私は昨日の昼下り、居間にある映画棚より、ビデオテープを取りだして、
デビット・リーン監督の『ドクトル・ジバコ』(1966年=昭和41年)を居間で観たりした。
私は洋画の分野としては、この監督の数多くの作品に敬愛しているひとりなので、
名作の数々を繰り返して鑑賞しているが、昨日はこの『ドクトル・ジバコ』を5度目かしらと思いながら鑑賞した。
もとよりこの『ドクトル・ジバコ』の原作者は、
ロシアおよびソ連の詩人・小説家のボリス・パステルナーク(1890年~1960年)である。
ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説であるが、
この当時、アメリカとソ連の冷戦下の時代に、1957年に作品は完成したが、
ロシア革命を批判する作品であると考えられたために、本国のソ連での公刊を拒否された。
そして、密かに国外に持ち出され、1957年にイタリアで刊行され、
世界的に知られることになり、世界の文学史上はもとより、社会的に大きな事件として報道された。
そして今や伝説となり、以下は多くのメディアに報じられている。
翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、
KGBとソ連作家同盟による反対運動の末、
受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは
『母国を去ることは、死に等しい』と言い受賞を辞退した。
そしてソ連の共産党は、この『ドクトル・ジバゴ』の作品は、
『革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである』と非難した。
この当時『社会主義革命の輸出』をしていたソ連政府にとっては、
『ロシア革命は人類史の大きな進歩である』という見解に疑問符をつけることは許しがたいことであった。
やがてパステルナークは1960年の肺癌による死去されたが、
パステルナークに対する反対活動はソ連の国際的信用を傷つけることとなった。
そしてパステルナークは今日までロシア文学界に於ける主要人物であり、
さらに、パステルナークが始めた反体制活動は、
アレクサンドル・ソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、洗練され、拡大していった。
その後、この作品がソ連で刊行されたのは、1987年のことである。
こうした歴史に翻弄されたパステルナーク、そしてこの作品が、
映画に於いては、脚本担当として劇作家のロバート・ボルトが、
原作の小説よりジバコとラーラの愛の軌跡に焦点を絞り、
ロシア革命の動乱の中で、翻弄されていく、純粋な男の悲劇を完成させている。
私は映画雑誌の講談社が発売した『週刊 20世紀シネマ館』全50冊を私は10数年前に購入したが、
この中で『ドクトル・ジバコ』の作品が取り上げられていたのを読んで、
原作者の創作の発想を知り、読了後に動顚し、敬服させられたのである。
この『週刊 20世紀シネマ館』の中に、定例の特集の【シネマ物語】のコーナーがあり、
《 詩人パステルナークが愛した実在の『ラーラ』》
と題されて、綴られていた。
無断であるが転記をさせて頂く。
《・・
1960年5月30日の深夜、
ノーベル賞作家ポリス・パステルナークが世を去った。
その傍(かたわ)らにいた一人の女性こそ『ドクトル・ジバコ』のヒロイン、
ラーラのモデル、オリガ・イビンスカヤである。
第二次世界大戦直後の1946年、
56歳のパステルナークは、20歳以上も年下のオリガと恋に落ちた。
詩人は妻と別れ、オリガと同棲したが、
オリガは《反革命詩人》の愛人ということで、強制収容所に送られた。
オリガは収容所でパステルナークの子を流産し、4年間を過ごす。
この体験と、オリガへの深い愛情を、パステルナークは小説『ドクトル・ジバコ』を綴り、
世界中を感動させたのだった。
・・》
私は恥ずかしながら原作の翻訳も読んでいないが、この作者の第二次世界大戦後の体験を
第一次世界大戦、そしてロシア革命の時代を背景とした壮大な物語に、
創作者としての発想の根源を作品として結実させたことに驚いている。
創作者は小説家はじめとする人は、
脳裏に幻想をどれだけ豊かにした上、創作し、作品を完成させるかの力量に、
圧倒的に感銘したのである。
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学生時代「ドクトルジバゴ」は確か新宿駅裏にあった名画座でリバイバルを観たのですが、内容は忘れてしまいました。
ジバゴとラーラの間に出来た娘がバラライカという楽器を持っていたのと、「ラーラのテーマ」の挿入曲が印象的な覚えがあります。
夢逢人さん同様デビッド・リーン監督は好きですね!
キャサリン・ヘップバーン主演の「旅情」が特に印象に残っています。
>ジバゴとラーラの間に出来た娘がバラライカという楽器を持っていたのと、
>「ラーラのテーマ」の挿入曲が印象的な覚えがあります。
まさしくこの『ドクトル・ジバコ』の作品に於いて、バラライカの楽器が効果的である上、
主題歌の「ラーラのテーマ」も良き旋律で、名曲です♪
私の監督のデビット・リーンに関しては、
中学生の時に渋谷で満員で立ちながら『戦場にかける橋』(1956年)を初めて鑑賞した後、
高校生の時に日比谷でリバイバル上映で『旅情』(1955年)、
大学生の時に名画座で『逢びき』(1945年)、
そして有楽座のロードショウの初日に『アラビアのロレンス』(1962年)を観たりしてきました。
その後は、『ドクトル・ジバコ』(1965年)、『ライアンの娘』(1970年)、『インドへの道』(1984年)を、
ビデオ・テープで自宅のテレビで観たが、
こうした大作は映画館のスクリーンで観るべきだった、
と後悔しているのが本音です。
こうした中、私は家庭を持った時は、
『逢びき』(1945年)の女主人公の夫のような男性になってみたい、
と独身の20代の初めの頃に思ったりしていた。
イギリスの郊外で、中流家庭の節度ある妻が、
たまたま出会った男性と逢いびきを重ね、
揺れる恋情を得て、家庭に戻る・・
こうしたことを何もなかったかのように夫は暖かく迎える・・。
背景の音楽は、ラフマニノフのピアノ協奏曲が効果的に流れ、
私は圧倒的に感銘した次第です。
二十歳の時でしたから、人生の途上で人生の苦楽も知らず生意気盛りでした(笑)
映画も小説と同様に、人生の教科書のひとつです。