伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「何様」言葉

2013年01月19日 | エッセー

 今月の新刊から。
 「ナニ様?」な日本語 (樋口裕一、青春新書)
 著者は多摩大学教授で、250万部のベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」で知られる文章指導のエキスパートである。
  「ナニ様?」な日本語、つまり「何様言葉」、上から目線の物言いだ。まずはいくつかを、同書からピックアップしてみよう。(解りずらいものは、……以下で同書の解説を付けた)


<同僚に>
「使えない」「終わっている」……相手を単なる機能や物としか見ていないことを意味する。
「手伝ってあげる」
「お手並み拝見」
「この分野にはちょっとうるさい」……自分から何も言わなくても、特定の領域に力のある人は自然に発見され、認められる。
「こんなこと言えるのは俺ぐらいだ」

<取引先に>
「ついでに寄らせていただきます」
「何度も申し上げましたが」
「誠意が感じられません」
「おじいちゃん、大丈夫ですか?」……赤ちゃんをあやすかのように言うと、知的に劣る人扱いしているようなものだ。

<上司に>
「腕を上げましたね」
「期待しています」
「ふつうできません」……社会では普通でないことは多々ある。それを無視してこう言うと、部下の方が上司よりも社会を知っていると豪語したも同然だ。
「教えてもらってないので、わかりません」
「私の仕事ではありません」

<部下に>
「とりあえずやっといて」……完璧なものを期待していないという響きがある。
「だから、ダメなんだ」
「子供の使いじゃないんだから」
「努力が足りないんじゃない?」
「べつにいいんじゃない?」……そんなおざなりな対応ではやる気をなくてしまう。

<その他>
「結論は?」
「何が言いたいの?」
「そんなこと言ったら、人に笑われるよ」
「顰蹙ものです」
「敵に回しますよ」
「私、それダメ」……周囲には興味あることばかり話すように強制し、自分に興味のないことは話題にするなと命じているようなものだ。
「常識でしょ」
「残念な店」……よくは思わないという主観を言うのに、客観性を持たせてしまうということは、自分の主観をさも皆の意見のように言っていることだ。


 代表例だが、これだけでも身に覚えがある。それどころか私なぞほとんどに該当し、かつ常套句でもある。いかに鼻つまみか。ただ幸い?なことに、体臭同様本人は気づかない。
 著者は本書の目的をこう述べる。
──「何様」発言が怖いのは、ついうっかり「何様」言葉を使っていると、行動までが「何様」化することだ。けっして当人の性格は傲慢なわけではないのに、見た目の「何様」度が上がってしまう。その結果、相手の反感を買いやすくなる。上司の理解や部下からの人望は得られにくいだろう。職場の仲間からは煙たがられるかもしれない。逆に言えば、「何様」言葉を意識的に使わない人は、そのような危険を逃れられる。「何様?」というフィルターで見られないから、正しく評価してもらいやすい。──
 単なる世渡りのハウツー本といえなくもないが、背景はそれほど単純ではあるまい。目線の『高度』が計れないから「何様言葉」が出現したといえるが、それ以前に上下意識が限りなく希薄化したことが根因ではないか。
 内田 樹氏が深甚な話をしている。(◇部分)

◇親の仕事とは、ひとことで言えば、「子どもを適切な仕方で社会化する」ということです。
 「とにかく、怒られるから、やめなさい」というのは、社会的規範の教え方としては経験的には有効なものです。社会的な規範というものは決して「諄々と理を説けば、子どもにでも分かる」ような成り立ち方では作られていません。
 「みつかったら怒られるぞ」というような言い方くらいしかとりあえず思いつきません。それは「悪いことしてっと、ナマハゲに食われっど」とか「はやく寝ないとトリゴラスがきちゃうよ」とか「言うこと聞かないと赤マントがさらいに来るよ」とかいうのと同型の恫喝であって、まったく論理的な説明になっていませんが、これは「しつけ」の本道ではないかと私は思います。
 どうしてかというと、このような「とにかく……」型の恫喝は、少なくとも一つのことだけは確かに子どもに伝えることができるからです。それは、「内輪のロジック」や、「親の力」の及ばないところに、「社会的規範」が存在する、ということです。
 「ナマハゲ」はそのような「社会的規範」の象徴です。「ナマハゲ」が強権を行使するときには、親がいくら泣いて懇願しても子どもは喰われてしまいます。親より上に、それよりはるかに強大な権威者があるということ、それがときには理不尽な暴力的制裁を子どもの上に行使する可能性があるということ、これを教えるのが「子どもの社会化」ということです。
 「家の外部」が存在し、そこでは「家の中」とは別のロジックが支配しており、「親」はそれに服属し、それを承認するほかないということ、子どもの社会化とは、要するに、そのような「位階差」「段差」があることを知らせるということです。「ナマハゲ」「トリゴラス」の類の説話群は子どもにそれを理解させるためのツールであると私は思います。◇(角川文庫─「おじさん」的思考─から)

 いやー、鋭い。痺れるほど鋭い。「とにかく……」型の恫喝は因習的で、「諄々と理を説けば」型こそ現代的だとする蒙を啓かれた。
 となると、「何様言葉」の出現は「子どもの社会化」が不首尾に終わったための一現象ともいえる。「位階差」「段差」への認識が欠落することは、“上下意識が限りなく希薄化”することといえよう。
 さらに深掘りすると、「下流志向」が見えてくる。つとに有名な内田氏の持説である。学びと労働からの逃避をドラステックに抉った卓説である。──子供たちが「消費主体」として社会に参画するため等価交換と自己決定の過大視が生まれ、“誇らかに”下流を目指す──。蓋し、洞見である。肥大化した「消費主体」、つまりは『王様』が上から目線になるのは当然であろう。「何様言葉」の根は深い。
 してみると、数年前IKKOが頻りに連発していた『どんだけぇ~』はかなりいいところを突いていたといえる。……などといえば、『どんだけぇ~』と返されそうだが。 □