私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり、
定年退職後は年金生活をし、自主的に平素の買物の担当をしている。
昨日の1日より、節分に関しての特選コーナーが設置され、
明日の2月3日の『節分の日』を迎えるににふさわしく、「福 節分豆」はもとより、
「福 恵方巻」が五種類ぐらい、「福 いわし」、「福 節分そば」などもあり、
そして「鬼ごし」の日本酒の銘柄も販売されて、私は苦笑したりした。
私は幼年期の頃は、いじけて可愛いげのない児であったが、『節分の日』には、ささやかな想いを秘めている・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、激しく叱咤されたりした。
祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。
この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社の鳥居に入ると、

小高い丘が聳えるようになり、

陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた神社がある。
そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。
そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を3割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、神社の高台に赴(おもむ)きで、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。
私の生家から、少なくとも300メートルは離れていたが、家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。
『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に言ったりしていた。
生家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。
夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言ったりしていた。
そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
各部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。
そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に言った。
私は、6つだけかょ、と言いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
私はおまけと言いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。
このような祖父、父たちに囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
その後、私が現役のサラリーマン時代だった頃もささやかな想いを秘めている・・。
私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。
この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電にも乗らずに良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、
私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。
家内が、『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』と言ったりした。
私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、と素直に何かしら納得出来なかった。
『今からでも、遅くないよ・・』
と私は言って、私は雨戸を開けた。
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、小庭に向って連呼した。
周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。
XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。
しかし、良きことの行事に対しては、ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。
私は定年退職になると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、『節分の日』には、
日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた一袋100粒ぐらい入った福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりして過ごしている。
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定年退職後は年金生活をし、自主的に平素の買物の担当をしている。
昨日の1日より、節分に関しての特選コーナーが設置され、
明日の2月3日の『節分の日』を迎えるににふさわしく、「福 節分豆」はもとより、
「福 恵方巻」が五種類ぐらい、「福 いわし」、「福 節分そば」などもあり、
そして「鬼ごし」の日本酒の銘柄も販売されて、私は苦笑したりした。
私は幼年期の頃は、いじけて可愛いげのない児であったが、『節分の日』には、ささやかな想いを秘めている・・。
私は1944(昭和19)年の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、激しく叱咤されたりした。
祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
こうした中で、私が少学校に入学する1951(昭和26)年の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。
この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社の鳥居に入ると、

小高い丘が聳えるようになり、

陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた神社がある。


そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。
そして、この日の『節分の日』に関して、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を3割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、神社の高台に赴(おもむ)きで、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。
私の生家から、少なくとも300メートルは離れていたが、家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。
『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に言ったりしていた。
生家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。
夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言ったりしていた。
そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
各部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。
そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に言った。
私は、6つだけかょ、と言いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
私はおまけと言いながら、こっそりとふたつばかり余計にとった。
そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。
このような祖父、父たちに囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
その後、私が現役のサラリーマン時代だった頃もささやかな想いを秘めている・・。
私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。
この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電にも乗らずに良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家庭であり、
私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。
家内が、『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』と言ったりした。
私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、と素直に何かしら納得出来なかった。
『今からでも、遅くないよ・・』
と私は言って、私は雨戸を開けた。
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、小庭に向って連呼した。
周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。
XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。
しかし、良きことの行事に対しては、ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。
私は定年退職になると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、『節分の日』には、
日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた一袋100粒ぐらい入った福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりして過ごしている。
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