伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

またしても“おや??”な人

2017年10月04日 | エッセー

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」はイソップ童話にある高名な箴言だ。ここで跳べなければ、ロドスでも跳んでいなかったことになる。真実は時空を超える。穿てば、ロドスで跳んでいたようにしかここでも跳べないはずだ。
 政党が理念を掲げる。政権を取ったらこうなります、と。しかし、「ロドスで跳んでいたようにしかここでも跳べないはずだ」。凄惨な内部粛正を繰り返しつつ権力の座を獲得した政党は、今度は一国をおどろおどろしい密告社会に変えるにちがいない。金に塗れた政党は金権政治を一国に敷き満つるに相違ない。利権に縛られた政党が一国に錯綜した利害の網を被せるだろうことは想像に難くない。理論闘争に明け暮れる政党がダイバーシティに著しく欠ける息苦しい社会をつくるのは疑いない。掲げる理想とは似て非なる、刻下のその政党自身のありようを一国単位に拡大し再現するに決まっている。つまりは民主的な政党運営であれば民主的社会に、強権的であれば強権社会に、排他的であれば排他的社会に──。政権獲得の暁に政党の色合いが急変するはずはないからだ。「漆剥げても生地は剥げぬ」といい、「病は治るが癖は治らぬ」という道理だ。
 「踏絵」だという。政策協定書だ。一瞬の希望は紙風船か。「希望の党」が「詭謀(キボウ)の党」に様変わりしそうだ。『ストップ! あべ』だけでいいではないか。大義なき野合といわれようと構うことはあるまい。第一、大義なき解散を打ったのは政権側だ。言えた義理ではあるまい。大義なき解散を迎え撃つこと自体が立派な大義だ。ところが、都知事はあわよくばソーリへの色気が芽生えたか、はたまた主導権の不安が過(ヨ)ぎったか。策士策に溺れるか。「排除」が裏目に出たようだ。
 「呉越同舟」という言葉がある。誤解があるようだが、単にライバル同士が同舟することではない。同舟すれば敵同士でも運航に協力せざるを得ないとの謂だ。そういうシチュエーションをつくるのが策士である。だが排除でいくとゾーイングが進んで、「漁夫の利」を掻っ攫(サラ)われてしまう。
「我れ寡(スクナ)くして敵は衆(オオ)きも、能く寡(カ)を以て衆(シュウ)を撃つ者は、即ち吾が与(トモ)に戦う所の者約(ヤク)なればなり。」(「孫子」虚実篇)
 「約」とは兵力の集約である。分散は負けだ。本気でストップをかけるのなら、もっと大きな仕掛けができたはずだ。「踏絵」は自らの狭量を踏まれているに等しい。
 パルチザンに関して、内田 樹氏はこう語っている。
 〈革命闘争というのは、はじめから終わりまで、とっても楽しいものでなければならない。同志とともに過ごす時間が楽しくて楽しくて、この時間がいつまでも続くようにみんなが願うような、そういうものであるべきなんです。そうじゃないと革命闘争なんかできるわけない。地下に潜伏して、弾圧に怯えて過ごす時間でも、同志と一緒だから楽しいというのでなければ身体が保ちません。革命を一緒にやれる人であるかどうか、その判断基準はその人と一緒にいると自分も勇気づけられる、自分の知性の回転が滑らかになる、自尊感情が基礎づけられる、そういうことだと思うんです。〉(「日本霊性論」から)
 もちろん選挙戦は潜伏闘争とは違う。だが「同志と一緒だから楽しい」、「勇気づけられ」「知性の回転が滑らかに」なり、「自尊感情が基礎づけられる」ことは戦いの成否に直結する要件である。今はたして彼(カ)の党は「楽しくて楽しくて、この時間がいつまでも続くようにみんなが願」っているだろうか。揣摩憶測に満ちる中枢は疑心暗鬼の政党をつくり、専横的な運営は独断的な社会をつくることになるのではないか。○○ファーストはファースト・プライオリティではなく、○○以外の排除だったのかと大きな失望を招きはしないか。
 ロドスから戻ってきた男は大記録を出したと胸を張った。ウソでないならここもロドスだ、ここでも大記録は出るはずだ。でないなら、ここで跳んでいるようにしかロドスでも跳んではいなかったことになる。──またしても“おや??”な人である。 □