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入唐求法巡礼行記・円仁

2011-09-17 10:58:46 | 古代

 昨年、天台宗・最澄の弟子・円仁の名が刻まれた石版が、中国河南省法王寺で見つかったというニュースが流れた。円仁が遣唐使として中国に滞在した時に記した日記”入唐求法巡礼行記”を研究分析したライシャワーの本「円仁 唐代中国の旅」を読んだ。 ライシャワーは子供のころのアメリカの駐日大使だった懐かしい馴染の名前である。

 円仁は、836年5月難波を出て瀬戸内海を通り、九州に向かう。4隻の遣唐使船が北九州から中国に向けて出港したのは7月(太陽暦で8月)のことだった。出港するとまもなく嵐に遭遇し、大きな犠牲とともにこの渡航は失敗に終わる。翌年837年8月に2回目の渡航が試みられるがこれも嵐に遭遇し失敗する。3回目は翌年838年で、このとき遣唐副使だった小野篁(おののたかむら)は仮病を使って出発を回避しようとしたのがばれて、隠岐に流されるという処分を受けている。逃げ出した留学生は他にも何人もいたように、渡航は命がけだった。小野篁は小野小町の祖父。838年夏の3回目の渡航は成功する。円仁は第1船に乗船し難波出港から日記をつけ始める。6月23日に五島列島を離れ公海に乗り出し、途中荒波に翻弄され、ぼろぼろの状態で揚子江の北の海外に漂着したのは838年7月1日だった。面白いことに海が荒れると、仏教徒の円仁が、土着神である住吉大神や海竜王に祈りをささげるのである。仏様には荒海を鎮める力はなかったらしい。

円仁らはその後揚州を経て運河や沿岸を船で山東へ向かう。山東にいる間に、帰国に失敗し、天台山へいく許可を取ることに失敗した円仁は840年唐の都・長安へ向かう。山東から西に向かい黄河を渡り、五台山に寄り長安に入る。長安には840年から845年まで滞在する。

円仁が唐滞在中に見聞きした話をいくつかあげておく。

  1. 冬至と元旦は季節の行事として同じように重要で三日間にわたり賀詞を交わし、一般人は寺に詣でる。もともと仏教の祭りだった7月15日の精霊祭は唐のこの時代すでに大衆的な祭りになっていた。
  2. 長安の資聖寺に滞在していたとき、一人の中国僧が”阿弥陀仏の浄土の教え、すなわち念仏の教え"を伝えるのを聞いた。法然や親鸞に先立つこと300年のことである。
  3. 揚州の竜興寺で、石碑の碑文に1世紀前に鑑真が日本に渡った旅の模様を幻想的に伝えているのを発見した。その内容は、大唐和上東征傳の内容に符合している。鑑真渡来の記録が1世紀のちの中国に残っている以上、松本清張が主張する鑑真渡来虚構説などありえないのではないか。
  4. 中国の仏教には宗派がなかった。
  5. 唐では大勢の新羅人や渤海人に会った。遣唐使の通訳は新羅人であり、山東には朝鮮系の寺院も多くあった。762年の多賀城碑には渤海からの距離が記されているので、8,9世紀の渤海人は中国や日本と頻繁に交渉をもっていたことがわかる。また、新羅人は白村江の戦いで唐と共同して倭と百済軍を破って以降、唐と深い関係をもったということが円仁の日記からよくわかる。遣唐使は友好的でない朝鮮沿岸を避けていたということも日記に書かれている。しかし、円仁は中国にいる新羅人には大いに助けられている。

唐では道教と仏教が盛んであったが、道教に傾倒した皇帝の武宗による仏教弾圧が始まり、結局、円仁は845年還俗と追放の処分を受ける。仏教弾圧理由は武宗が道教の狂信的な信者だったことに加え、仏教寺が非課税の荘園を多く有し国家財政を圧迫したこと、僧侶が華美な生活に堕落したこと、来世や涅槃などの儒教から見て非合理的な考え方を迷信として否定したこと、外来の思想であるという国粋的な理由などによるものであった。その年、円仁は帰国するために長安を発ち、洛陽、開封を通り揚州へ向かう。円仁の名が記された石碑の見つかった法王寺には、この時に立ち寄ったと思われるが、ライシャワーの本に法王寺の名は見つからなかった。円仁や遣唐使は中国内を主に寺院や官制の宿に泊まって旅しているので、法王寺もそのうちの一つであろうと思われる。そのうちに仏教弾圧を主導した武宗が死んだので、円仁はさらに847年まで唐にとどまる。

838年から9年間唐に滞在した円仁は、847年9月10日に九州に帰り着く。日記は、その年の12月で終わっている。円仁は794年生まれなので、唐に滞在したのは、44歳から53歳までのことであった。その後の円仁は比叡山延暦寺の座主になり、天皇に中国仕込みの受戒を行う。松島瑞巌寺は円仁が唐に渡る前の828年に開山しているが、山寺立石寺は帰国後の860年66歳の時に開いたとされる。円仁は857年には浅草寺にも訪れている。円仁は歳をとってからも精力的に活動し天台宗を日本最大の宗派に発展させる。また、鑑真が日本へ行くことを決意するのは55歳、幾時もの失敗の後、渡海に成功し唐招提寺を開いたのは71歳である。伊能忠敬も隠居後の55歳から日本地図を作り始める。この人たちの事蹟を見ていると、当方56歳、何でもできるような気がしてくる。凡人はそのときだけ盛り上がって、次がないかもしれないけど。

ライシャワーは、この本で円仁をマルコ・ポーロよりも偉大だとするが、ちょっと言い過ぎのような気がした。また、原本は英語でその訳を読んだわけだが、もとの英語が頭に浮かぶほどの直訳で、原著者の本来の主張が良くわかったのはいいのだけれど、日本語としては極めて読みづらいものだった。


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