伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「日本語の宿命」

2013年01月15日 | エッセー

 宿命は人生にばかりではなく、言語にもあるらしい。日本は史上それに二度見舞われた。最初は古代、漢語によって。次は維新以後、欧米言語によって。どちらも異質の大きな文明や文化に直面し、それらを吸収することで大きな脱皮を成した。だが、そこには宿命的アポリアが付き纏う。別けても舶来の概念がそうだ。

  「日本語の宿命」
    ──なぜ日本人は社会科学を理解できないのか(光文社新書、昨年12月発刊)

 筆者は帝塚山学院大学教授・薬師院仁志氏。社会学が専攻の学者だ。冒頭、氏はこう述べる。(◇部分は同書より引用、以下同様)
◇ただし、単に外来語や翻訳語を採り入れることは、それらを正しく理解することと同じではない。われわれは、「民主主義」や「市民」の意味を正しく理解してきたのであろうか。「個人主義」や「共和国」といった事柄を、本当に知っているのであろうか。◇
 今や『日本語』と化した「社会」「個人」「権利」などなど、「意味を正しく理解して」いない言葉が取り上げられている。
◇ある単語が何を指し示すのかは相対的かつ恣意的なのであって、そこに絶対的な真理や普遍的な正当性があるわけではない。それでも、西洋語によって形成された知識を理解し、それを広い視野の下で把握するためには、翻訳語だけに頼るのではなく、どうしても原語の意味内容を知ることが不可欠になってしまう。◇
 として、原義からの解明を進めていく。さらに、「本当に知って」いないために惹起されたさまざまな問題が剔抉される。平易な語り口であるが、時宜を得た警世の一書といえよう。(朝日新聞の書籍欄でも今月13日に紹介されていた)
 
◇なぜ「キャピタル」が「首都」であると同時に「資本」なのか。◇
 かつて考えたことがある。結論が出ぬまま忘れていたが、膝を叩いて納得した。ラテン語の「頭」が字源であってみれば、そりゃそうだ。

◇進歩的な考え方だった「学歴主義」◇
 「法治主義」と「法の支配」の違いを講ずる場面で出てくる。勝てば官軍。明治期に跋扈した藩閥へのアンチテーゼであった。当時の負け組に想像力が及ばねば、今時の価値観が誤解を生む。
 「法治主義」と「法の支配」。どちらにせよ、なぜ「法」によるのか? 王権との角逐、英仏のありようの違い。なかなか興味深い。

 「社会」とは何か。本邦ではこの一言で括られるが、『本場』には二つの言葉がある。コミュニティーとソサエティ。加えてややこしいのが、「社会」が漢語であること。つまり「社会」が、
◇西洋語の翻訳であり、中国経由の漢語であり、かつ一般的な日常語であるという性格を、矛盾を抱えながら同居させてきた◇
 ために、あらぬ混乱が生じている。「大衆」「個人」も同類だ。衆を頼んでもファミレスは「大衆食堂」とは呼ばぬし、「大衆文芸」の場合はポピュラリティに因っている。
 「個人」も面倒だ。「インディビデュアル」が中国語経由で輸入されたからだ。さらに西欧史で登場する「パーソナリティ」との絡み。日本国憲法での「個人」。「個人」については二章にわたって論考されている。
 「市民」も劣らず難敵だ。「市民団体」と「市民社会」の間の不整合はどこから来たか? “NPO”と“NGO”はどうちがうのか? 圧巻は「民主主義と共和制」と題する章だ。
 氏は「民主主義は手続きに非ず」として、次のように述べる。
◇西洋の知識や文化を未消化のまま輸入することを余儀なくされた日本では、中身の理解を伴わず、具体的な“やり方”、すなわち形式や手続きだけが一人歩きするようになった。あげくの果てには、単なる多数決が民意と誤解されるような事態さえ生じてしまう。
 これは、悪い冗談ではない。現実に、次のような言辞が登場しているのである。
──民主主義は、市場競争原理を政治に応用しています。たとえば、選挙や多数決はマーケティングシェアをたくさんとった人が勝つ。市場競争原理そのものです。(上山信一『大阪維新』角川書店)──
 多数派が勝ちで少数派が負けというかたちの政治決定が、民主的な国家を実現するはずはない。民主主義の目的は、選挙や多数決を国民間の闘争と化し、同じ祖国を持つ人間を多数派と少数派、ひいては勝者と敗者に分断することではないのである。
 ヨーロッパ(スイスを除く)では、個別の政策決定に際して住民投票や国民投票に訴えることは、非民主的な行為だと見なされることが多い。そのような方式は、議論による合意形成を放棄した勝負でしかないと同時に、歴史的に見ても、独裁者──ナポレオン一世、ナポレオン三世、ヒトラーが多用した手法だったからである。◇
 市場原理と民主主義を同一視する『大阪維新』の主張は、極めて陳腐で噴飯ものだ。ただこれが「悪い冗談ではない」のは、大向こうを唸らせている事実だ。いかにも「民主主義」を鮮やかに揚言しているようで、似ても似つかぬ珍説で大向こうのフラストレーションを巧みに取り込もうとしている。そのあざとさが怖い。独裁者の手法に通底するあこぎな口車だ。「宿命的アポリア」に足を掬われてはなるまい。
 内田 樹氏は養老孟司氏との対談で、こう語っている。
「すべての言葉は一義的には定義できないですよね。辞書を引いたって語義が一つしかない語なんて存在しないじゃないですか。一義的に定義しない言葉は気持ちが悪くて使えないという人は、知性のあり方があまり人間的じゃないということじゃないかな。用例が一つ増えるごとに言葉の意味が変わるって当然なんです。定義に終わりがないから辞書が頻繁に改訂されるわけで、言葉の意味が一義的だったら、ぼくたちは今でも平安時代の辞書で不自由ないはずです。」(「逆立ち日本論」新潮選書)
 よく観察すると、『大阪維新』は「一義的定義」を多用する傾向がある。「知性のあり方があまり人間的じゃない」証左かも知れない。

 ともあれ「宿命」は悲嘆に暮れるより、乗り越えれば予期せざるアドバンテージを掌中にできる。「外来語や翻訳語」に纏わり付く「宿命」も、原義に還りつつ多義性を丹念に繙くことで乗り越えられるのではないか。歴史の垢を削ぎ落とせば、珠のような言の葉に蘇生できる。それこそが明治の先達が流してくれた尊い汗に報いる道であろう。 □