伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

初春 丑尽し

2009年01月01日 | エッセー
 丑年が明けた。あまり能はないが、年の初めは「ウシづくし」でいきたい。

【汗牛充棟】 蔵書が非常に多いこと。
 ポピュラーな四字熟語である。養老節をひとつ。
〓〓昔はどこの小学校にも読書しながら薪を背負って歩く二宮尊徳の銅像があったものです。そんなに本が好きなんて感心な話だ、だから偉くなったんだ、というのはあくまでも後世の解釈です。実際にはどうだったか。本好きにもほどがあるぞ、ということで尊徳は身を預かってくれたおじさんに読書を禁止されてしまったのです。お馴染みの薪を背負って本を読んでいる姿の由来はここにあります。つまり、目を盗んで読むしかなかったから、外で働きながら読んでいたのにすぎません。「尊徳は本に毒されている。何を考えているかわからない」と当時の大人に思われていたのです。当時の世間の常識は「本なんか読んで何の役に立つのか。体を一生懸命使って働いて、ギリギリで生きていかなきゃならない。本なんか読んだらそこがおろそかになる」というものでした。
 あくまでも読書は自分で考える材料にすぎないと考えています。つまり本は結論を書いているものではなく、自分で結論に辿り着くための道具です。私自身は本について、「本屋さんとは、精神科の待合室みたいなものだ。大勢の人(著者たち)が訴えを抱えて並んでいる」と思っています。〓〓(新潮社 養老孟司著「養老訓」から)
 母校には、いま尊徳像の台座だけが残っている。像はどこへいったのだろう。わたしが小学生だったころには、確かにあった。つい想『像』してみる。でも台座があるから、像はなくとも台無しにはなっていない。
 それにしても、養老節はたまらなくおもしろい。あれは盗み読みの元祖、ながら族の走りだったのか。そういえば、授業中の盗み読みは高校時代に始めた。数学の時間に古文を、化学の時に英文など。これがスリリングで結構いける。睡魔撃退の秘策であった。しかし、尊徳さんのように大成の肥やしにならなかったのはなんとも無念だ。
 後段は鋭い。「考える材料にすぎない」は頂門の一針。「精神科の待合室」は言い得て妙だ。

【牛飲馬食】 大量に飲み、大量に食べること。
 決して、牛乳を飲み、馬肉を喰(ク)らうことではない。牛馬のごとくに、である。浅田 次郎御大の「勇気凛凛ルリの色」には、「ウーロン茶の牛飲」が頻出する。下戸の御大はアルコールの代わりにこのお茶を、牛のようにお飲みになる。そしてケーキの馬食である。この洋菓子についての深い造詣と溢れる蘊蓄が随所で語られる。浅田流牛飲馬食が頃合いに登場し、全編のアクセントを打つ。同書はかなり以前、06年8月24日付本ブログ「キケンな本」で紹介した。酒にせよケーキにせよ、牛飲馬食が身体(カラダ)によかろうはずはないが、このエッセーはそんなものよりはるかにキケンである。なぜキケンか、読めばすぐに了簡できる。
 牛飲がさらに昂ずると、「鯨飲」という。 これはもう底無しだ。一般に鯨は地球上で最も大きな体躯を有する。ところが、餌は逆に小さな小さな「グリーンピース」が好物だとか。お供はもちろん『海の警察犬』。ことしも悶着が起きるのか。

【牛後】 牛の尾。転じて、巨大なものにつき従う者。
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」は定番だ。ひとつの反骨・在野精神であろう。ひょっとしたら今年、与党の諸氏はこの成句を突き付けられるかもしれない。鶏口となって矜持を保つか、はたまた牛後に甘んじ悲哀を託(カコ)つか。正念場が土壇場となり、愁嘆場とならぬよう心されたい。

【牛車】 主として平安時代に貴族が乗った、牛に引かせた車。
 意味はともかく、その昔古文の試験でよくお目にかかった。「ぎっしゃ」とはなかなか読めなかった。やはり「ぎっ『ク』しゃ『ク』」しながら、都大路を往来したのであろうか。
 貴くない庶民はひたすら歩いた。日本ではつい150年前までは、みんな歩いた。有閑の貴い人たちだけが「ぎっ『ク』しゃ『ク』」した。馬も、狭く起伏が多いわが国土では大衆化しなかった。その他大勢は、ともかく歩いた。だから常に、荷をできるだけコンパクトに軽量にする必要に迫られた。それが日本人の「縮み志向」の背景にある、と語る日本の識者がいる。「縮み志向」とは、韓国の李卸寧氏の持説である。折り畳み傘、ウォークマン、箱庭、軽自動車、はては短歌、俳句、なんでも「軽・薄・短・小」にするのは日本の御家芸だ。
 さらに、李卸寧氏は、韓国と中国に比して日本人だけが縮み志向を持つという。そして日本は縮んでいる時に成功し、拡がろうとすると必ず失敗するらしい。秀吉の文禄・慶長の役しかり、太平洋戦争また然り、であると。
 もしも牛車が大衆化していたら、今の日本は違った国になっていただろう。次項ともつながるが、牛車は歩くよりも遅い。国民性も大らかで、円やかであったに相違ない。

【牛歩】 歩みが遅いこと。
 「戦術」と付けば、国会でお馴染みのあれだ。あれは止まってはいけないそうだ。だから、変な足踏みをして時間を稼ぐ。赤絨毯の妖怪どもが体力勝負を挑む。まことにちんけで滑稽な図である。
 
【九牛一毛】 たくさんの中のほんの少しの部分。取るに足らない、問題にならないこと。
 出典である司馬遷の書に、「仮令(タトイ)僕(ワレ)法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡(ウシナ)うが若(ゴト)し」とある。遵法を訓(オシ)えたものであろう。決して命の軽さをそやしたのではない。それにつけても、裁判員制度である。いよいよ本年から始まる。天下の愚策である。歴史の汚点かもしれない。本ブログで、いままで何度もオブジェクションを呈した。小論なぞはネグられても構わぬが、人命を、人ひとりの一生を九牛一毛にしてはなるまい。この上は、可及的速やかに制度の廃止へ向け世論が喚起されることを切に望む。
 昨年12月9日、広島高等裁判所が、05年に起こった女児殺害事件で、ペルー国籍の被告に対する控訴審判決を出した。無期懲役の1審の判決を破棄し差し戻す内容である。差し戻しの理由は、「第1審は裁判の予定を優先するが余り、公判前の整理手続きを十分に行わずに終結させた」としている。
 これは重大だ。この裁判は1審の地裁段階で、裁判員制度の予行練習として日数短縮を命題に取り組まれた。急ぐあまり、検察側の挙証に瑕疵があった。そこを高裁が衝いた。裁判員制度のもとでは5日間が目安とされる。職業裁判官だけで行った今回のようなケースでも、「急いては事をし損じる」のである。ましてや市井の民が加わる。先行きに強い不安を抱かざるを得ない。「過たば即ち改むるに憚る勿かれ」孔子はそう訓える。

【風馬牛】 自分とは無関係なさま。
 「風」とは求愛の雄叫び。それも届かぬほどに離れてしまえば、詮無い。または、馬のそれは牛には関わりないとの来由も。どちらにしても、意味するところは同じだ。
 牛馬だけではない。人間界にもこの類が急増している。「どうでもいい」 ―― 昨年は拙稿で何度か触れた。主因は想像力の欠如である。ということは、万物の霊長が牛馬に近づきつつあるのか。

【牛驚くばかり】 ものの色が非常に黒い様子。
【牛掴むばかり】 まったくの暗闇。
 上記二つは牛の体色に由来する。しかし、牛は黒とばかりはいえない。赤い牛もいる。「赤牛」である。全国で熊本と高知にしかない渇毛の和牛である。熊本産は「肥後の赤牛」、「熊本・阿蘇のあか牛」とも呼ばれ、人気を誇る。熊本県畜産会のHPから引用する。
〓〓小型の在来和牛にスイス産のシンメタール種を交配し、黒牛に勝るとも劣らない「あか牛」が誕生しました。
 あか牛は、大自然の中でよく運動をし、太陽の光を十分吸収した牧草をたっぷり食べています。だから健康的で余分な脂肪が少なく、やわらかく、まろやかな味があり、牛肉本来の風味が生きています。 〓〓
 草を食(ハ)む牛の色が黒から赤に変わり、県境をまたいで熊本に入ったと判るそうだ。先日、取り寄せて試食してみた。看板に偽りなし。わたしのような肉嫌いでも難なく喰えた。つまり憎々しく、いや肉肉しくないのだ。 …… と、来年は5度目の年男、『赤牛』になる自分に気付き箸が止まった。これじゃあ共食いだ。いや、待て待て。同じ喰われるなら、同類の血肉となるこちらの方が供養というものかも知れぬ。美味につられて、つい小理屈を捏(コ)ねた。

【牛と芥子は願いから鼻を通す】 牛が鼻輪を通されて自由を失うのは、牛の天性が招いたものであり、人が芥子で鼻を刺激されて困るのも、その人が自分で望んで口にしたためだということ。自ら望んで災いを受けること。
 「牛は願いから鼻を通す」とも使う。鼻からの連想であろうか、辛子が引き合いに出されるとは、なんとも突飛でおもしろい。
 香辛料一般にひろげて考えると、調味、消臭と同時に防腐、殺菌の効能がある。ヨーロッパは肉食で、かつ奥行きがある。運搬や保存に香辛料は欠かせなかった。古代ローマの時代から東洋にこれを求めた。今なら石油に匹敵する、国家の存立を支える重要な資源であった。そして、大航海時代の呼び水となる。
 スペインの王命を承けて西回りでインドを目指したのがクリストファー・コロンブスである。だから、アメリカ大陸の発見は「辛子」なくしてはなかった話だ。彼は辛子を「願い」、大洋を貫き「通す」命懸けの困苦を招いた訳だ。
 今月20日には、オバマ氏が新たな大航海へ出帆する。米国が願う『辛子』を、果たして採れるか。『鼻を通す』肚はすでに定まったと視る。

【牛に経文】 いくら説き聞かせても、何の効果もないことの喩え。
【牛に対して琴を弾ず】 牛に対して琴を弾いてもなんにもならない。いくら高尚なことを説き聞かせても、志の低い愚かな者にはなんの役にも立たない。 
 この二つはほぼ同じだ。愚か者に準(ナゾラ)えられるのでは、「モー、いや!」と言いたいところだろう。
 この二つの成句、東京のトライアングル地帯、永田町と霞ヶ関それに虎ノ門に跋扈する連中を指したものであろうか。と言えば、牛に怒られそうだ。ちなみに永田町には国会があり、霞ヶ関は官庁街、虎ノ門には特殊法人が集中する。

【牛に食らわる】 人に騙される。欺かれる。 
 どうもウシさんには失礼な句がつづく。犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬に噛みつけばビッグニュースになる。その伝だ。
 前述の『霞ヶ関』に関して ―― 元小泉・竹中改革の知恵袋であった東洋大学 高橋 洋一教授が、近刊「お国の経済」(文春新書)で以下のように語っている。 
〓〓財政問題にしろ、金融問題にしろ、いろいろと細かい数字やデータ、経済理論をめぐる論争はあるけれど、そういった問題の裏には、官僚の無惨な失敗とか意図的な情報隠蔽があるんだよ。政治学者の飯尾潤さんが、「日本の統治構造 官僚内閣制から議院内閣制へ」(中公新書)という本で言っているけれど、私が増税派と闘ってきて感じたのは、本当に日本は「官僚内閣制」だなってこと。「内閣」っていうのは国民の代表たる「国会」(議院)の信任があってはじめて成り立つし、逆に「国会」から不信任されると総辞職せざるを得ない。だから、私たち国民が「国会」を通じて、「内閣」も「官僚」も動かしている。民主主義の根幹にかかわる制度ですよね。でも実は違うの。「官僚が大臣や国会議員にいろいろと取り入って、「内閣」や「国会」を上手にコントロールしている。官僚が右手に「内閣」、左手に「国会」で双方コントロールし、支配している。〓〓
 「官僚主権」については、昨年4月26日付本ブログ「『四権』?国家」で述べた。年金記録問題をはじめとしてここ数年、国民は面恥(ツラハジ)のかかされ通しだ。「『霞ヶ関』に食らわる」のはよい加減にしたい。

【牛に引かれて善光寺参り】 たまたま他人に連れられて、ある場所に出向くこと。自らの意志からではなく、他人の誘いでよい方向に導かれること。
 昨年は『聖火に引かれて善光寺』の当てが外れた。去年4月、「善光寺が聖火リレーの出発地点を辞退、チベット問題に配慮」との見出しが各紙に載った。チベット問題ではなく、騒動、もしくはとばっちりを怖れての辞退であったろう。
〓〓「牛にひかれて善光寺」という。『聖火にひかれて善光寺 』とはいかなくなった。どころか、善光寺がチベット問題でひ(退)いてしまった。善光寺は何にひかれたのだろうか。〓〓
 昨年の「4月の出来事から」(08年5月5日付本ブログ)より、駄文を『引』いてみた。

【牛にも馬にも踏まれぬ】 子供が無事に成長することの喩え。
 ふたたび、養老節。
〓〓今ではマンションのような小さな共同体の管理も基本的には管理会社に任せます。住民が何かを一緒にやることはほとんどなくなっています。理事会で決めるのは管理会社に何をやらせるかということです。便利といえば便利。しかし手抜きだともいえます。現在の多くの社会的な問題というのはそういうことの集約です。 (中略) 手抜きの弊害がもっとも見られるのが教育です。人間がどうしてもせざるを得ないことのひとつが教育です。だから教育基本法をいじろうとか、会議で何とかしようとかしているのでしょう。しかし、国がかりで大勢集まって議論するよりも、自分が子どもの面倒をどれだけ見るかのほうが、よほど大切です。私は常々「問題なのは少子化じゃなくて少親化でしょう」と言っています。子どもが減ったのではなく、親になりたい人が減ってしまっただけのことです。要は手間をかけたがらない人が増えたということです。しかし手間を省いたら成り立たないことというものがあります。生き物の面倒をみることが典型です。子どもの教育が駄目になった根本はそこです。〓〓(新潮社 「養老訓」から)
 「手間を省いたら成り立たない」のは、「生き物の面倒をみること」である。これはズバリだ。「問題なのは少子化じゃなくて少親化」これも養老節の冴えだ。正鵠を射るとはこのことだ。

【牛の一散】 普段は決断の鈍い人でも、場合によっては急に逸(ハヤ)り進むことがある。【牛の籠抜け】 鈍感な者が素早くしようとすることの喩え。また、鈍重な者はものごとを行なうのに不手際であることの喩え。
 毎年7月、スペインで「牛追い祭り」がある。街中(マチナカ)に放った牛を、大勢で闘牛場まで追い立てる。ところが牛を取り囲む人たち、特に前方の人たちがいつの間にか牛に追われる羽目に。だから実態は『牛に追われ祭り』である。当然、ケガ人続出となる。いつもこの時期、テレビニュースでお目にかかるあれだ。
  …… 人間どもに寄って集(タカ)ってやいのやいのとせっつかれ一散し、人混みを軽業よろしく籠抜けしようと一目散。かわいそうだが、突いたり、撥ね飛ばしたり、蹴飛ばしたり。オイラだって、好きこのんで『モー進』しているわけじゃあない。御免なすって!  …… そんな図だ。視るだに奇っ怪である。

【牛の糞】(うしのくそ) ①牛の糞(ふん)は、表面は固そうに見えても内側が柔らかいことから、表面は剛直に見えるが、内側は柔らかい人。特に、女にとって油断のならない男のこと。②牛の糞が段々になっているところから、ものごとには順序や段階があるということの喩え。③ぐるぐる巻きに結った女性の髪形。
 なんとも初春には不相応なことばかもしれない。③にいたってはなおさらだ。たとえが悪すぎる。でも、おもしろい。① ②は日常の空間から消えて久しい。余程の田舎でも、路上にこれを発見するの至難だ。いまや「探検」の対象である。「油断のならない男」はいまだに散見するが …… 。

【牛の角を蜂が刺す】 角を蜂や蚊が刺しても牛は痛くも痒くも感じないように、ものごとに対してなんとも感じないこと。 
 「角」では、
【角を矯めて牛を殺す】もある。わずかな欠点を直そうとして、全体を駄目にしてしまうこと。
 同じ角でも、相当に意味合いがちがう。前者は「石地蔵に蜂」ともいうように、牛よりも蜂に主眼があるようだ。せっかくの伝家の宝刀もポイントを外すと何の効果もない。反対に急所であれば、絶大な威力を発揮する。その昔、『蟻の一刺し』で座を負われた某国の宰相がいた。20年も前の話だ。

【牛の寝た程】 金銭を大量に積み上げた様子。 
 現代版「風が吹けば桶屋が儲かる」はなしを紹介する。
〓〓変動相場制のもとでとうして財政政策が効かないか。財政政策をやるときには国債を発行して公共投資をするのが一番典型です。国債を発行して民間から資金を集めると、金利が高くなる。金利が高くなると為替は円高になる。金利が高くなって円高になると、公共投資をして内需を増やす一方で、円高になるから輸出が減る。そうすると公共投資の増が輸出減で相殺されちゃう。輸出減の一方で輸入が増えるということは、他国の輸出増になるわけでしょう。要するに公共投資の効果は他国の輸出増になっちゃうんです。というのを、マンデルとフレミングという二人の経済学者が編み出したので「マンデル・フレミング理論」という名前がついている。二十年以上、いろいろな風雪に耐えて、一九九九年にはノーベル賞もとった理論だから、実にしっかりした正しい理論です。ところが日本ではこの世界の常識が知られていないから、みんな景気対策というと財政出動でしょう。もちろん、理論的には、金融政策はパーフェクトに効いて、財政政策は全然効かないんだけれど、現実にはちょこっとは効きます。〓〓(高橋 洋一著「お国の経済」から)
 つまり、 《 公共投資 → 国債発行 → 金利高 → 円高 → 輸出減・輸入増 → 公共投資増が輸出減で相殺 》 という連関である。100年に一度の緊急事態とはいえ、再び国債発行が30兆を超える。まさに、牛の寝た程の国債だ。養老孟司氏によると、「金とは、それを使う権利」である。国債は、将来世代からその「権利」を奪い取ることだ。「金を稼ぐのに教養はいらないけれど、金を使うには教養がいる」これも養老氏の言だ。実に深い。
 29年の世界恐慌に対し、時の高橋是清蔵相は大規模な財政支出に打って出た。一時(イットキ)のカンフルにはなったものの、効果は限定的に終わった。あれから80年。「マンデル・フレミング理論」は空論ではないはずだ …… 。
 オバマの掲げる「グリーン・リカバリー」のような壮大な発想は、島国・日本では無理か。いや、知恵は無限だ。そう信じたい。

【牛は嘶き馬は吼え】 ものごとが逆さまでねらい通りにいかないことの喩え。
 今年中には、総選挙がある。国会の逆さまがどうなるか。いかさまでなければ、逆さまでもいいではないか。
 ほとんど触れられない逆さまがある。選ばれた責任は声高に語られるが、選んだ責任はほとんど不問に付されている有り様(ヨウ)だ。マスコミがそうだ。国民に向かい、「あなた方が選んだのだからしょうがないでしょ」とは言わない。中山某の失言は取り上げても、選んだ某県民のレベルは問われない。大向うに媚びることしか知らないマスコミは、ある種のいかさまではないか。
 先述の【牛にも馬にも踏まれぬ】で引用した「養老訓」の中で中略した部分をここで引用する。
〓〓本気で首長を選ばないから、あとになって「こんないいかげんな人とは思わなかった」となるのです。選ぶときに手抜きをしたツケです。〓〓

【牛は牛連れ】 類を同じくする者が相伴うことのたとえ。
 ところがわが家、「牛は豚連れ」である。旅は道連れ、世は情け。下にも置かず、座敷に上げて慈しんできた。ために、このごろは股擦れができるほどに栄養が行き届き、なんとも連れ回すのに骨が折れる。そのうち逆転して、「豚は牛連れ」にならぬよう、用心、用心。

【牛部屋の吹き矢】 牛部屋で吹き矢を吹き誤ると、牛が興奮して危険であることから、十分慎重に行動しなくてはならないことの喩え。
 昨年は病付きで開け、病み挙句で閉じた。病因は、暴飲、暴食、暴煙、それに暴言だ。ことしは牛の尻に矢が当たらぬよう、少飲、少食、『卒煙』、それに寡黙を旨とせねばなるまい。少飲、少食は続行中。卒煙は、いまのところ復学の予定なし。問題は四つ目。これはかなりきびしい。死ねというに近い。ならばこそ、『伽草子』で暴言、虚言、妄言を連ねるとするか。御一同様、どうぞお付き合いを。

【牛の涎】 だらだらと長く続くことの喩え。
 ふぅー、長い! 足掛け4年。本ブログのことだ。また、今回の拙稿でもある。正月早々、牛だらけでは胃がもたれる。モー、これぐらいにしておこう。

 おぉーと、申し遅れました。
 皆さま、新年明けましておめでとうございます。今年もご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。 □


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