先程、ときおり愛読している【 日刊ゲンダイデジタル 】を見ている中で、
『 高級スーパー「成城石井」がついに上場へ
転売の歴史に終止符を打つのか 』、
と題された見出しを見たりした。
私は東京の調布市に住む年金生活の77歳の身であるが、
そして『成城石井』の本店は、私の住む程々近く所にあり、
幼年期から何かと思い出を重ねたきたこともあるので、精読してしまった。
【 日刊ゲンダイデジタル 】に於いて、4月20日に配信され、
無断であるが、記事の転載させて頂く。
《・・相次ぐ転売の歴史に、ついに幕が下りるのか──。
コンビニ大手のローソンが、全額出資の食品スーパー子会社「成城石井」を
東京証券取引所に新規上場させる方向で検討に入った。
早ければ年内にも上場申請に踏み切る。
成城石井は、小田急電鉄成城学園前駅前にあった果物店がルーツ。
1976年スーパーマーケットに業態転換、1988年からチェーン展開に乗り出したが、
2004年に創業家が、発行株の66・7%を65億円で、
焼き肉チェーンのレインズインターナショナルに譲渡。
2006年同社の完全子会社になった後、
2011年、今度は三菱商事系投資ファンドの丸の内キャピタルに、
400億円で身売りされた。
この時は伊藤忠商事や丸紅も買収に関心を示していたという。
約550億円でローソンが競り落としたのは、2014年。
三越伊勢丹ホールディングスとイオンも買収に名乗りを上げ、
三つ巴の争奪戦を繰り広げた挙げ句、最後は三越伊勢丹との一騎打ちを制しての結末だった。
三越伊勢丹は当時、経営不振に陥っていた同業の「クイーンズ伊勢丹」立て直しの
「起爆剤にする腹積もりだった」(関係者)とされるが、当て外れ。
結局、クイーンズ2018年、丸の内キャピタルに売却される。
成城石井の足元の業績は好調だ。
2019年2月期に875億円強だった連結売上高は、
2021年2月期に1000億円の大台を突破して、1036億円に。
2022年2月期には、5・9%増の1097億円余にまで拡大した。
営業利益も同2月期で7・6%増の122億円と4期連続の増益を記録している。
財務の健全性も高く、自己資本比率は70%を超えており、
上場時の時価総額は「2000億円を上回る」(金融筋)ともみられている。
ローソンは、上場後も一定の持ち株比率は維持する考えだが、
保有割合は、50%未満に抑える見通し。
上場で得た資金は、コンビニ事業での新たな成長投資や
一部は「自己株買いに使うのでは」(市場関係者)などとも取り沙汰されている。
成城石井の店舗数は、FC含め201店舗。
上場を機に、出店戦略をさらに加速していくとみられるが、
現時点で岡山県以西と宮城県以北は“進出空白区”。
市場からは「その分だけ成長余地は大きい」との声もあがる。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
今回、経済ジャーナリストの重道武司さんの寄稿文より、
「成城石井」が、ついに上場されるまでの過程を多々教示されたりした。
私が成城石井に関しては、若かった時代に、別れた恋人に
偶然にめぐり逢えたような複雑な心情で、思い馳せたりした・・。
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。
そして私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けをお借りて、程ほど広い田畑を耕していた。
そして小さな川が所有している田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の代々継続している家は、
このような情景が、多かった・・。
そして小田急線と京王線の間にサンドイッチのような辺鄙な処で、
京王線の最寄駅は『つつじヶ丘駅(当時は、金子駅)』か『仙川駅』であり、
児童の私としては、15分ばかりを歩いて『つつじヶ丘駅』に近い小学校に通ったりしていた。
或いは小田急線の最寄駅は『成城学園前駅』か『喜多見駅』、そして『狛江駅』であり、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に生家があったりした。
こうした中で、確か小学1年生だったと記憶しているが、父の妹が未婚だった頃、
この叔母に連れられて、30分ぐらい歩いて『成城学園前駅』の近くにある『石井食料品店』に行った。
祖父、母、叔母たちから『石井食料品店』の実家とは、
何かしら曽祖父の時代に血縁していたらしく、
遠い親戚の人、と私は幼年なりに教えられていた。
そして叔母は高校を卒業してまもなく、『石井食料品店』で従業員のひとりとして働いていた。
こうした縁で、私は叔母に引率されて、生まれて初めて成城学園の住宅街を歩いた。
数百坪の敷地が整然と並び、お屋敷町みたい、と私は幼年心なりに、叔母に言ったりしていた。
そして『石井食料品店』に到着したが、見た事のない高価な果物がたくさん店内に並べられていた、
こうしたことが鮮明に今でも、心の片隅に残っている。
この後、このお店の片隅で、水道の水を生まれて初めて飲んだ・・。
この当時の生家は、つるべの時代を終えて、母家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、
飲んでいたので、私は井戸水しか知らず、水道の水は不可解な味であった。
そして私が小学2年の三学期の1953年(昭和28年)の3月に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家として大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
☆この写真は、たまたま私が2014年の12月初旬、
成城学園駅の周辺を散策していた時、撮った情景である☆
やがて私が34歳になった時、生家の近い処に戸建ての家を新築して、
私は当時は民間会社に勤めて、本社は六本木に所在していたので、
我が家から通勤コースとして、利便性のある路線バスで『成城学園前駅』経由で
六本木に通ったりしていた。
そして私も家内も、成城学園前の商店街で買物もするようになった。
こうした中で、『石井食料品店』は、高級なスーパーマーケット『成城石井』と変貌しており、
多彩な食材とか食品も高品質で、ときおり買い求めたりしていた。
私が40代の半(なか)ばの時、不覚にもギックリ腰が悪化して、
28泊29日で入院した時、会社そして関係の人にお見舞いを数多く頂だき、
この後、御礼としてデパートとか成城石井から送付したりした。
この中のひとりが東急の田園都市線の青葉台駅の近くの住宅街にお住まいで、
成城石井の支店、青葉台もあるよ、
と私は言われて、成城石井も支店を出店するようになったか、と驚いたりした。
この間の私は、働き始めた25歳からの習性として、
母にはお中元、お歳暮の時に、いくばくかお金を包んて渡したりしていた。
そして私が40歳を過ぎた頃から、成城石井のお惣菜売り場で買い求めた3品前後も、
手渡した時、母は私が予測した以上に悦こび、私は母が亡くなる15年近くまで続けたりした。
こうした中、私と母は毎週土曜日に電話連絡をして、
週刊ニュースのように母の一週間の出来事を聞いたりしていた。
たまたま母が成城に行き、歯科医院で治療した後、成城石井に寄って買物をしている時、
御曹司の御方が店長として店内にいた時、XXちゃん・・と話しかけ、
5分ぐらい立ち話しをしてしまったわ、と母は私に言ったりした。
『お母さん・・昔のゆったりとしたおおらかな食料品店の時代と違い、
お客さんで混雑している中、店長は奮闘しているのだから、ご迷惑だょ・・』
と私は母に言いながら苦笑したりしていた。
こうしたこともあったりしたが、私、家内、そして母は生前していた時は、
何かと成城石井で買物をしたりしていた。
やがて私は2004年に定年退職をした後、多々の理由で年金生活を始めた頃、
風の噂として、成城石井はある大手の会社に株式の大半を譲渡した、と聞いたりした・・。
私と亡き母が親しみを感じてきた亡くなった先代の御方、
そして後を継がれて高級スーパーに変貌させた御曹司の御方、
無縁となってしまい複雑な思いで、ときおり私は買い求めたりしている。
やがて2014年5月、テレビ東京の『ガイアの夜明け』という番組で、
成城石井の躍進を、《 どんな場所にも出店 成城石井・・驚きの戦略 》と、
タイトルが付加されて放送されていた。
何かしから地方まで多店舗する中で、昨今の都心で出店も急増する実態、
こうした中で、自社で手作りしているお惣菜の製造センター、
各店からの細かな発注に対応出来る物流センター、
そして独自の目利きで輸入している種類豊富な高級な生ハムやチーズ等が映しだされた。
或いは麻布十番の店では、2階をワインバーとして、
1階で販売している食材・商品のを使ったメニューを開発しながら提供し、
好評されている実態が放映されていた。
私は視聴しながら、成城石井もあの当時からして大きく変貌したなぁ、
と少し溜息を重ねながら、過ぎ去った日々に思い馳せたりした・・。
そして2015年11月下旬に、テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組で、
加速されている成城石井の多彩な各店の状景が放送されたりし、
私は25年前の前後、成城学園前の近くにある成城石井で、
私たち夫婦、母が何かと買物していた情景が、走馬灯のような思い馳せられたりした。
このような深情ある私は、ここ10数年は家内と共に、
来宅用に備えて年に数回ぐらい買い求める程度で、
平素の買い物は、我が家の最寄りにある普通のスーパーで買い求めているのが実態であり、
と改めて微苦笑を重ねたりしている。