goo blog サービス終了のお知らせ 

夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『桃の節句』、齢ばかり重ねた私でも、桃の花を求めて三千里?!

2013-03-03 15:17:35 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の私は、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、『ひな祭』と明示さて、思わず微苦笑した。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより孫娘もいないが、日本の女の子を祝う日である、と少しボケた私でも認識している。

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む身であるが、
昨年の12月頃から平年より寒く、2月を迎えた時は、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。

平年ならば、1月には水仙の花は咲き、冬麗の美を感じ、
2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、 
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきたのである・・。            

そして2月の時節に於いても、相変わらず平年より寒さが続き、齢ばかり重ねた私でも、
天上の気候の神々の采配に戸惑い、どうしてなのょ、と空を見上げたりしてきた。

過ぎし2月20日になって、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら2輪ばかり咲いたりした。

そして2月の月末になって、
昨日、澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、風もなく暖かい3月下旬のような陽気となり、
主庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らんできた。

こうした思いで過ごしてきた私は、3月の時節は我が家の小庭は遅ればせながら水仙、白梅、紅梅が彩(いろど)り、
遊歩道を歩いたり小公園に寄ったりすれば、
毎年のように桃の花、やがて桜の花にめぐり逢えると思ったりした。

そして桜の花にめぐり逢える前には、桃の花だ、と思いながら、
我が家の周辺の遊歩道、小公園を歩き、桃の花を求めて歩いてきた・・。
しかしながら、平年より寒気を増した日々が続いていたので、
桃の樹は固い莟〈つぼみ〉を見せて、まだなの、と少しばかり落胆しながら歩いてきた。

この間、平素の買物の専任者の私は、スーパーに行ったりすると、
ひなまつり特選コーナーに於いて、ひなあられの数品の華やかさを見たり、
或いはパンの売り場の近くで、いちごの手巻きロールケーキ、桜餅、草餅などを眺めたり、
そして花売り場のコーナーで、桃の花の切り花などを眺めたりしてきた。

そして家内はもとより女性の身なので、私は勝手に少し高価なひなあられセット、
和菓子の代わりに桜餅、草餅などを買い求めてきた。

しかし私は桃の花咲く情景を見たく、本日も買物を終えた後、
散策しながら、花を探し歩いた・・。

そして私は付近の遊歩道を歩いていた時、遊歩道に隣接した家の庭が眺められ、
この中の一本の樹を見て、
桃の花だ、と思いながら足を止めて眺めていた。

たまたま50代の奥様が庭に出てきたので、私は挨拶をした。
『奥様・・綺麗に咲いている花は、桃の花ですよねぇ』
と私は奥様に確認した。

『そうですが・・』
突然に見知らぬ私に訊(たず)ねられ、奥様はいぶかるように応えた。

『私はここ一週間ぐらい・・桃の花を求めて散策しているんですが・・
何分、今年は寒さが続く日が多く、桃の花を見かけることがなく、
母を訪ねて三千里のような思いで、探し歩き廻ってきました・・
おこがましいお願いなんですが、写真を撮らせて頂いてよろしいですか?』
と私は明るく大きな声で、奥様に懇願した。

『そうでしたの・・どうぞ、よろしかったら』
と奥様は笑いをこらえるように明るく応じた。
               

そして、やっとめぐり逢えた桃の花を私は写した。

その後、私は帰宅に向かう途中の木のベンチで座った。

そして先ほどの桃の花びらを思い馳せると、
遠い昔、私の生まれた実家の『ひな祭り』の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。


私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が宅地の隅にある蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。

10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、我家で臼(うす)で餅にしたものであった。

そして桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。

このような情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、
と眺めたりしていた。

やがて 桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、
蔵に仕舞う準備をしていた。
私はせっかく飾ったのだから、せめて桜の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。

このような思いを抱いた後、桜の咲いた頃、私は地元の小学校に入学した。

やがて私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。

そして確か2年後には、『桃の節句』が到来しても、
私の生家は、ひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりする余裕もなくなり、
これ以降、私は見かけることはなくなった。

このようなことを私はぼんやりと、思いだしたりし、
齢を重ねた私は、60数年前の頃に、そうだったよなぁ、と微苦笑したりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする