伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ことしも干支、えーと??

2007年11月08日 | エッセー
 毎年この時季は頭が痛い。身体も重い。気も重い。といっても、風邪ではない。夏以外は断乎としてひかない。そのような『フールの大道』を歩み通してきた。有り体にいえば、バカの端くれである。いや、立派なバカである。そのバカがカバになるほど身悶えして、ない知恵を絞るのがこの時季なのだ。愚者も千慮に一得有り。とても千慮は叶わぬ。百慮で半得、それでいい。しかし、それも儘ならぬ。
 年賀状は干支に因んでつくる。因んだ人物か、誰かに干支を語らせるか。これが思案のしどころなのである。この約旬年、傍目にはバカバカしい呻吟を自らに課して、堂々、本年に至った。

 さて、「子年」である。十二支の初年でもある。まずは、ことわざだ。
「窮鼠猫を噛む」これは有名だ。しかし、年賀の挨拶としては穏当を欠くだろう。
「大山鳴動、ねずみ一匹」これもしかり。稔りの薄い一年を予感させて、使えない。
「鼠の尾まで錐(キリ)の鞘」相手をネズミの尾っぽにしては失礼だ。
「二鼠藤を噛む」真実ではあっても明るくない。
「鼠が塩をひく」「家に鼠、国に盗人」「鼠壁を忘る、壁鼠を忘れず」いずれも暗い。それこそ「袋の鼠」にでもなりそうだ。初春には向かない。
「時にあえば、ねずみも虎になる」これはいいかもしれない。新年に掛ける意気込みとして悪くない。しかし、相手をか弱いねずみに擬しているようで、礼を失する。
 ネズミさんには悪いが、ねずみに纏わることわざはどうにもうまくなさそうだ。

 「鼠算」はどうだろう。ただ「鼠算式に」などとは使うものの、鼠算そのものを忘れてしまった。幾何級数的な増殖を譬える。縁起はよさそうだが、その「幾何級数」にしたところが、「等比数列の各項をプラス記号で結んだもの」との説明を読んでもまったく料簡がいかない。第一、「等比数列」とは何だ。ああ、『カバ』になりそうだ。といって、数学が苦手なわけではない。体質に合わないだけである。したがって、できない。それに「ネズミ講」を連想させて、これも具合が悪い。

 字源はいかがであろう。いろいろ調べてはみたものの、「子」とねずみが結び付かない。どなたか、お教えいただければありがたい。
 かつて友達の家を訪ねた折、表札の「一子」を母上と取り違えて失笑を買ったことがある。それは父上の名であった。「かずね」と読む。つまり、子年の「子」である。元は男子の敬称として使われたらしい。「孔子」はその一例だ。
 夜行性ゆえに、人間が寝ている間(マ)に食い物を盗む。「寝盗(ねす)み」もしくは「盗(ぬす)み」の転で「ねずみ」になったというのは面白い。しかしこれも賀状には不向きだ。
 ネズミの集団自殺は有名だが、まさか年賀状に取り上げるわけにはいくまい。第一、それには異説や疑問符が付く。学説としては不確定だ。
 
 やはり、ねずみとくれば「鼠小僧次郎吉」。これしかあるまい。
 江戸の後期、化政時代。幕末まで約半世紀前後だ。実在の盗賊である。大名屋敷を専門に狙い、上がりを貧しき民草に分け与えた。「義賊」である。38歳の時、ついに捕縛され晒し首に処せられるが、「お仕事」の総数は100箇所近くで、120件を超える。半端ではない。
 だが、「義賊」は伝説に類(タグイ)するらしい。お上の必死の捜索にもかかわらず、盗まれた金銭が出てこない。次郎吉の暮らし向きは質素。では、金はどこに。と、この辺りが伝説の出所となった。本当のところはノむ、ウつ、カうであったそうだ。
 しかし、伝説といえども忽然(コツネン)と天下るものではあるまい。それなりの訳がある。まず、大名屋敷という権力の象徴に単騎で挑んだこと。反権力のヒーローは民草の望むところだ。町家に金はなく、商家は大枚を抱え込むだけに用心に怠りはない。疲弊して警備が薄く、それでも小金は持っていた大名屋敷こそ狙い目だったというのが実情のようだ。さらに体面上、「盗まれました」とは言いづらい。
 時代は文化・文政。「寛政の改革」が頓挫し、締め付けが緩む。化政文化、町人文化の興隆期だ。派手な錦絵が好まれ、滑稽な読み物が重用され、庶民は川柳で権威を洒落のめした。元禄文化とはちがい、舞台は江戸に移っている。次郎吉が獄門となった天保3年(1832)に「天保の大飢饉」、続く同8年「大塩平八郎の乱」、そして幕末の動乱へと時代は動き始める。牢乎たる支配の構図に翳りが見え始め、底辺に風が吹き込み始めた。そのような世を背に負うて「義賊・鼠小僧」は誕生した。
 「義賊」とは、富貴から金品を掠め貧民に施す盗賊、義侠の賊をいう。モーリス・ルブランの小説に登場する「アルセーヌ・ルパン」もその一人だ。また、後代の脚色が義賊に格上げしたようだが、石川五右衛門も忘れてはいけない。「怪盗」という場合、神出鬼没にして正体不明の盗賊を指す。義侠の介在はない。その分、『格』が落ちる。
 それにしても、「義賊」とは奇妙な言葉だ。正義と不正、善と悪、表と裏、徳行と背徳、矛盾の結合である。アンビバレンスの渦だ。義が賊に堕ちるのでも、賊が義を装うわけでもない。弁証法的概念ではない。春秋の筆法で今風に置き換えると、『原理主義的・自爆的』格差解消法、またはセーフティーネットの『英雄主義的・確信犯的』妄動とでも呼ぼうか。あるいは、無償の「必殺シリーズ ― 必殺仕事人」か。だが、中村主水は義賊とはいえない。有償では「義」に悖るからだ。
 余談だが、久々にパチンコのCMに登場した仕事人・主水。キャッチコピーは「仕事が終わったら、仕事だぜ」 これは、うまい! ワーカーホリックの日本にぴったりだ。

 話を戻そう。干支である。千慮は無理だが、どうやら半得は掴んだ。あと半分だ。まだ猶予はある。もう少しの思案だ。なににせよ、子年が来る。『義賊の年』である。
 「次郎きっつぁん。後生だ、おれんちにも金子(キンス)を投げ込んじゃーくれめーか」 □


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