備忘録として

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遠い崖『薩英戦争』

2018-01-14 18:42:35 | 近代史

 NHK大河『西郷どん』は原作者が嫌いなので見ないと決めていた。理由は、超常現象を信じない私のようなものは”心が狭い”と決めつけられたからである。自然科学の世界に想像力のない心の狭い者などいない。さらにアグネス・チャンがスタジオに赤ちゃんを連れて来たことを批判したときには、オピニオンリーダーを自称するなら、同性を罵倒する前に、母親が働きやすい環境について提言すべきだと思った。しかし、作品の出来を先入観や好悪で決めるのは原作者と同じレベルに堕し自己撞着してしまうので『西郷どん』を見てから判断することにした。今読んでいる『遠い崖』に馴染みの面々が出てくるからでもある。以下、2巻目前半のまとめ。

『薩英戦争』

 1862年の生麦事件の賠償金支払いを求めて、イギリスは鹿児島に軍艦を送る。1863年陰暦6月21日に横浜を出港した艦隊は、27日夕刻に錦江湾入り口に到着する。薩摩遠征を決めたときのイギリスは、薩摩が前藩主の島津斉彬以来、開国主義であり、現藩主の久光もそれを引き継いでいると聞いていたため、1か月半前に起こった攘夷実行による下関砲撃事件があっても薩摩での交渉は楽観的に進むと考えていた。同時期イギリスから蒸気船の購入交渉をしていたこともそのような判断をした理由だろう。

 イギリスは「リチャードソン殺害の首謀者の処刑と賠償金支払いがされない場合は、薩摩と戦争をする」という要求書を幕府に出す。薩摩は首謀者を藩主の久光だという翻訳を受け取ったため、到底要求を呑めるものではなかった。福沢諭吉は幕府の翻訳者のひとりで、「襲い懸かりし長立たるもの等を速やかに捕へ----其首を刎ぬべし」(『福翁自伝』)と書いている。長立たる者が藩主ととらえかねないような翻訳を幕府が意図的にしたという説があると萩原は書き、その真偽は不明であるという。萩原は福澤ら複数の翻訳は示しても、イギリスの要求書原文を提示していないので、翻訳に問題があったかは読者にはわからない。萩原が原文を示さないのは不備としかいいようがない。

 それはともかく、当時の責任者であるニール代理公使を乗せて軍艦7隻が薩摩に向かう。アーネスト・サトウとシーボルトは通訳官としてこの遠征に同行する。

 薩摩藩は、錦江湾に姿を現したイギリス軍艦に使者を送り、事件の当事者は見つからないこと、大名行列を乱してはならないのは国法であり、それを外国との条約に盛り込まなかった責任は幕府にあり、幕府と薩摩藩のいずれに責任があるか明らかになってから賠償金について討議すべきであると伝え、イギリスの要求を無視する。

 イギリスは、薩摩が満足すべき条件を提示してくると考えていたようであるが、薩摩の拒絶を受けイギリス側は、艦隊の提督キューパーに対応をゆだねると宣言する。それは強硬手段をとることであり、キューパー提督はただちに湾内にいた薩摩の汽船3隻を拿捕する。拿捕された薩摩の汽船に乗っていた五代友厚と松木弘安(後年の寺島宗則)は捕虜となる。五代と松木は1862年の遣欧使節から帰ったばかりで、松木は英語をよく話したとウィリスの日記に記されている。

 拿捕という強硬手段を受けて薩摩側は、陰暦7月2日正午、艦隊に向かい砲撃を開始する。イギリス艦隊に積載された大砲や新式のアームストロング砲の威力は薩摩側の旧式砲に勝り、射程外からの砲撃で薩摩側砲台をことごとく破壊した。ロケット砲による砲撃は鹿児島の町に対しても行われ、7月2日午後8時には町が炎に包まれた。イギリス艦隊は翌日も砲台を攻撃しながら錦江湾を南下し、7月4日には湾を出て横浜に帰っていった。イギリス艦隊が錦江湾に留まったのは1週間、戦闘は1日半であった。イギリス側の戦死者は9名であった。

  記録に残る薩英戦争に対する薩摩側の評価は、イギリス軍を撃退したというものであったが、薩摩側の砲台がことごとく破壊されたことからもわかるように大砲の威力には歴然とした差があった。イギリス本国では、キューパー提督の鹿児島の町を焼いた措置が非難の対象となった。ロンドンの新聞紙上では、非武装の一般人の家を焼いたことが非人道的でありイギリスの名声を汚す「恥ずべき犯罪行為」として非難された。イギリス政府は、薩英戦争は文明国のあいだで行われる通常の戦闘に違反するとし、キューパー提督の個人的責任を問うとした。

 その後の2度の世界大戦を含む最近の戦争では、民間人に対する無差別攻撃が常態化し、戦争が軍人や戦闘員だけのものではなくなった。150年前の倫理観からすると、近代の戦争は「恥ずべき犯罪行為」ということになる。

 戦争後、西洋の軍事力を目の当たりにした藩主久光は、無謀な攘夷をやめ、西洋文明の長所を取り入れるよう小松帯刀や大久保一蔵(利通)らに命じイギリスとの和睦を進めさせた。和睦交渉は重野厚之丞らが当たった。この後、イギリスと薩摩は急速に親密さを増し、2年半後には新任のイギリス公使パークスは薩摩を訪問する。

 『西郷どん』こと西郷隆盛は1862年から1864年まで徳之島・沖永良部島に遠流になっていて薩英戦争当時、鹿児島にいなかった。西郷が『遠い崖』に登場するのは、1864年の長州征伐と禁門の変のときで3巻目以降になる。

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2017年まとめ

  • 2月上原和逝く
  • 3月イスタンブール
  • 4月船橋へ引越
  • 6月孫訪日+シンガポール
  • 7月二女結婚
  • 8月殺生石+仙台+常磐道
  • 10月ミュンヘン
  • 10月遠い崖開始
  • 11月フルマラソン完走
  • 11月大学入試

2018年が始まった。


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