備忘録として

タイトルのまま

鞍作鳥

2016-02-06 16:25:20 | 古代

1月31日の読売新聞に飛鳥大仏が建立当初のままか材料調査を開始するという下の記事が載った。

日本最古の本格的寺院、飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・銅造釈迦如来坐(ざ)像(通称・飛鳥大仏、重要文化財)の材質調査に、藤岡穣(ゆたか)・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが、今夏から取り組む。鎌倉時代に火災に遭い、ほとんど原形をとどめていないとも考えられてきたが、昨年の予備調査で造立当初の部分があることを確認。頭部についても当時の造形のまま残っている可能性が高く、再評価につながりそうだ。 飛鳥大仏は像高275センチの鋳造仏。渡来系の仏師、鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利(とり)仏師)が手がけ、609年に完成したとされる。奈良・東大寺の大仏造立(752年開眼)を100年以上遡り、文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。

1月29日付け読売新聞関西版には上の全国版よりも詳しい説明が載っている。

 1196年、落雷による火災で、大仏が安置されていた金堂が焼失。大仏も大きく傷ついたとされる。戦前は国宝だったが、1950年に文化財保護法が施行された際、「残存状態が悪い」と判断され、国宝再指定はされなかった。藤岡教授らは2013年度から、大阪市立美術館所蔵の誕生釈迦仏立像(飛鳥時代)など、5~9世紀を中心とする金銅仏約500点の調査に取り組んできた。その一環として昨年8月、この大仏の予備調査を実施。金属の成分がわかる蛍光エックス線を用いて、大仏の表面約20か所を調査した。その結果、右手の指と手のひらは銅87~88%、錫すず5%、鉛4%で、飛鳥時代の金銅仏の成分と特徴が一致。造立当初のものが残っていると判断した。予備調査では足場が組めなかったため、頭部の成分分析はできなかったが、表面は右手とよく似た仕上がり具合となっている。このため、頭部についても、造立当時の様式を保っているとみられるという。

 頭部には補修した痕跡が多数残っており、これまでは火災で大きく損傷した証拠だとされてきた。これについても、藤岡教授は「当時の技術が未熟だったため、鋳造中に欠損してしまった部位を、造立時に銅材で補った跡もあるのではないか」と指摘。大仏の顔の一部には鋳造後に金メッキを施された跡が残っており、「完成すれば、補修跡は分からなくなると考えたかもしれない」と推測する。

 本調査では、足場を組んで頭部を含む全体を詳細に分析。造立当時の部分と補修部分を区別するとともに、補修が行われた時期についても検討する。藤岡教授は「飛鳥大仏は我が国の仏教史上、最も重要な仏像の一つ。実態を解明したい」と話している。

調査の成果を報告する記事でなく、これから調査を開始し成果を期待するという読売新聞だけのマイナー記事である。奈良新聞の考古学欄にも出ていない。結果が出るころには「そんなことやってたの?」と仏像マニアか古代史マニアでなければ記憶さえしていないだろう。「文献上、日本で制作されたことが確認できる最初の仏像だ。」と記事にあるとおり、飛鳥大仏は鞍作鳥(止利)が造ったと日本書紀と元興寺伽藍縁起に書いてある。飛鳥寺はかつて法興寺や元興寺という寺名であった。寺の完成年は日本書紀が606年とするのに対し元興寺伽藍縁起では609年と異なる。日本書紀から鞍作鳥の名の出てくる3箇所を抜き出し、梅原猛『聖徳太子』の意訳を参考にした訳を付した。

十三年夏四月辛酉朔、天皇、詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。是時、高麗國大興王、聞日本國天皇造佛像、貢上黃金三百兩。閏七月己未朔、皇太子命諸王諸臣、俾着褶。冬十月、皇太子居斑鳩宮。

(訳:推古13年(605)4月、天皇は皇太子や大臣に詔勅し、銅と刺繍の丈六の仏像をそれぞれ1体を鞍作鳥に造らせた。この工事の為、高句麗の大興王は、黄金300両を献上した。7月皇太子は諸王諸臣に命じ礼服を着させた。冬10月皇太子は斑鳩宮に居住した。)

十四年夏四月乙酉朔壬辰、銅繡丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像、高於金堂戸、以不得納堂。於是、諸工人等議曰、破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工、不壤戸得入堂。卽日、設齋。於是、會集人衆、不可勝數。自是年初毎寺、四月八日・七月十五日、設齋。

(訳:推古14年(606)4月、丈六の仏像を作り終えた。その日、丈六の銅像を元興寺金堂に安置しようといたが、仏像が金堂の扉より高く堂内に納められなかった。工人たちは扉を壊して入れようと相談したが、鞍作鳥は優秀で扉を壊さずに仏像を入れることができた。多くの人々が集まり、この年に初めて寺ごとに4月8日(灌仏会)と7月15日(盂蘭盆会)を祝うことになった。)

(十四年)五月甲寅朔戊午、勅鞍作鳥曰「朕、欲興隆內典、方將建佛刹、肇求舍利。時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼。於是、汝父多須那、爲橘豐日天皇、出家恭敬佛法。又汝姨嶋女、初出家、爲諸尼導者、以修行釋教。今朕爲造丈六佛、以求好佛像、汝之所獻佛本則合朕心。又造佛像既訖、不得入堂、諸工人不能計、以將破堂戸、然汝不破戸而得入、此皆汝之功也。」則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥、以此田爲天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺。

(訳:5月、天皇は丈六の仏像を造ったことなどを賞し、大仁の位を授け、近江国の水田20町を給わった。鳥はその田に天皇の為に金剛寺を建てた。これは今、南淵の坂田尼寺と言う。)

推古14年(606)丈六の仏像を金堂に安置するとき仏像の背丈が金堂の戸より高くて堂の中に納められなかったという記事が古代史上の問題になっている。日本書紀に、法興寺は推古4年(596)に完成し、それから10年後の606年に本尊である丈六の仏像が奉納されたと書かれている。10年間も本尊がなかった説明がつかないからである。これについて上原和は『世界史上の聖徳太子』の中で、推古13年に高句麗が黄金300両を献上したことを重視し、法興寺はもともと百済の伽藍形式である一塔一金堂方式で596年に落慶したが、高句麗の献上金をもとに高句麗形式である一塔三金堂式に変更し、同時に本尊を入れ替えたとする。この形式変更は、毛利久の提唱した塔と中金堂を最初に建設し、次に東西金堂を建設したという二期建設説をもとにしていて、フランソワ・ベルチェが唱えた。上原和はベルチェ説を支持し、当初から高句麗形式だったという説に反対する。その根拠は発掘調査で出土した屋根瓦が百済様式であること、塔の基壇が四角形の百済方式であり高句麗の塔の八角形ではないこと、塔の基壇に中門と中金堂の南北方向に階段はあるが左右の東西金堂方向に階段がないことから、塔と中金堂は百済式であり、伽藍配置が高句麗式であるという。また、仏像製作が推古天皇の詔勅によってはじめられた点を重視し、法興寺が蘇我氏の私寺から官寺に変わったとする。

梅原猛は『聖徳太子』で法興寺が本尊の変更とともに私寺から官寺に変わったとする点は上原和と同じ意見だが、寺の様式変更はありえないと批判する。ベルチェ説を発展させた大橋一章は法興寺の建設が塔、中金堂、東西金堂建設の3期に分けて行われ、本尊はその進捗に合わせて作られたとする。そして最終的に完成するのは推古20年代に入ってからだろうとする。この大橋説を、梅原は文献をまったく無視していると批判するが、上原和の説なら形式変更や建設年代は異なっても大橋の段階的に完成したという説でも説明がつく。

個人的には、鞍作鳥が金堂の戸を壊さずにどのようにして丈六の仏像を金堂に入れたのか気になるところだが、それに答えてくれる説は手元の資料の中に発見できなかった。

田中英道は『日本美術史』で、以下の仏像が文献やその様式から鞍作鳥の作品だろうとしている。

  • 飛鳥寺飛鳥大仏 (日本書紀と元興寺伽藍縁起に鞍作鳥作とある)
  • 法隆寺釈迦三尊像 (光背に鞍作鳥作とある)
  • 法隆寺薬師如来像 (釈迦三尊像と同じ様式)
  • 法輪寺薬師如来坐像 (鞍作鳥作と寺伝にある)
  • 法輪寺虚空蔵菩薩立像 (同上)
  • 夢殿の救世観音 (様式から)

救世観音に関しては、フェノロサや岡倉天心が絶賛したことに反し、それが形式性が強く自然さに欠けていると指摘し、顔におおらかさがある反面、高貴さがやや乏しいし、かすかな笑みは見られるが、眉、鼻、口の彫の硬さ、首の3本の皺の写実性の不足を指摘する。ただしこれらの形式性は技量不足によるものではなく、美術史初期の「アルカイスム」的な硬さであるとする。アルカイスム様式とは、単純性、正面性、アルカイックスマイル、生硬さ、触覚値などを表現形式とする。田中英道は逆に当時の最高傑作として法隆寺の百済観音をあげ、それは同じ表現傾向を有する法隆寺四天王の光背に名前のある山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)が作者だと推測している。

アルカイックスマイルとは、紀元前5世紀ころの古代ギリシャ彫刻に見られる不自然な微笑を指し、日本では鞍作鳥の飛鳥大仏、法隆寺釈迦三尊像、救世観音像に加え中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像などに見られる。救世観音の微笑は当時の彫刻表現がまだ稚拙(古拙というらしい)で像に躍動感を与えるために微笑みをつけたと考えられており、そうだとするとフェノロサや和辻哲郎が比較の対象とした「モナリザ」の微笑とはまったく別次元の表現であり、比較の対象にさえならないことになる。


最新の画像もっと見る