伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

そして王者は、長城を越える。

2007年11月13日 | エッセー
 第三巻は大幅に遅れたものの、第四巻は予定通りの発刊だった。これで大河とも呼ぶべき長編小説は完結する。「蒼穹の昴」に始まり、「珍妃の井戸」を挟んで「中原の虹」と、全九巻が揃った。帯のコピーを借りれば、「浅田次郎の最高傑作、堂々完結!」である。
 さすがに今回は既刊の「あらすじ」付きだ。それほどに長い。「珍妃の井戸」があらすじから抜けているのは、番外編、寄り道の扱いなのであろうか。「蒼穹の昴」ダイジェストの役割も併せもっていたので、そうかもしれない。
 大団円は、私の予想に反した。展開ではなく、時期だ。文字通り中原に虹が掛かった刹那、物語は終焉を迎える。宜なる哉。題名から考えても、そうだ。

 この長編は大清の末期を舞台にした歴史小説である。歴史を知る意味とはなにか。
 文中から引く。

  
「よいかね、潔珊。生きとし生くる者みなすべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。何となれば、いついかなる時代に生くる者も、みな歴史上の一人にちがいないからである。では、いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代、父祖の時代を正確に知らねば、おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。幸福をおのが天恵とのみ信ずるは罪である。罪にはやがて罰が下る。おのが不幸を嘆くばかりもまた罪である。さように愚かなる者は、不幸を覆すことができぬ。わかるかね、潔珊。しからば私は、この老骨に鞭ってでも、能う限りの正しい歴史を後世の学者たちに遺さねばなるまい。人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように。人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることの叶うように」(「中原の虹」第四巻 九十一)


 極めて澄明な論旨だ。異論を挟む隙はない。難題は「なるべく正しく、なるべく深く。」である。第三巻で、氏はこの作品を「冒険小説」と呼んだ。「冒険」の意味をわたしは次のように考えた。
 ~~だから、ぼくは、こうかんがえたのです。チュンル(春児)が、びんぼうのどんぞこからみをおこし、かんがんとなり、しゅっせし、シータイホウ(西太后)をささえ、そして、しんおうちょうのさいごをみとる。そのじんせいそのものが、「ぼうけん」なのかな、と。でも、それも、ちょっとちがうなー。
 そんなことを、うっすらとかんがえながら、よんでいくうちに、つぎのいっせつに、めがとまったのです。

 春児はあわてて表情を繕った。できることならすべての人に、真実を打ちあけたい。太后が悪女でもなく、鬼女でもなく、みずから進んで人柱となったことを。だが太后との約束を果たしおえたあとでなければ、けっして口外してはならなかった。それはおそらく何十年もののち、遥かな未来にちがいないが。(「中原の虹」第三巻 第六章 七十)

 ひょっとしたら、「ぼうけん」って、このことかもしれない。そう、ひらめいたのです。もちろん、ぼくのかってなかんじかただし、ぼくりゅうのこじつけだし、「どくだんとへんけん」ってやつですが……。
 つまり、シータイホウは、くにをかたむけた「あくじょ」であるといわれてきた「ていせつ」へのちょうせんです。れきしのほんには、シータイホウは「ちゅうごくの3だいあくじょ」のひとりだとかいてありました。けんりょくにしがみついて、たみくさをぎせいにし、せんそうにまけて、ずるずるとがいこくのいいのままになった。だから、しんちょうをほろぼしてしまった、と。
 それを、ひっくりかえして、ちゅうか、おくまんのたみのため、れきしのぜんしんにそぐわなくなったおうちょうのまくをひく ―― だいあくにんを、とびきりのいじんにする。これは、ものすげーぼうけんですよね。~~ (本年5月23日付け本ブログ「「ちゅうげんのにじ」だい3かんをよんで」)
 通途の歴史解釈、歴史的常識に大きなアンチテーゼを投げかけること。それを「冒険」と捉えた。そのためには、小説という器は最適だ。氏はこう語る。


 学者は真実を追究しなければならない。しかし小説家は嘘をつくことが仕事である。つまりあらぬ推理をこうして文字にするのは小説家の特権で、しみじみまじめに勉強してこなくてよかった、と思う。 (小学館「つばさよ つばさ」から)


 もちろん、「不勉強」は韜晦である。「嘘」は、さらに極上の韜晦である。嘘つきが自ら名乗る筈はない。虚構という擦り切れた言葉を避けて、ひと括りに解りやすく表現すれば、「嘘」となる。浅田ワールドの呼吸のひとつだ。歴史を「正しく、深く」知るために、氏は嘘をついた。未踏の地への「冒険」を挑んだ。全九巻は、その冒険譚である。
 冒険心の源泉はなにか …… 。釘付けになった一節がある。


 日本は中国の文化を母として育った。だからご恩返しをしなければいけない。清国が病み衰え、人々が困苦にあえいでいる今がそのときだ。けっして列強に伍して植民地主義に走ってはならない。それは子が親を打つほどの不孝であるから。(「中原の虹」第四巻 七十七)


 同じ文意の件(クダリ)が他にもある。この豁然たる心根が氏のものであってみれば、浅田次郎という作家は徒者ではない。群集(グンジュウ)の筆に屹立する。
 栄枯盛衰は世の習いである。盛者必衰は時の定めである。「滅び」にどう向き合うか。この作品は滅びゆく側が舞台である。西太后を主役に定めた意味はそこにある。
 まずは、滅びの自覚なき者がいる。世の大半、大勢である。これは捨て置こう。
 次には、滅びを見切る者。これも大半を占める。踵を返し、唯々として新興に乗り換える。
 または、滅びを知り、抗う者。所謂、守旧である。アンシャン・レジームへの固執が極まり、ついに命脈を共にする者もいる。
 そして、みずから幕を引き、密やかに次代に備え、舞台を委ねる者。わが身を時代に奉じ、悪人と呼ばれ、怯懦と罵られる者。しかし、時代が一番見えているのは彼らだ。
 この四通りが滅びの切所に見せる、滅びの側の態様である。作者は当然、西太后を四番目に配した。
 日本でいえば、徳川慶喜か。大政奉還の報に、坂本龍馬は嗚咽する。「よくぞ、御決意なされたものよ」と。倒す者と倒される者。居所は彼岸と此岸に違(タガ)えようとも、両者はしっかりと時代を手挟(タバサ)んでいる。相見(マミ)ゆることの一度(ヒトタビ)すらなくとも、憂国の念に些かも変わりはない。龍馬の慧眼は怯懦と罵られる者の真正の勇気を粛然と見取っていたのだ。
 さらに、作者の剛腕は袁世凱までもこの枠に押し込めようとする。


 今さら真実を選り出せぬくらい、西太后の人生は偉大だった。
 彼女はこの病み爛れた世界の、たったひとつの正義だった。そしてその宝石のような正義すらも、革命の祭壇のいけにえとして捧げてしまった。(中略)
 正義。何という残酷な言葉だろう。正義なき時代にそれを全うしようとすれば、人は悪女となり、落人となるほかはない。(「中原の虹」第四巻 第七章 八十一)

 すべてのしがらみから解き放たれて、陽光の降り注ぐ常夏の島で余生を過ごす。それもひとつの夢にはちがいないが、袁はもっと理想とする大きな夢があった。
 あの西太后が立派に演じた醜悪な王よりも、もっと悪辣な、もっと醜い、万民が不倶戴天の敵と信ずる皇帝を演じたかった。
 ただひとつの目的のために。龍玉を握る関外のつわものが、東北の大地に安住することを潔しとせず、ついに起義を誓って長城を越え、天命なき皇帝になりかわって中原の覇者となる日を、一日も早く招来せしめんがために。(「中原の虹」第四巻 第七章 百二)


 「関外のつわもの」とは張作霖を指す。この辺りの袁との絡み、展開は史実的論証に危うい。「嘘」のひとつかもしれない。張にしたところが、かなり捨象された部分がある。だが歴史の深い冒険譚であってみれば、踏破こそが至上命題だ。一気に飛び越えねばならぬクレバスもあろう。予期せぬブリザードに進路の変更を強いられもする。無事の帰還が最優先だ。でなければ、「話」が聞けぬではないか。
 「蒼穹の昴」以来あちこちに敷かれた伏線は、この巻でことごとく糾われる。終わりを急いだ気味はあるが、大団円は長途の羇旅にふさわしい見事な描写だ。作者畢生の傑作に間違いない。

 帯のコピーには、「そして王者は、長城を越える。」とある。いま、長城を越えた作者の征く手にも鮮やかな虹が掛かっていると信ずる。□


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆