備忘録として

タイトルのまま

鬼怒鳴門(Donald Keene)

2015-10-11 22:39:40 | 古代

昨晩、NHKで『私の愛する日本人へ~ドナルド・キーン 文豪との70年~』というスペシャル番組の放映があった。上の写真はNHKのホームページより。番組は、10代後半の1940年に源氏物語の英訳本に出会い日本文学に魅せられ、アメリカ軍の情報士官としてアッツ島に上陸し、戦後、日本に留学し多くの文学と作家に出会い、日本文学を世界に紹介し、東日本大震災で日本に帰化するドナルド・キーンの生涯をドラマ仕立てで紹介する。日本という国、日本人、習慣と伝統、日本文学に対するドナルド・キーンの思いが語られる。ドナルド・キーンの思う日本人とは、”あいまい(余情)を愛する、はかなさに共感する、礼儀正しい、清潔、よく働く”である。日本の魅力は伝統にあるという。日本人は日本が特殊であること、異質であることを誇りにするが、実は外国人でも日本の文化や習慣を共有できるのだという。

ちょうどドナルド・キーンが英語で書いた『Seeds in the Heart』1993の日本語訳『日本文学の歴史 ⑴古代中世篇1』土屋政雄訳を読んでいる。この本は、古代から現代までの日本文学を解説したあと、個別の文学作品を評価する。古事記、風土記、日本書紀、聖徳太子、万葉集、そして平安時代の空海や菅原道真らの漢文学までである。万葉集には特に紙数を割く。

日本文学のジャンルとして、詩歌、小説(フィクション)、戯曲、随筆、日記、紀行文などがあり、西洋文学で盛んな叙事詩、長編の物語、伝記は発達しなかった。随筆は西洋にはない。日記や随筆や私小説は内省的な日本人向きである。庶民の猥褻な俳句や春画が芭蕉のレベルの俳句や浮世絵に高められ、農民の田楽が能になったように、その芸術性は洗練され高尚化する。この高尚化はあらゆる分野の日本文化に内在する。文学者を含め文化に携わるものは、芸の最高原理に身も心も捧げる「道」を信奉した。また、日本人は文化に対し保守的で、歌舞伎、能、和歌、俳句など伝統を守り続けている。日本文学の思想的な背景は、仏教、儒教、神道にある。社会的な義務は儒教に従い、宗教的関心事と死後の世界への希望は仏教に託し、この世の楽しみ(四季の美しさ、恋、子供)は神道によって区分けされる。

古事記

『古事記』を文学作品としてとらえ、国生み神話からはじめ『古事記』中の挿話を解説する。特に歌謡や和歌を英語訳を添えて紹介する。原文日本語は難解だが、ドナルド・キーンの英語で歌の意が明瞭になる。意味が明瞭だからといって説明臭くなく詩的な英文になっている。例えば、ヤマトタケルが故郷大和への郷愁を歌う「倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭し美(うるわ)し」は次のように訳される。

Yamato, Fairest of provinces, Encircled by mountains, Like green fences, Layer on Layer, How lovely is Yamato!

古事記が歴史ではなく文学作品として扱われたのは1925年の高木敏雄『日本神話伝説の研究』からだという。戦後は、軍国主義や天皇崇拝から自由になって『古事記』を見直し始めた。以来、歴史学、言語学、民俗学からの研究が盛んであるが、文学研究者も『古事記』の位置づけを模索しはじめた。単に現存する最古の日本語書物というだけでなく、将来の文学的発展の種(Seeds)を内に秘めた文学作品としての位置づけである。『古事記』は日本の文学の源流である。

聖徳太子

十七条の憲法の思想は、この世のことは儒教(第1条和をもって貴しとなす)で、永遠の世界のことは仏教(第2条三宝(仏法僧)を敬え)に随えとあり、これはドナルド・キーンが序で書いた日本文化の思想的な背景そのものである。聖徳太子の著作を純粋に文学的観点から眺めることはこれまでなかった。十七条の憲法や三教義疏の漢文の素養は七世紀初めに日本人によって書かれたもので、それが聖徳太子の著作としても矛盾はない。ドナルド・キーンは太子偽作説をとらない。

懐風藻

大津皇子が死に臨んで詠んだ歌は万葉集にあるが、懐風藻にも死を目前にして作った漢詩がある。以下、読み下し文とドナルド・キーン訳の英文である。

金烏西舎に臨(て)らひ、鼓声短命を催す。泉路賓主無し、此の夕家を離(さか)りて向かふ。

The golden crow lights on the western huts: evening drums beat out the shortness of life. there are no inns on the road to the grave- Whose is the house I go to tonight?  (訳:金色の烏(太陽)が西の館を照らし、夕刻の太鼓が命の短さを響かせる。死地に向かう路傍に宿はない。今夜私が行こうとしている館は誰のものだろうか?)

大津皇子の漢詩は自分の感情に哲学的な余韻をもたせようとした結果生まれたものである。一方、皇子の万葉歌「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」は、死を間近に控えた瞬間でさえ、風景への親密な思い入れがあったことがわかるとドナルド・キーンは言う。説明がないので哲学的余韻とはどのようなものかよくわからないが、沈む太陽や夕暮れに響く太鼓の音が刹那的な感情を揺り動かす。その感情は生への執着よりも諦観だったように思う。柳田国男と折口信夫は「鳥は古代人にとって霊魂の使いあるいは死霊そのものだった」と言っているように、金烏の「お迎えがきた」という感情表現だったのかもしれない。

柿本人麻呂

『万葉集』の歌は歌人の体験と心情を直接的に表現し、吐露されている感情の激しさが歌に緊張感と力強さを与える壮麗なものである。これに対し、『古事記』の歌謡は原始的である。人麻呂の長歌が『古事記』以前に詠まれたとは信じられない。すなわち万葉集と古事記の歌謡は異質であるというのがドナルド・キーンの意見である。もしそうなら、梅原猛が論文『原古事記と柿本人麿』で語る人麻呂が原古事記を書いたとする説は成立しないのではないかと思う。

万葉集第二期を代表する人麻呂の長歌に典型的に見られる対句法は間違いなく漢詩に触発されたものである。人麻呂が多く詠んだ挽歌は殯宮(あらき=仮のとむらい)の間に詠まれたもので、702年に持統天皇が火葬にふされ殯宮の習慣がなくなってから挽歌はなくなる。ドナルド・キーンは人麻呂の最期について齋藤茂吉梅原猛やその他の人々の様々な説を紹介する。

万葉集第三期(702年~729年)

持統天皇崩御の702年から720年の間に万葉歌は1首しかない。720年は権力者である藤原不比等が死んだ年である。万葉集に不比等の歌は1首もなく、懐風藻には漢詩が5篇あるように不比等の文化的な関心はほとんど中国一辺倒であった。不比等の死後、人麻呂の伝統にのっとった万葉歌が復活する。そうだとすれば、梅原猛の「稗田阿礼は不比等」という説は絶対に成立しない。古事記は極めて和風だからだ。人麻呂が流罪になり許されて宮廷に戻り山部赤人になったという奇怪な言い伝えがあること(梅原猛)を紹介していた。これは知らなかった。

まだ、家持や憶良の歌の話、平安時代の文学についての章があるが、それは次回以降とする。今日は、ラグビーワールドカップUSA戦がある。昨日スコットランドがサモアに勝ったので残念ながら日本の決勝トーナメントはなくなったが、いい試合を期待している。 


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