備忘録として

タイトルのまま

七支刀

2015-08-16 16:45:11 | 古代

『日本書紀』巻九、神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶

"(百済の使者)久氐等が、千熊長彦等に従い詣(いた)り、則ち七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献ず"とあり、これが奈良の石上神社に伝わる七支刀を指すと言われている。その七支刀には表に34字、裏に27字、合わせて61文字が金象嵌(きんぞうかん=金をはめ込む)されている。七支刀表面は錆で覆われ損傷が著しく、文字は不明瞭であるが、石上神社のホームページによると、明治以降の研究によってほぼ次の文字であると解釈されている。□□は判読不能箇所。

(表面) 泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作

(裏面) 先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世

宮崎市定は自著『謎の七支刀』1991年刊の中で、漢文の慣用法、当時の時代背景などをもとに一部の漢字比定を修正し、また空白部(□□)を埋めて以下のような解釈をしている。慣用法とは、漢文にみられる決まり事や他の文書にみられる用法で、考古学者や国文学者とは異なる東洋史学者の立場から新しい解釈を提言している。

(表面)泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 ▲辟百兵供供侯王 永年大吉祥 (▲は佀の人偏がない字)

意味=泰始4年(468年)夏の中月なる5月、夏のうちなる最も夏なる日の16日、火徳の旺んなる丙午の日の正午の刻に、百度鍛えたる鋼の七支刀を造る。これを以ってあらゆる兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを

(裏面)先世以来未有此刀 百済王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世

意味=先代以来未だ此くのごとき刀はなかった。百済王世子は奇しくも生まれながらにして聖徳があった。そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った。後世に伝示せんかな。

百済の王が倭王に七支刀を送ったことは確実だが、年号を示す”泰”の次の字が不明瞭であるため、七支刀が制作された年には諸説がある。日本書紀の紀年は疑わしく、神功皇后52年が確定されていないことも年号が確定しない理由である。また、百済王による下賜か、あるいは百済から倭への朝貢かも意見が割れる。

年号

  • 泰始 西普武帝 265-274
  • 泰常 北魏明元帝 416-423
  • 泰始 南朝宋明帝 465-471
  • 泰豫 南朝宋明帝 465-471
  • 太和 三国魏明帝 227-232 (泰を太の借字とする)
  • 太和 東普廃帝海西公 366-370
  • 太和 北魏孝文帝 477-499 など

宮崎は泰を太の借字とする説には反対する。可能性が絶無とは言えないが、文字を書き換えてまで金石文に残す理由がないとし、他の泰から始まる年号で説明が可能ならば、そちらを優先すべきだとする。そのうえで、宮崎は宋の泰始を採用する。宋の泰始4年は、雄略天皇12年にあたり、日本は三韓、中国江南との関係が密接であったから、国際関係上、百済から七支刀を贈られてもおかしくないという。また、中国暦では、ある年ある月ある日に60日ごとに繰り返す干支が割り付けられ、銘文にある丙午という干支が、その年号の5月に存在しない場合は、その年ではないという判断ができるという。この日付と干支が一致することを条件とすると、丙午が五月にあるのは普の泰始4年(268年)だけになる。ところが宮崎は、このような銘文では実際の日付ではなく縁起のよい吉祥日を記す習慣があるため、必ずしも日付と干支が一致しなくてもよいとする。この不一致は他に事例があり古鏡の銘文などにも認められるという。

倭王旨

倭王の次の文字である旨を倭王の名前とする説があるが、旨に比定できる倭王がいないため宮崎はこれを否定し、旨は上半が欠けたとして嘗という字を当て、”嘗(はじ)めて”と解釈する。旨を倭王名とする説では、旨を替に置き換え倭の五王の最初の王である倭王讃だとする説が有力であるが、宮崎は当時の国際慣習上、贈り物に相手の実名を書くことは非礼にあたり実名を書くはずがないと反論する。宮崎の提唱する宋の泰始4年(468年)のころは、倭の五王最後の武であり、倭王は雄略天皇に比定される。古田武彦は倭王旨を九州王朝の王名だとする。

贈り主

七支刀の贈り主である百済王世子は、5世紀の蓋鹵王の太子で、後の文周王であるとする。蓋鹵王は連年北方の高句麗の侵攻を受けて苦しみ、北魏に援助を求めるが成功せず、高句麗と戦って敗北する。そのとき世子は上佐平という内閣総理大臣のような役職につき国政を見ていたので、倭に百済王世子として贈り物をする権限を有していたはずである。父王の蓋鹵王は475年高句麗との戦いの中、敵に捕らえられ殺される。太子の文周王は新羅の兵を借りて高句麗に反撃し、首都を南の熊津に遷す。このような情勢下のため、七支刀は百済が倭と友好を結ぶために贈った百済の献上品だとする。

稲荷山出土鉄刀と江田船山太刀

同じ頃の出土品であるこの二刀に象嵌された金石文についても東洋史学者として新しい知見を披露している。それでも両刀に刻まれた”獲加多支鹵大王”は、ワカタケル=雄略天皇である。これら鉄刀は、それぞれ埼玉と熊本で出土したため、雄略天皇の時代、すなわち5世紀後半には大和朝廷の支配はほぼ日本全土に及んでいた証拠とされている。

七支刀が贈られたときに百済は、中国と倭に使者を派遣し、外交力をもって北の脅威である高句麗に対抗しようとした。倭も中国の史書にあるように倭の五王が中国に使者を派遣し、密接な国交を持続している。脅威には硬直した軍事力ではなく柔軟で総合的な外交力で対抗すべきなのは歴史が示すとおりである。昨日は終戦記念日。第二次世界大戦時に陸軍参謀だった瀬島龍三は『大東亜戦争の実相』の中で、軍備は戦争に直結すると教訓を残し警告している。安保法案は日独伊三国同盟条約第三条に酷似する。この三国同盟の為に英米など他の国との関係が悪化しドイツのヨーロッパ開戦に誘われるように戦争に突き進んだ。存立危機事態において武力行使が容認開始されたなら、文民統制は効かなくなり統帥権は自衛隊に移る。危ない。日本は大戦前に戻ろうとしているように見える。


最新の画像もっと見る