備忘録として

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國中連公麻呂

2015-12-31 17:55:42 | 古代

田中英道は『日本美術史』で、新薬師寺の十二神将、東大寺法華堂の不空羂索観音像と日光・月光菩薩像と執金剛神立像、戒壇堂の四天王像の両眼の表現や顔や体の肉付けの形には共通性があり、同じ仏師によることを示唆していると書いている。さらに唐招提寺の鑑真像と法隆寺の行信像も同じ仏師による作品であり、その作家は東大寺の盧舎那仏(大仏)を造った國中連公麻呂であるとする。田中は、日本の美術史家には作品が個人の手ではなく集団の手によってつくられたように考える習慣があり、それは日本人の芸術観の、ひいては人間観の未熟さを示していることに他ならないと言う。これは、写楽は職人集団であるという説や、津田左右吉の凡人史観や聖徳太子非実在説に通じるものがある。

写真左より広目天 多聞天 行信 鑑真 (ネットで拾った写真を並べた) 左から順番に見ていくと顔の作りが似ているようにも思えるが、基本的に自分は審美眼がないので同じ仏師によるものだと言う確信が持てない。

國中連公麻呂の記事を続日本紀から拾ったところ、(1)761年に公麻呂が従五位上に任官されたこと、(2)761年に正五位下の公麻呂が東大寺を造営する次官になったこと、(3)767年に東大寺に天皇が行幸(みゆき)され、公麻呂が正五位下から従四位下に昇任したこと、(4)768年に但馬員外介となったこと、(5)774年に卒(死亡)したことが記されていた。774年の記事には、以下の公麻呂の出自が記されている。

  • 本是百濟國人也。(元は百済出身)
  • 其祖父徳率國骨富。(祖父は徳率國骨富)
  • 近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。(近江朝廷の時に帰化した=天智天皇のとき、すなわち白村江の戦いのときに日本に帰化した。)
  • 天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。(天平年中、聖武天皇発願により長さ5丈(約16.5m)の盧舎那銅像を造る。当時の鋳物工に手を出す者がなかったが 公麻呂は巧思(解決策)をもって成功させた。)
  • 以勞遂授四位。官至造東大寺次官■但馬員外介。(その功により四位を授かった。官位は、造東大寺次官、但馬員外介(名誉職とされる)となる。)
  • 寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。(天平宝字2年、大和国葛城下郡の国中村に住んだためその地に因む國中姓を賜った。)

公麻呂の祖父・國骨富は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ滅びた百済の徳率(四品官)で日本に逃れてきた。また、大仏殿碑文に、大仏建立の工人として、國中連公麻呂に加え、鋳師の高市大国と高市真麻呂と柿本男玉、大工の猪名部百世と益田縄手の名が上がっているが、彫刻家は公麻呂だけであるという。

以下は「続日本紀」原文。

(761)天平宝字五年 六月 廿六日 己夘。《廿六》從五位上國中連公麻呂

(761)天平宝字五年 十月 朔日 冬十月壬子朔。正五位下國中連公麻呂爲造東大寺次官。

(767)神護景雲元年 二月 四日 二月甲申。《辛已朔四》幸東大寺。授正五位下國中連公麻呂從四位下。

(768)神護景雲二年 十一月 廿九日 己亥。《廿九》從四位下國中連公麻呂爲但馬員外介。

(774)宝亀五年 十月 三日 冬十月己巳。《丁卯朔三》散位從四位下國中連公麻呂卒。本是百濟國人也。其祖父徳率國骨富。近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官■但馬員外介。寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。

以下の記事にある國中連三成は公麻呂の息子か一族だと思うが、官位だけが示されていて仏師だったかどうかはわからない。

(785)延暦四年 八月 十四日 丙子。《十四》正六位上國中連三成

(786)延暦五年 一月 廿八日 己未。《廿八》地震。外從五位下國中連三成爲助

今年もあと6時間程となった。3月に還暦を迎え、残りの人生設計に悩んでいる。


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