後、
いつものように私は家内と共に朝食を頂いた・・。

私は白米のご飯、ワカメの味噌汁、春菊のゴマ和え、カブの醤油漬、コブの佃煮、海苔(ノリ)が五枚・・
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』が心身の波長に合うのである。

家内は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、コーヒーを飲みながら頂いている。

私は朝食を頂いた後、私の夫婦のご飯茶碗をよく見たら、少し欠けている処があったが、
いずれは私たち夫婦は、どちらかが片割れになるので、
大きくヒビが入ってなければ良い、と私は苦笑したのである。


我が家は、私の定年退職した2004〈平成16〉年後からは、
この日の朝は七草粥は無念ながら食べた記憶はない。

昨日、私はいつものように昼のひととき、冬晴れの風もなく中、最寄のスーパーに買物に行った。
野菜売り場のコーナーで、『春の七草』のセット品が50前後があり、
私は立ち止まり眺めていたのである。

このスーパーは、5日の木曜日から、『春の七草セット』が販売されて折、
チラシには、
《・・
       七草がゆ
1月7日正月、七草正月とも言われ、
早春の若草を粥に入れて、春の訪れを楽しむ日です。
7日の朝に、春の七草を入れた粥を食べると万病がさけられると言われ、
今年一年の家族の健康を願います。
中国から伝わり江戸時代に広まった習慣のようです。
・・》
と誰でも解るように優(やさ)しく明記されていた。

私は、『春の七草』の1パックの品を眺め、『新春を祝う 春の七草』と明記され、
神奈川県産と表示されて、1パック398円(税込)と大きく棚の所に明記され、
思わず微苦笑したりした。

もとより七草は、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケグサ、スズナ、スズシロであり、
スズナは野菜のカブであり、スズシロはダイコンであることは多くのお方に知られている。

私はここ10数年、七草粥の祝い事には興味がなく、
現実主義なので、遠い昔の頃は、この冬の時節は何かと野菜不足であったので、
新春のひととき七草粥(ななくさがゆ)を召し上がった、と思ったりした。

少なくとも現世は、キャベツ、レタス、セロリ、ホウレン草、ダイコン、カブ等が多品種にあるので、
私たち夫婦は、特に七草粥には興味がないのである。


私は東京の郊外の農家の児として生を受け、1951(昭和26)年の小学1年生の頃は、
祖父、父が健在で、程々の広さの田畑を小作人だった人たちのご厚意の助けも借りて耕していた。

旧暦の1月7日は、今の暦では2月中旬頃であるので、
田んぼのあぜ道、畑の小道の外れに多彩な野草が数多くあった。

父の妹の叔母の2人は、結婚する前の時期であり、
ノビルやヨモギなどを取り、私たち長兄、次兄、私にも食べさせてくれた。

ノビルは今でいうとラツキョの小型の形をしており、
真っ白な小玉が先端にあり、
さっとお湯をとおした後、味噌に砂糖を加えた甘味噌を付けて口に含んだりした。

早春の頃は、カブ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ等の野菜の中、
子供心にもノビルは春の香りを感じたりしていた。

ノモギも叔母達が摘んで、撞(つ)きたての餅などに入れ、
私達も香りと歯ごたえを共にした。

ナズナはペンペングサと呼んでいたが、兎(ウサギ)を次兄が飼っていたので、
次兄は叔母に教えられて、餌として盛んに採っていた、と微かな記憶が残っている。

この他の七草は多分生えていたと思われるが、
幼年期であったので、無念ながら記憶が定かでない。


このようなささやかな想いも秘めている私であるが、
日本人の古来からの行事のひとつ『七草粥(ななくさがゆ)』を頂くこの日の朝、
私たち夫婦は何かと和事に関心は多いが、ときには矛盾することもあるなぁ、と私は微苦笑している。


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『寒の入り』を迎え、東京郊外に住む私たち夫婦は、とりとめなく思いを馳せ・・。

2012-01-06 13:50:06 | 定年後の思い
東京郊外の調布市は、早朝の6時はマイナス3度ぐらいの日の出前の薄暗い朝を迎えたが、
7時前に日の出となり、30分過ぎると我家の主庭、居間はまばゆい朝の陽射しを受けている。
昼下りは9度前後の冬晴れに恵まれ、夜の6時過ぎは5度前後が予測され、
平年より暖かい日かしら、と感じたりしている。

そして私は居間の片隅に掲げているカレンダーを見つめると、
『小寒(しょうかん)』と明示され、思わず微苦笑をしたりした。

私は年金生活の8年生の67歳の身であるが、
私の住む東京郊外の調布市の片隅みで、世田谷区と狛江市に隣接した地域に於いては、
昨年の晩秋も平年より暖かく、年末年始になっても冬晴れの日々に恵まれている。

今朝の9時前に、私は近くに流れる野川の川沿いにある遊歩道を、
少しばかり散策したが、5度くらいかしらと感じながら歩いたりしたが、
寒さを感じることなく、澄み切った空気の中を微笑んだりした。


一昨日の4日の11時過ぎ、遅ればせながら初詣をしょうと思い、
神社、寺院を参拝した後、いつものように野川の川沿いにある遊歩道を歩いたりした。

川の水辺の近くには、コサギ、ダイサギ、カルガモ、カワセミなどが数多く観られ、
愛好者の方たちは写真を撮る方も見かけることがあるが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられている。

この野川の遊歩道の片側は、帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろど)っている場所がある。

この時節は、桜(サクラ)、クヌギ、コナラ、白梅、公孫樹(イチョウ)などの冬木立となり、
昼過ぎの10度ぐらいの暖かな陽差しを枝越しに眺めたりすると、
時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、
と定年退職後から深め過ごしてきた・・。


昨日の10時過ぎには、この遊歩道を上流に向かい10分ばかり歩くと、
小公園となり30本前後の落葉樹は冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラ、ケヤキの樹木が中核となっている・・。

そしてハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。

私は足を止めて、陽だまりとなっている木のベンチに座り、
煙草を喫ながらしばらく見つめたりすることが多い・・。

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花がひっそりと咲いている。

このように冬木立の眺めたり、光がきらめく空を眺めたりし、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。


このような情景を見ながら過ごしてきたので、
小寒か、と明記されて教えられても、実感が乏しいというのが、本音である。

先ほど、私は秘かに愛用している【日本文化いろは事典】のサイトを開き、
『行事・祭事』を指定した後、『二十四節気』を読んだりしたのである。

《・・
【小寒(しょうかん)』】
1月5日頃
小寒は『寒の入り』つまり寒さの始まりという意味です。
本格的な寒さでないという意味があるようですが、
実際この頃になると寒さは厳しくなります。
寒中見舞いは、小寒から出し始めます。
・・》

このように綴られていたが、私は体力は衰えても好奇心があるので、
その後についても、読んだりした。

《・・
【『大寒(だいかん)】
1月20日頃
大寒とは、一年で最も寒い時期という意味です。
小寒から数えて15日後とされて折、
小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までの15日間の合計30日間を『寒の内』といいます。
耐寒の為に様々な行事が行われます。

寒気を利用した食物(凍り豆腐、寒天、酒、味噌など)を仕込む時期にあたります。
・・》

このように誰でも解かりやすいように優(やさ)しく明記されていたのである。

私は季節感のうつろいを何よりも大切にしているひとりであるので、
こうした時節を明示している【日本文化いろは事典】サイトは、
特に定年後の年金生活を過ごす中、こよなく愛用させて頂だいているサイトのひとつでもある。


この時節、私の住む地域は、寒さを増しても、
庭の黒土の上にうっすらと霜となり、ところどころ霜柱も見られる。

そして3月初旬、日本中の多くが女の子を全面的に祝う『桃のお節句』の頃までには、
数年に一度ぐらい雪が舞い降っても、わずか数センチぐらいとなっている。

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味であり、雪恋しの心情を秘めているので、
雪舞い降る情景に求めて、北の地をめざして、旅を重ねることが、多いのである。

一昨年の2010年の12月中旬に青森県の十和田湖の奥地の『蔦(つた)温泉』に4連泊し、
雪舞い降る情景に私たち夫婦は少年、少女のような見惚(みと)れたり、
30センチぐらいの積雪の中、散策して戯(たわむ)れたりしていた。

この時の想いを今朝、私たちは話したりしていた。

そして、たまたま昨年の2011年の2月中旬に山形県の山里にある『銀山温泉』に4連泊した後、
最上川の船下りをしたりしたが、
こうしたこともお互いに語り合ったりしていた。


11月中旬には、秋田県の田沢湖の山麓にある観光ホテルに三連泊して、
乳頭温泉郷めぐりなどもして、雪の舞い降る情景に見惚れたりしてきた。

そして12月下旬になれば、北海道の十勝地方を訪れた。
帯広の郊外に連泊し、果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景に圧倒的に魅了され、
その後は、奥地の糠平〈ぬかぴら〉温泉に連泊し、厳冬期の前の時節の寒さの中、
私は積雪の中、小躍〈こおど〉りしながら、歩き廻ったりした。


このような私の心の根底には、私の住む地域でも、60年前頃の幼年期の頃は、
小寒から大寒まで、そして大寒から立春までの『寒の内』の時節には、
数回ぐらいは雪が降り、ときには積雪30センチぐらい舞い降った体験を幾たびかしてきた。

このような心情を愛惜を重ねながら秘めたりしているので、
何かしら雪恋しと思い、私は家内に結婚以来、何度も話したりしている。

こうしてこの時節の私は、東京郊外の冬晴れの多い暖かな恵まれた地域に住み、
ときには雪恋しと思う時、私たち夫婦は冬の旅を重ねてきたが、
あくまで多忙で苦楽の多いサラリーマン生活を卒業し、年金生活を過ごしている今、
初めてゆっくりと享受できる時を過ごしている。

尚、雪深い地域で日常生活を過ごされ何かと困苦を伴うことは、
江戸後期の商人で随筆家の鈴木牧之の『北越雪譜』を遺(のこ)された作品を拝読してきたので、
あくまで私たち夫婦は旅人であることを付記する。


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