伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

こじつけ

2011年11月17日 | エッセー

 こじつけ。漢字で書くと「故事付け」。文字通り、旧来、伝来の謂れに無理やり関連付けることである。その謂れがない場合、本ブログで頻出する「奇想」となる。牽強付会にちがいはない。
 さて来年の十干十二支をこじつけてみたい。豊かな想像力と多少の経験知はあるにせよ、干支自体が中国伝来の故事付けである。ただ西暦のような通年標示がなかったため、60年サイクルの干支はその代用として実用には供された。ともあれ故事付けにこじつけるのだから、遊戯に近い。
 明年は、十干で壬(ミズノエ)、十二支で辰、したがって干支では壬辰(みずのえたつ・ジンシン)となる。辰とは「ふるう、ととのう」の字義から、草木の形が整った状態を指すという。敷延して、正義感と信用の年であるそうだ。なんだか、こじつけようもないほどこそばゆいが(大王製紙やオリンパスの騒動は今年でよかった。来年なら身も蓋もない)。「龍」は覚え易くするために音を採って、想像上の動物を配したらしい。壬とは陰陽五行説で妊に通じ陽気を身ごもる、また水のように自由に適応することをいうらしい。二つが組合わさり、干支で壬辰というわけだ。
 壬を含む干支が6、辰を含むものが5種類ある。そのうち高名なのが、「壬申の乱」と「戊辰戦争」ではないか(「壬辰」ではなさそうだし、近代以降は干支を冠さなくなった)。双方、血腥い。
 「壬申の乱」については、かつて本ブログで触れた。
〓〓672年(壬申 ミズノエサル)、日本古代最大の内乱が起こる。しかも骨肉の争いである。645年の大化の改新から27年。白村江の戦いをはさんで内外動乱の時代である。
 大海人は有能で強(シタタ)かだったらしい。シャーマニスティックで、それゆえにカリスマ性を併せもっていた人物である。
 骨肉の争いは叔父方の勝利で終息する。翌年2月、大海人は飛鳥を都とし、即位する。天武天皇である。
 乱による旧大氏族の凋落を機に、天武は権力の集中を図る。皇親政治を敷き、天皇制の確立へと向かう。やがて、白鳳文化が花開く。〓〓(06年6月「奇想! 壬申の乱」から抜粋)
 当時、秋篠宮家に男児が誕生し皇位継承が話題になっていた。そこでつい、1300年以上も昔に奇想が跳ねた。まさかいまどき乱はないが、センシティブ・イシューではある。

 戊辰戦争については、司馬遼太郎に興味深い論述がある。


 戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた“東西戦争”の最後の戦争といっていい。
 古代はさておき、日本社会がほぼこんにちの原形として形成されはじめた平安末期に、西方の平家政権が勃興した。当然ながら、東方はその隷下に入った。
 それをほろぼした東方の鎌倉幕府が、西方を従え、関東の御家人が、山陰山陽から九州にかけての西方の諸国諸郷に守護・地頭として西人の上に君臨した。
 南北朝時代は、律令政治を再興しようとした後醍醐天皇(南朝)が、いったんは関東の北条執権をほろぼしたから、一時的に”西”が高くなったが、結局は北朝を擁する関東出身の足利尊氏が世を制した。東方の勝利といえる。
 織田・豊臣氏は西方政権であった。しかしそれらのあと、家康によって江戸幕府がひらかれ、圧倒的な東方の時代になった。
 戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤としたから、明治後もまた東の時代といっていい。(「街道をゆく」33から)


 最後の“東西戦争”とは、なんとも雄大な着想である。爾来143年間、いまだに東京が「配電盤」であり続けているのは少なくとも進歩とはいえまい。では、『大阪都』か。いや、待て。その前に、電源をどこに求めるのか。振り返ってみれば、維新このかた猛烈なショートを起こしたことがあったにせよ、電源はいつも米国ではなかったのか。TPP騒ぎに顰みつつ、黒船以来の腐れ縁だと嗤ってばかりはいられない。そろそろ、大きな絵を描き始めてはいかがであろう。
 
 片や古典的な国のかたちが整い、片や近代的な国のかたちに転じた巨大な結節点であった。迎える明・「壬辰」は、いかなるエポックを刻むのか。あとひと月と少し、こじつけでは済まなくなる。□