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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

都心48年ぶり氷点下4度と昨夕学び、やがて私は過ぎし年の1970年頃の当時を思い馳せて・・。

2018-01-26 14:56:08 | ささやかな古稀からの思い

昨夕、テレビで天気情報を視聴していたら、
非常に強い寒気が流れ込んだ影響で、25日は全国的に厳しい寒さとなりました。
東京都心では1970年1月以来、48年ぶりに氷点下4度の最低気温を観測しました、
と報じられていた。


私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
48年ぶりの寒さと知り、私の住む地域としては寒かったはずだった、と実感しながら、
微苦笑させられたりした・・。


やがてぼんやりと、あの当時の頃を私は思い馳せたりした・・。
          

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
小学4年生の頃から独りで映画館に数多くの映画作品を鑑賞してきたので、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老から、これから映画で飯(めし)を喰えるのは極く一部の人だょ、
まして脚本は・・同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、今は良いとしても30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

そしてやはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観たし、
この当時、ラジオからサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
そして映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに心酔したりしていた。

やがて家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
そして幸運にも2週間後に採用通知を頂いた。
                     
このような時、近所の家電販売店の店主が、今私が住んでいる近くに私の生家があるが、
長兄宅に幾たびか来宅していた。


『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・

余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と家電販売店の店主から私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週刊 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

そして購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。

                     

この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているある新設されたコンピューター専門学校に、

1969年(昭和44年)4月に入学した。

          
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であり、近くの大きな広告の看板に、
モデルの小川ローザさんが、車が走り抜けた風圧にスカートがまくり上げられ、
『オー・モーレツ!』とスカートを抑えながら言ったりした看板に、
よくやるよなぁ、と私は心の中で呟(つぶや)きながら、苦笑したりした。

やがて数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのであった。

          

こうした間、学友のひとりに誘われて、新宿駅の西口に一度だけ行ったりした。
この当時、フォークゲリラと称された反戦フォークソングを唄って反戦運動を高めようとする若者たちが、
ベ平連の青年たちがギターを持って新宿駅の西口の地下広場で盛んに決起していた。

こうした状況を観た私は、過ぎ去る年にアメリカのケネディ大統領の暗殺、
やがて弟のロバート・ケネディが大統領立候補のさなか暗殺されてしまい、
私は政治の冷酷で怜悧が混沌することに痛感させられ、政治への希望と関心は遠ざかっていたので、
あわゆい効果のない青年のお祭り政治活動だ、と冷静に傍観者の心情で見つめたりしていた。

或いは卒業をまもなく迎える1970年(昭和45年)の3月中旬からは、
『日本万国博覧会』が大阪の郊外で華々しく開催されて、
私は鑑賞に出かけるお金の余裕もなく、漠然と羨望を重ねたりしていた。

やがて1970年(昭和45年)の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業時期を迎え
卒業式の後を先生方と私たちは謝恩会で高揚した中、私は心の片隅には、
私は劣等生の為に追試を受けたばかりであったので、不安さを秘めていた・・。
そして何とか卒業証明書を頂けたのは3月31日であった。

私は生家の自動車で、代々木にある学校に向かう世田谷街道を走行していると、
車内のラジオから、『よど号ハイジャック事件』が発生して、
犯行した方たちはどのようになるのか、と思いながら学校に到着して、
まもなく先生から卒業証明書を頂く時、私は照れながら受け取ったりた。

こうした中で私の就職活動は、この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーの経営陣のひとりが、
私の生家の遠い親戚の方が知人で、私は紹介を受けて、このお方のご尽力もあり、
何とか中途入社の内定を受けたのは3月15日過ぎであった。

この間、入社試験の面接が二回あった後、この会社から依頼された調査の御方が、
私が住んでいた生家の私の部屋の本棚を視察に来た、と私は長兄から聞いたりした。

もとよりこの当時は、全学連、赤軍派の活動があり、世の中を惑わさせる時代であったので、
民間企業としては当然の予防策であったが、殆ど文学の小説と映画の脚本ばかりの本で、
微苦笑しながら帰えられた、と私は長兄より教えてもらったりした。


やがてコンピューター専門学校のソフトコースを1年間学んだ私たち生徒一同は、
それぞれの企業に就職して行った・・。


                     

私は卒業証明書を頂いた翌日の4月1日に、
この当時ある大手の民間会社の映像・音響のメーカーに何とか中途入社し、

ともかく現場を学べ、と入社する一か月前に厳命させられて、
横浜工場にある音楽事業本部の商品部に配属された。

その後まもなくある大手の音楽のレーベルが独立し、外資系のレコード会社として新設された。

私も異動させられて、新たなレコード会社に勤め、翌年の一月に本社のコンピュータの専任者に辞令されたりした。

そしてコンピュータを活用した情報畑に20年、やがて経理畑、そして営業本部など奮戦して、
35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年を迎えた。

         

しかし正確には、この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする私を含めて正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

          

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。


そして私は年金生活として、早や14年生となっている。

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コメント (2)
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