伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

一億総バカ化?! 

2009年01月19日 | エッセー
 病膏肓に入るといっても強ち的外れではないだろう。何度も触れてきたが、また書く。 ―― 昨今のテレビ事情についてである。
 『一億総白痴化』は52年前の大宅壮一の名言だ。「紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと並んでいる」と評した。大宅がいまいれば何と言うだろう。悲しいかな第一、「白痴」自体が変な言葉狩りで消滅している。(そのことについては、06年12月11日付本ブログ「ドストエフスキーの白地??」で取り上げた)さしずめ、『一億総バカ化(か?!)』といったところか。当時はまだ走り始めたばかり。いまは、まさに大宅の言そのままの情況になっている。その慧眼に畏れ入る。
 テレビはメディアの牙城から退きつつある。前々稿「レイディオ宣言??」で述べた通りだ。日本でも合従連衡があるかもしれないし、気がついたらNHKだけという次第もなきにしもあらずだ。
 わけてもイシューはお笑いの跳梁跋扈だ。お笑い芸人の見境のない多用と、番組自体の節操のないお笑い化だ。前者にはコストダウンの経営的事情が背景にある。後者は茂木健一郎氏いうところの「『大衆というバケモノ』が野に放たれた」文化的貧困に起因する。

 カラオケにも通底するが、芸人への垣根が限りなく低くなっている。ほとんど芸と呼べない余興の類が全盛だ。ものまねのものまねまでがネタになる。お笑い芸人による ―― クイズ、ゲーム、ものまね、運動会、カラオケ、バラエティー・、ワイドショー出演、旅行・グルメのレポーター、裏話、楽屋落ち、お涙頂戴の苦労ばなし、与太ばなし、教養講座の聴講、果ては時事問題のコメンテーターまで、番組のほぼ全域をカバーしている。呆れ果てるのは、お笑い芸人の親まで駆り出しての乱痴気騒ぎ。親も親だ。受けねらいの芸もどきを得得と繰り出す。悪乗りも極まれりだ。もはや「舞台に上がる」という感覚ではなく、芸人も観客も同じフロアーにいる。しかも交じり合っている体(テイ)だ。それがそのままテレビ電波に乗る。
 芸そのものはどうか。いまや5分を越えるものは稀だ。「爆笑レッドカーペット」「エンタの神様」「お笑いメリーゴーランド」などなど、主要キー局のお笑い番組は軒並み1分前後の細切れ、数珠つなぎ。いきおい、あの手この手のギャグの連続、インパクト勝負、まともな芸などできるはずはなかろう。
 いただけないのは、お笑いくんのコメンテーター。アマルガムをねらっているのか、庶民の代表のつもりか。その道のアナリストに交じって、通り一遍の能書きをたれる。視聴者を馬鹿にするにもほどがある。報道番組ならば、それなりの作り方をしてほしい。決して奇を衒う必要などないのだ。
 籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。もとより職業に貴賎はない。しかし分(ブン)はあるはずだ。越俎の罪は荘子の誡めだ。お笑いくんに期待するのは世の有り様(ヨウ)を解説してもらうことでも、庶民の代表になってお上に物申していただくことでもない。芸で笑わせてほしいだけだ。世直しなら、お上を洒落のめす話芸こそが真骨頂のはずだ。それを報道・時事番組にまでしゃしゃり出たのでは生臭くていけない。場違い、筋違い、勘違いも甚だしい。ザ・パンチなら「頼むから死んで~」「来世は人間に生まれて来ないで~」とカマすところか。(付け加えると、こんな不穏当なフレーズがギャグになるまで事態はすすんでいる。わたしは嫌いでもないが……)
 それにトークが高じたのか、お笑い芸人たちの与太ばなしの類が隆盛だ。可笑しければそれでいいのか。二束三文の私生活を切り売りして食いつないでいるとしか聞こえない、見えない。あれは決して芸ではないだろう。芸人を名乗るなら芸で勝負せよ、といいたい。
 どれもこれも局側の安易な視聴率稼ぎのなせる業だ。概していえるのは、笑いが健全ではないこと。お笑いくんたちをモルモットか、おふざけの人身御供として酷使している。失態、醜態、奇態を見せて笑いを誘う。こんな嘲笑が健康な精神を育むだろうか。子どもたちに真っ当な精神風土を与えるだろうか。ニーズがあるから作るのだろうが、そんなスパイラルからは早々に脱したいものだ。

 もう一つ、番組のお笑い化。かつて紹介した(07年11月20日付本ブログ「千慮に一得」)茂木健一郎氏と波頭亮氏との対談「日本人の精神と資本主義の倫理」(幻冬舎新書)から引用する。
〓〓茂木 日本の貧困はテレビのタレントたちに対抗する軸がないことに尽きるわけで、「あんな連中どうでもいい!」と言う人がもっといてもよいし、そういう人がもっとビジブルでなければならない。
波頭 メディア論で知られるマーシャル・マクルーンが、今から五〇年ほど前に「テレビは恐ろしい」と言ったけれど、彼のいう恐ろしいことが恐ろしいままに起きてしまっているのが、いまの日本かもしれません。誰かが踏ん張っていないと民主主義が衆愚政治に成り下がってしまうのと同じように、レベルの高いものに対する敬意を誰かが抱き続けていかないと、分かりやすいものだけ正しいことになってしまいます。分かりにくいものの正しさやそれに対する敬意が社会から消失してしまうでしょう。
 今、日本のテレビではお笑い芸人が報道番組のキャスターをしたり、政治の批判までしているけれど、お笑い芸人は漫才で観客を笑わせるスキルに長けた人でしょう。欧米なら、そういう人物が政治の批判をしても、説得力を持ちません。料理や園芸で人気を集めた「カリスマ主婦」のマーサ・スチュワートがブッシュを批判したり、イラク戦争について発言したりするキャスターとしてテレビ番組をやることはたぶんありえない。ところが、日本では庶民感覚という錦の御旗を振りかざして、お笑い芸人やタレントさんが行政や政治家をこき下ろしている。この現象もどこかおかしい。〓〓
 民放に顕著なのは女子アナのタレント化。近ごろは男のアナウンサーまでもが便乗している。アナウンサーの失敗までがネタになって番組を構成する。おまけにNG賞まで決める。八百屋が不揃い野菜を売るのとは訳が違う。あちらは品質に変わりはないが、こちらは座興にもならぬ。色物、際物、半端物。こんなものしか売り物がないほどに貧困は極まっている。
 量産されるローレベルの笑いに対し、逆転現象も露骨だ。つまり作られたお仕着せの感動、無理やりのお涙頂戴である。だから「24時間マラソン」に駆り出された萩本欽一は、歩いてでも完『走』せざるを得なくなる。まことに珍妙な成り行きである。そういえば、15人(組)の歴代ランナーのうち8人(組)がお笑い芸人である。笑いと涙のシナジーであろうか、それほど高級な意図ではあるまい。意外性と話題性の、単なる視聴率稼ぎに過ぎまい。
 高(タカ)がテレビ、然(サ)れどテレビである。「高が」とは日常性であり、「然れど」とはその豪腕である。「テレビは恐ろしい」の依って来る原泉である。つまり大衆性だ。つねに大向うを相手にするテレビの宿命的生い立ちである。当然、外連は避けられない。外連の核心は「見せる」とういうことだ。
 汚職事件があって、拘置所に収容される。上空からヘリが撮る、バイクが併走して撮る。深夜のニュースでは、人気が消えた検察庁をバックに眩しいほどの照明の中でレポートする。すべては「見せる」ための外連だ。報道にとっての必然性はまったくない。「見える」のではない。「見せる」のである。有り体にいえば、「見える」ように「見せる」のだ。
 番組のお笑い化はバラエティーに際立つ。バラエティーの原義は多様性である。日本人が鍋物を好むがごとく、現今の主流である。というより、番組の多くがバラエティー仕立てになってきた。タレント、俳優、アナウンサー、アナリスト、知識人まで、すべての出演者がひとつの鍋で綯い交ぜになっていく。お笑い芸人も、もちろん混じる。味は、えぐいお笑い連のそれに引きずられる。安住アナのおかしみは、ごった煮鍋の中でギリギリ自らの味を守ろうとする具材、さしずめ絹ごし豆腐の自己主張にあるともいえる。( テレビの「豪腕」「大衆性」については、別に稿を起こすつもりだ。)
 16世紀、グレシャムは言った。 ―― 悪貨は良貨を駆逐する。同じ寸法の時間なのに『悪貨』ばかりが跋扈する。その愚をどう避けるか。ただいとつ、処方はある。視聴率だ。見なければいいのだ。昼のワイドショーが消えたように、見なければ淘汰される。生殺与奪の権はこちらにある。これを忘れてはなるまい。 □


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