夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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「生き続ける苦痛」老衰で死ねない時代へ・・、私は厳粛に学び、やがて多々教示させられて・・。

2020-09-09 14:40:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく76歳の身であるが、
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 幻冬舎ゴールドオンライン 】を見たりしていた。


こうした中で、『 「生き続ける苦痛」老衰で死ねない時代へ・・、医師と家族の選択肢  
と見出しを見たりした。
   

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。


こうした中、過ぎし35年近くのサラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
17年近く過ごしてきた年金生活は、予測した以上に安楽な生活を享受している。

しかしながら、誰しも70代の頃になれば、

いつの日か自身が亡くなる時を思い馳せる時があると思われ、
何かと単細胞の私でも、漠然としながらも思案する時がある。

          


 

私は年金生活を始めて、3年過ぎた頃から、
いつの日にか認知症、脳梗塞など、そして寝たきりになる前に、
ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしていた・・。                   


たとえば晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、 
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろど)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。

そして、いつものように木のベンチに私は座り、ペットポドルの煎茶を飲みながら、少し休息をした・・。 


この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。 


この遊歩道で、独りで歩き、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、 といった状況を願ったりした・・。

          
            
                                                            
しかしながら、この5年を過ぎた頃、私は「ピンピンコロリ」は難しい、とネットの記事で学んだりした・・。
がん医療の権威で終末期医療に詳しい大野竜三医師(愛知県がんセンター名誉総長)は、
『・・ピン・ピン・コロリ。それは中高年なら、誰もが願う生き方でしょう。
でも、そう簡単なことでは、ありません。

現実的に60歳以上の日本人がコロリと逝くとしたら、
心筋梗塞か、脳出血か、脳血栓かと思いますが、 救急搬送されれば、救命措置が施されるでしょう・・』
と私は学び、苦笑したりした。

         

そして『急性心筋梗塞』の場合は、
《“バットで思い切り、胸を叩かれた感じ”、 “熱した鉄棒を、左胸のあたりに、突き刺されたみたいだった”
と口にしていた。 ・・
手足をバタつかせて、もがきながら、救急車内で搬送中に、心肺停止するケースもありました」・・》

このような『急性心筋梗塞』のことを学び、
何かと小心者の私は怯(おび)えながら、 勘弁してほしい、と思ったりしてきた。 

このような終末期を私は思いめぐらしてきた・・。 

                                    

この後、親戚の叔父さん3名も、終末期に3年から5年も入院され、
こうした中、ふたりの叔父さんは御自身の意思はなく、多大な手厚い延命治療を受けて、
やがて病院で亡くなってきた。

こうした話を私は聞いたりしてきたが、 自分で食物を口に運び、食べられなかったら、
もとより延命治療は断り、 痛みだけを執(と)って下さる平穏死を選ぶょ、
と私は家内に幾たびも言ったりしてきた。

家内も胃ろうや人工呼吸器などの延命治療は、お断りですから・・ と私に言ったりしている。


このような話を私たち夫婦は、幾たびも話し合ってきた・・。

このような深情を秘めている私は、今回の《・・「生き続ける苦痛」老衰で死ねない時代へ・・》って、

どのような状況なのですか、と思いながら記事を真摯に読んだりした・・。 

         

この記事の原文は、医療法人清水会の理事長である佐藤貴久さんが、

『医療・介護連携で実現する 高齢者のための地域医療』(幻冬舎MC)、上梓されて、
編集部が一部を抜粋した記事である。

そして関連の公式サイトの【 幻冬舎ゴールドオンライン 】に2020年9月9日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。


    
《・・スイスへ赴き、安楽死を選んだ女性がNHKで報道されて以降、
「人の尊厳」に関わる議論が活発に交わされていますが、
重要なテーマの1つに「胃ろう」が挙げられます。

口から食事をすることが困難な患者の胃に、直接栄養を送るそのシステム。

☆ピンピンコロリを希望する患者への「胃ろう」の是非

徹底した予防医療があっても、高齢者が病気になることや、
体力が衰えることは、ある意味、生物として当然のことであり、
避けられないことではあります。

認知症患者でも、ほかの病気を迎えた患者でも、
最終的には嚥下機能が衰え、食べられなくなり弱っていくのは、
もっとも多い最期の迎え方でしょう。
 
食べられなくなったら「老衰」と判断して、
そのまま枯れるように亡くなることをよしとするのか、
胃ろうなどの経管栄養で生命を維持するのか。

そこは本人と家族の判断に任せるしかありません。


 
数10年前までは、どれだけ高齢であっても、
救命することが正しいと考えられ、
どの病院でも家族の希望を聞くこともなく、経管栄養に切り替えていました。

国民皆健康保険に守られている日本の風土が、そうさせてきたのかもしれませんが、
胃ろうが急増した理由のひとつに「家族の望む処置」でもあった
という面は隠すべきではないでしょう。
 
老衰に近い状態になってくると、
病院でできる治療は、栄養の補給だけになることがあります。

その時に、「家に帰りますか?」と家族に尋ねると
「病院で看取って欲しい」と希望する。

病院側は、何も治療しないのに入院させておくことはできず
「では胃ろうをつくります」という結論になる。

こういった流れで胃ろうがつくられ続けてきた一面があるのです。

 
また、介護施設のなかには、点滴や経鼻経管栄養の患者は受け入れないが、
胃ろうの人は、それほど手がかからないので入所を許可するケースが多く、
家族の側から「胃ろうにして欲しい」と希望するケースも実際にはあるのです。
 
しかし、こうしてつくられた胃ろうのために、
患者本人は望まない延命を続けられることになります。
 
胃ろうは、生きるためのカロリーを強制的に入れる方法ですが、
多くの患者は、寝たきりの状態です。

消費カロリーとのバランスが取れずに太ってしまい、
ボウリングの玉に割り箸がついているような体型に近づく患者もいます。

その姿のまま、ただベッドに横たわり、心臓が止まるのを待つだけという姿は、
誰の目から見ても切ないものです。
 
「ピンピンコロリ」を希望していた患者に、
胃ろうをつくることが本当に必要なのでしょうか。

 
家族が望む場合、医師はその気持ちをぞんざいに扱うことはできませんが、
再び元気になれる可能性のある方が、病気治療のためにつくる場合以外、
胃ろうについては推奨できないケースが多々あります。

その上、嚥下機能が回復しなかった場合、
一度つけた胃ろうを外すことは、難しいものになるということを、
家族も医療従事者も知っておかねばなりません。
 
厚生労働省の「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」にあるとおり、
もっとも尊重すべきは本人の意思です。

そのためにも、胃ろうに限らず、延命治療を行うかどうかについて、
 事前に患者本人と家族に対してメリットとデメリットを丁寧に説明し、
本人の意思を確認しておくこと。

また本人の意思が確認できない場合でも、本人の希望を推測することが
高齢者医療の大切なステップとなるのです。



☆「手を尽くす」ことは本当に患者のためといえるのか?

胃ろうをつくらない場合、栄養摂取ができず、身体はどんどん衰えていきます。

しかし、これは本来「人が死ぬ」自然な流れであり、
患者本人にとっては楽に、穏やかに旅立つための正当な道のりです。
 
高齢者医療を理解している医師であれば、
入院中でも在宅療養中でも、ここから看取りの態勢に入る指示を
看護師や介護スタッフに行うことができます。

しかし、「手を尽くす」ことを使命と感じている医師は、
最期の最期まで点滴によって、栄養と水分を入れます。


 
 ☆手を尽くすことを使命と感じている医師は、最期の最期まで・・?

点滴を続けると、しだいに低タンパク血症となり、
点滴で入った栄養や水分が血管外に漏れ出して、
浮腫や胸水、腹水を起こすことになります。

なかには胸水や腹水を抜き、再び点滴を継続する医師もいますが、
胸水や腹水にも栄養が含まれているため、
これをみすみす抜いてしまうことで栄養状態が悪くなります。

また胸水や腹水を抜くと水分が失われるため、
尿量が低下することにより、腎機能が低下することもあります。

そうなればますます尿が出なくなり、
顔も身体もパンパンにむくんで、腫れ上がってしまいます。
 
こうした状態で最期を迎えると、患者は苦しみ、
旅立ち後の表情はつらく厳しいものになります。

 
しかし看取りを理解している医師であれば、
水分補給は少量にとどめ、だんだんと枯れていくように導きます。

浮腫や胸水、腹水のある人は、最期は自身のその水分を使って生命を維持しますから、
補給する水分は少なくてすむのです。

末梢の点滴だけを使い、食事をまったくとらなければ、
平均して2~3ヵ月くらいで看取りとなりますし、
点滴すらやめてしまえば、普通は約1週間、
胸水や腹水がたまっている場合でも2週間以内で旅立ちの時がやってきます。
 
点滴も何もしなければ、人の身体は最小限の「省エネモード」になり、
細々と生命を維持し、静かに穏やかに亡くなっていきます。

最後は眠るようにひっそりと、死に顔も美しいものになります。
 
「何もしない終末期」の選択ができる医師こそが、
高齢者医療の要になると私は思っています。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今年の春、新型コロナウィルスで不用不急の外出自粛の中、
私たち夫婦は『終活』をしている中、葬儀、墓地などに関しながら、
やがて終末期の『尊厳死』の手続きをしたりした。

こうした中、尊厳死についての活動を行う団体に「尊厳死協会」があり、
尊厳死の定義やリビング・ウィルなどの普及啓発を目的として設立された団体と知っりした。

          

《・・日本尊厳死協会では、延命治療を続けないことを希望する患者の「リビング・ウィル」を登録管理し、
不治で末期の状態となったときを想定して、事前に患者の尊厳死の意思を明確に残しておくための書類で、
あらかじめ、終末期医療に対する希望を書き残した医師らへの指示書を用意しておく、と学んだりした。


そして日本尊厳死協会では、リビング・ウィルとして尊厳死宣告書を発行し、
尊厳死宣告書は、自分が不治の病で末期の状態となってしまったときに、
終末期の医療について患者自身の意思表示をするための書類です。

尊厳死宣告書には、「リビング・ウィル-終末期医療における事前指示書」と、
その補完として「私の希望表明書」が提供されています。

本人の希望表明とは、たとえば、回復不能な植物状態が継続するような状態となったときには
延命処置を止めてほしいといった内容です。

また、苦痛を和らげるような措置については、
できる限り受けたいといったような希望を表明することもあります。

本人が記載した原本と併せて、原本証明付きのコピーも2枚送付されるため、
いざというときに備えて家族などに預けておくことも可能です。


決断のときに、どのような医療を受けたいか、医療を受けることを望まないかを自分で決めることは、
憲法に保障された基本的人権のもとである自己決定権です。

また、最期のときまで自分らしく生きるための過ごし方を選択することは、
患者自身の存在を尊重することにもつながります。・・》


          

こうした「尊厳死協会」に入会申し込みを、それぞれ私たち夫婦はして、
まもなく
『正会員』として、ぞれぞれ年会費2000円を振り込んだりした。

やがて私たち夫婦は、終末期の治療に関して、それぞれささやかな希望が叶(かな)い、
あの世に旅立てるかしら、と私は思い深めたりしている。




今回の記事より私は、《・・看取りを理解している医師であれば、
水分補給は少量にとどめ、だんだんと枯れていくように導きます。

浮腫や胸水、腹水のある人は、最期は自身のその水分を使って生命を維持しますから、
補給する水分は少なくてすむのです。

末梢の点滴だけを使い、食事をまったくとらなければ、
平均して2~3ヵ月くらいで看取りとなりますし、
点滴すらやめてしまえば、普通は約1週間、
胸水や腹水がたまっている場合でも2週間以内で旅立ちの時がやってきます。

 
点滴も何もしなければ、人の身体は最小限の「省エネモード」になり、
細々と生命を維持し、静かに穏やかに亡くなっていきます・・》

こうしたことを私は学び、晩年期に《・・看取りを理解している医師・・》、
めぐり逢えますように、祈願したりした。
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2 コメント

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Unknown (星光輝)
2020-09-09 16:53:40
いつも掘り下げた内容で
大変ために(勉強に)なります)。
昔は昭和20年代30年代のころは
老いて食べれなくなり水も飲めなくなれば
そのまま自然死で亡くなっていた。
それが本当の姿かもしれない。

病室に行き、老親が死にきれず
苦しい息遣いをしていると
医者にできるかぎりの処置をお願いします、と頼むと
医師は点滴の処置を行います
(医師は老親の体は衰弱し循環も悪く、これ以上
点滴をしても効果はなく、逆に点滴をすることで
体や顔が浮腫み、浮腫んだ顔のまま納棺されてしまいます。
浮腫みがなくきれいな顔で納棺された方が
本人も安らかな顔に映り遺族もほっとされます。
食べれなくなり水も飲めなくなり、オシッコもでなくなると死がほんとうに近いのです。
どう死ぬか、死に方は生きている間に考えておかねばならないことなのかもしれません。
自分は胃瘻もしません。
胃瘻を行い胃瘻が抜去でき、再び口から食べる可能性があれば胃ろうは行います。
胃ろうを行う先の見通しの有無ですね。
ただ息らえる胃ろうは、自分は生きる屍のような
感じがして行う気持ちになれません。
胃ろうを行う行わないは人それぞれの判断に委ねるしかないです。
返信する
あなたさまのお気持ち・・深く心の中で・・。 (夢逢人)
2020-09-09 18:06:31
星光輝さま。

初めまして・・。

>いつも掘り下げた内容で大変ために(勉強に)なります)。
>昔は昭和20年代30年代のころは
>老いて食べれなくなり水も飲めなくなれば
>そのまま自然死で亡くなっていた。
>それが本当の姿かもしれない。

>病室に行き、老親が死にきれず
>苦しい息遣いをしていると
>医者にできるかぎりの処置をお願いします、と頼むと
>医師は点滴の処置を行います

>(医師は老親の体は衰弱し循環も悪く、これ以上
>点滴をしても効果はなく、逆に点滴をすることで
>体や顔が浮腫み、浮腫んだ顔のまま納棺されてしまいます。

>浮腫みがなくきれいな顔で納棺された方が
>本人も安らかな顔に映り遺族もほっとされます。

>食べれなくなり水も飲めなくなり、オシッコもでなくなると死がほんとうに近いのです。

>どう死ぬか、死に方は生きている間に考えておかねばならないことなのかもしれません。
>自分は胃瘻もしません。
>胃瘻を行い胃瘻が抜去でき、再び口から食べる可能性があれば胃ろうは行います。
>胃ろうを行う先の見通しの有無ですね。
>ただ息らえる胃ろうは、自分は生きる屍のような感じがして行う気持ちになれません。
>胃ろうを行う行わないは人それぞれの判断に委ねるしかないです。

真摯なコメントを頂き、あなたさまのお気持ち・・深く心の中で思い重ねて、教えて頂き感謝致します・・。

気候が不安定な昨今、御身体を御自愛されてお過ごしして下さい。
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