私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夕、本棚をぼんやりと見ていて一冊を取りだした・・。
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)の単行本であるが、再読してしまった。
そして深夜、私は2008年の10月下旬に『秋山郷』を往還した旅路を思い馳せたりした・・。
私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら25年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない我が家は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。
たまたま2008年の10月下旬に志賀高原の発哺温泉滞在に2泊3日の団体観光バスツアーの旅で、
秋山郷を周遊するコースがあったので、
私たち達夫婦は魅了させられて、ツアーに参加の理由のひとつとなった。
そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に関しては、
若き日の二十歳過ぎに読んだりしていたので興味を増し、
この時の旅の前には磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を初めて読んだりし、『秋山紀行』も学び、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。
このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。
奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦繍の世界であった。
道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。
このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、地上に落下していた。
私は思わず、
『夢のような情景だね・・林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に言ったりしていた・・。
私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。
《画面をクリックしますと、拡大されます》
自由食であったが、地元の食材を加味した食事処で、お握(にぎ)りと茸(きのこ)汁などを
私たちと同行した人が多かった。
呑兵衛の私は、食事処の片隅で地酒のワンカップを見つけて、
そして炉辺で焼かれている岩魚(イワナ)を私たち夫婦はそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒を2本吞みながら、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。
その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられて折、私は近眼で老眼を感じているので、丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で記念として私は顔を洗ったりしたのである。
このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。
『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
《・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。
そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。
重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・》
そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。
最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりした。
このような山里の食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と私は確信を深めた。
宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーさんのご好意で、臨時停車となり、錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したりした。
秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に心酔した私は、
私たちと同行した多くの方は、日頃の行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりし、帰館した。
このような『秋山郷』を往還した旅路を深夜のひととき思い馳せたりしたのである。
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昨夕、本棚をぼんやりと見ていて一冊を取りだした・・。
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)の単行本であるが、再読してしまった。
そして深夜、私は2008年の10月下旬に『秋山郷』を往還した旅路を思い馳せたりした・・。
私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら25年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない我が家は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。
たまたま2008年の10月下旬に志賀高原の発哺温泉滞在に2泊3日の団体観光バスツアーの旅で、
秋山郷を周遊するコースがあったので、
私たち達夫婦は魅了させられて、ツアーに参加の理由のひとつとなった。
そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に関しては、
若き日の二十歳過ぎに読んだりしていたので興味を増し、
この時の旅の前には磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を初めて読んだりし、『秋山紀行』も学び、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。
このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。
奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦繍の世界であった。
道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。
このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、地上に落下していた。
私は思わず、
『夢のような情景だね・・林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に言ったりしていた・・。
私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。
《画面をクリックしますと、拡大されます》
自由食であったが、地元の食材を加味した食事処で、お握(にぎ)りと茸(きのこ)汁などを
私たちと同行した人が多かった。
呑兵衛の私は、食事処の片隅で地酒のワンカップを見つけて、
そして炉辺で焼かれている岩魚(イワナ)を私たち夫婦はそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒を2本吞みながら、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。
その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられて折、私は近眼で老眼を感じているので、丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で記念として私は顔を洗ったりしたのである。
このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。
『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
《・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。
そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。
重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・》
そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。
最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりした。
このような山里の食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と私は確信を深めた。
宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーさんのご好意で、臨時停車となり、錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したりした。
秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に心酔した私は、
私たちと同行した多くの方は、日頃の行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりし、帰館した。
このような『秋山郷』を往還した旅路を深夜のひととき思い馳せたりしたのである。
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>私のリクエストにお答え頂き、数々のお写真を掲載してくださり、
>本当にありがとうございます。
私は良き意味での貴女様のアドバイスに喚起させられて、
遅ればせながら投稿文に写真を添付するのに挑戦しました。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人もいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の使い方の中に於いて、
《画像入りの記事を投稿する》の解説を読んだりした後、
こういう手順だったの、と安堵を重ねて微笑んだりしました・・。
そして【 初めて写真掲載、遅ればせながら68歳の私が手習いして、微苦笑を重ね・・。】
このようなタイトルを付けて、写真を添付して夕方に投稿しました。
この夜の10時過ぎに、写真添付が何とか出来たので、
忘れないうちにと明日用の投稿文の下書きをした・・。
そして既に投稿文に添付した写真は送信済であったので、写真を削除して、
新たな写真をアップデートした。
そして翌日の朝、パソコンで地元の天気情報を確認した後、ブログサイトを開いたら、
確か写真を添付した投稿文の写真が消え、
『どうして写真が消えてしまったの・・』と私は心の中で呟(つぶや)きながら動顚し、
やむなくシステム上の写真専用のピクチャ・ファイルから再度写真を選定して、
投稿文を修正したりしりしていました。
この間、私のサイトに見て下さった方は、写真の縁取りだけの空写真の投稿文で、
驚き失望され、苦笑いをされた方もいると思われる。
この後、私はマニアルの《画像入りの記事を投稿する》の解説を精読して、
画像ファイルの取り扱いに間違っていた、と気付きました。
何かと奥手の癖に、ときおり早ガッテンしてしまい、お恥ずかしい限りです(泣き笑い)
>お写真、どれもとてもキレイで、夢逢人様の素晴らしい感性に心打たれております。
>これから益々お訪ねするのが楽しみになりました。
写真の技巧にも乏しく、構図も甘く、恥ずかしい限りですが、
せめて心の思いは深い、とうわべの自信だけで撮ったりしています。
>吉幾三さんに似ていらっしゃるというお姿を想像しながら、
>読ませていただいておりますよ。
まさか洞爺湖で吉幾三さんにお逢いするとは思ってもいませんでした(笑)
吉幾三さんにすれば、冠婚葬祭などで遠い親戚の方にいたのかしら、
このような戸惑いの表情を瞬時されていました(笑)
いずれにしましても、貴女様の優しい適言で投稿文に写真を添付でき、
感謝致します。
今後もますます田園調布の方面に足を向けて寝付くことはない、
と思っている次第です。
私のリクエストにお答え頂き、数々のお写真を掲載してくださり、
本当にありがとうございます。
お写真、どれもとてもキレイで、夢逢人様の素晴らしい感性に心打たれております。
これから益々お訪ねするのが楽しみになりました。
吉幾三さんに似ていらっしゃるというお姿を想像しながら、
読ませていただいておりますよ。