備忘録として

タイトルのまま

神武天皇

2014-04-06 12:00:51 | 古代

「古事記」の序を書いた太安万侶の墓は、1979年に奈良市此瀬町の茶畑(新薬師寺から東に5㎞ほどの山中)で見つかり、火葬された骨と真珠の入った木棺と、41字からなる青銅製の墓誌が出てきた。41字には、居住地、位階、没年(癸亥年(養老7年=723年)7月6日没)が記されていた。生年は不明だが文献上も考古学上も存在がはっきりとしている貴重な古代人である。それに比して、太安万侶が稗田阿礼から聞き取り「古事記」で語られる最初の天皇である神武天皇の存在は模糊としている。神武天皇のことは「古事記」と「日本書紀」の短い記事がすべてであり、それも神話、伝説、物語の域を出ず史実とするには外国資料も考古学も役には立たないと植村清二は自著「神武天皇」で述べている。この本は、昭和32年に書かれた。戦前の皇国史観では神武天皇は皇室の祖として尊崇されたが、戦後は一転してその存在さえ否定され教科書から名前が消えた。その所為か子供のころ(昭和30年代後半)いつも遊んでいた眉山中腹の公園に立ってこちらを見下ろす大きな像が神武天皇ということさえ知らなかった。政治的な事情で”史的事象の評価にまで変化が生じるのは好ましいことではない。”と植村清二は前置きして本書を書き始める。

記紀にある神武天皇の事跡をまとめた植村を、さらにかいつまんだものが以下である。

神武天皇はウガヤフキアエズノミコトと玉依姫(タマヨリヒメ)の四男として生まれ、兄たちといっしょに日向の地を発し東征する。筑紫、安芸国から吉備国に至りそこで3年あるいは8年留まる。難波に着いた皇軍は中洲(なかつくに)に入ろうとするが長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれ長兄の五瀬命(イツセノミコト)は矢傷を受け紀伊で薨去する。皇軍は熊野へ行く途中暴風雨に会い次兄と三兄も海に入ってしまう。熊野から中洲までの山道は険阻だったが八咫烏が先導し、宇田に到着した。土着の八十梟師(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)を倒し、長髄彦と再度対決する。戦いは不利であったがそこに金の鵄(とび)が現れ、金の光に目がくらんだ長髄彦を滅ぼす。その後も神武天皇は土蜘蛛などを滅ぼし、ついに中洲を平定し帝位につく。記紀の神武記は、この事跡に地名説話と歌謡を散りばめて構成されている。

以上が文献にある神武天皇である。考古学的には神武天皇陵がある。日本書紀の天武記に、壬申の乱(672年)のとき馬と兵器を神武陵に奉ったという記事がありその位置は畝傍山東北と記されている。また古事記の神武陵は畝傍山の北方白橿尾上と記される。7世紀後半に皇室が認定した神武陵があったということである。今の神武天皇陵は、畝傍山北東の麓、橿原神宮に隣接した地区が明治時代に指定されたものである。そこが考古学的に神武陵だと確認されたわけではなく、他にも有力な比定地(畝傍山の東北隅の丸山など)がある。

神武天皇の事跡の中心は、東征と大和平定の2点である。大和平定が事実であることに間違いないが、日向を出て大和に来たという東征については確証がないという。植村清二は神武東征は邪馬台国の東遷を反映しているという説を支持している。理由は以下のとおり。

  1. 邪馬台国が北九州にあったことは魏志倭人伝の記述から疑いようがない。
  2. 中国の史書にある倭国は、3世紀から7世紀までずっと一つの連続した王朝である。
  3. 九州中心の銅鉾・銅剣文化圏と近畿中心の銅鐸文化圏は古墳文化の成立とともに消滅する。8世紀の大和朝廷は銅鐸が何であるかの知識がない。鉾と剣は記紀神話の中に頻出するが、銅鐸の記述がない。すなわち畿内勢力は銅鉾・銅剣文化を有する北九州の王朝によって支配権を失ったとみなされる。
  4. 魏志倭人伝に記された三世紀半ばの邪馬台国は、4~5世紀の大和政権の前段階の状況を示す。
  5. 卑弥呼の墓は、”大いに冢を作す。径百余歩。”とあり、北九州では甕棺主体の弥生式文化から古墳前期に墳墓の上に盛土をしたものが認められる。
  6. 3世紀に邪馬台国と並立して畿内に強力な国家があったなら大陸と通じなかったとは考えられないが、倭人伝にはそのような形跡はない。
  7. 記紀神話は天下を三分する勢力として大和、出雲と熊襲があり、大和朝廷は出雲と熊襲を征服したことを語っているが、大和朝廷が北九州を征服した説話がなく、九州勢力(神武天皇)が大和を征服したことが記されている。
  8. 東遷の時期は早くても3世紀末であろう。
  9. 4世紀末に倭国が朝鮮半島で高句麗と戦った(広開土王碑文)ことを考えると畿内勢力は、その時点で北九州を含む西日本を支配していなければならない。
  10. 仁徳天皇や応神天皇陵の規模から、その頃(400年前後とする説が有力)の畿内勢力は強大だった。
  11. 北九州と大和に同じ地名が存在しそれは偶然ではなく必然的な関係があったと考えざるを得ない。
  12. 隋書「倭国伝」に阿蘇山に因って霊祭を行うとある。隋の使者である裴世清らが聞いた話であり、倭人にとって阿蘇山が神聖視されていることは明らかで、東遷の記憶である。(九州王朝説では裴世清は近畿までは行かず九州王朝を訪問しただけなので、阿蘇山の話を裴世清が聞いたのは当然だったとする。)
  13. 北九州は鉄器使用において近畿勢力に優先したので軍事的に優位だったため東遷と征服が成功した。魏志「韓伝」に弁辰で鉄を産し倭が輸入していたとあり、鉄の製鉄技術を表す(たたら)という地名は朝鮮半島だけでなく北九州にも存在する。
  14. 邪馬台国そのものが東遷したのではなく、邪馬台国の一部あるいは別部が東遷した。これは旧唐書「日本伝」に”日本国は倭国の別種なり。日本国は元小国なり。倭国の地を併す。”とあり、当時中国には遣唐使が多くいたため、この旧唐書の記録が彼らからの伝聞によるとも考えられる。

植村は邪馬台国が北九州にあったことは文献上疑いようがないと断定する九州説派である。理由は以下のとおり。

  1. 倭人伝は最初に、「旧倭人国百余国あり。漢の時朝見するものあり。今使訳通ずる所三十国あり。」とし、次に、狗邪韓国、対馬、一大(一支)、末蘆、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬壱(台)と9か国の名前を上げ、さらにその後に21か国の名をあげている。狗邪韓国は朝鮮半島南岸(倭人伝「倭の北岸狗邪韓国」)にあった倭国で、残りの8か国の位置は九州を出ない。邪馬台国が三十か国を統属していたということで邪馬台国が三十国の中心あるいは直近に位置していたことは明白であり、遠く離れた畿内とは到底考えられない。
  2. その頃の国の大きさは対馬が千余戸、最も大きな邪馬台国は七万余戸と記され、魏志の韓伝に記された朝鮮半島南部の諸国の大きさとほぼ同じ規模である。そのうち馬韓は五十余国からなると記載がありその領域を考えると、倭の三十国が近畿から九州までの広大な地域を支配していたとは到底考えられない。
  3. 「女王国の東、海を渡ること千余里にしてまた国あり。皆倭種なり。」という倭人伝の記事は本州、特に畿内に国が存在することを示す。邪馬台国畿内説ではこの記事の解釈ができない。
  4. 大和の古墳から発見された魏の銅鏡(景初3年の三角縁神獣鏡)が卑弥呼に与えられた銅鏡百枚とは断定できない。大和の古墳の多くは4世紀以降とされているので考古学的に卑弥呼の冢を畿内の古墳と断定することはできない。

3世紀の北九州の倭国(邪馬台国)と7世紀の畿内の倭国は連続した王朝である以上、北九州の勢力が東遷して大和を中心としたことは疑いようがないとする。ところが植村は邪馬台国の主力が東遷したのではないという。では、九州にとどまった邪馬台国主力はその後どうなったのだろうか。それと九州説最大の弱点は、強力な政権の存在を示す巨大古墳が畿内や吉備にあって九州にないことである。

植村が本書を著わした昭和32年から十数年後の昭和46年に古田武彦は「邪馬台国はなかった」を発表した。邪馬台国の所在についての古田の結論は植村説とほぼ同じである。植村は邪馬台国主力は北九州に残ったとするので、古田の九州王朝説の萌芽はすでに植村説に見えている。古田は植村の説に、白村江の戦いで天皇が人質になったこと、倭の五王は大和朝廷の天皇ではないこと、アメノタリシヒコは聖徳太子ではないこと、磐井の反乱は大和朝廷側が反乱者だったことなどを加えて自分の九州王朝説を補強したようにみえる。

本書は神武東遷を扱ったにも関わらず江上波夫の騎馬民族説には触れていない。後藤均平による本のあとがきに、騎馬民族説について植村清二がどう思っていたかを示すエピソードが紹介されている。聴講生が聞いた植村清二のことばは、「江上君は尊ぶところあり、されど真実はさらにわが良き友なり」というものであった。先入観や剽窃とは程遠い研究者の矜持と心構えがひしひしと伝わってくる。今の神武陵に考古学的な確証はないと植村が言ってることは既に書いた。天皇陵は、由来がはっきりしている天武持統陵など極わずかを除き大半は確証がないか間違いであると言われている。斉明天皇陵は間違って指定された代表例である。宮内庁が天皇陵の発掘調査を許可しないので日本の古代史と考古学は大きく停滞している。最近の発掘により考古学的にほぼ確実とされる新しい斉明陵についても、宮内庁は間違いを認めようとせず、ここが斉明陵ですと書いたものでも出現しない限り訂正はしないと公言したときには暗然とした。宮内庁にとって真実は重要ではなく矜持も心構えも必要ないらしい。


最新の画像もっと見る