伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

誰だ、それは?

2007年02月01日 | エッセー
 言葉尻を捉えているのではない。どうも据わりがおかしいのだ。曰く、「国民の皆さん」である。今年は7月に向けてうんざりするほど聞かされる。
 この常套句、おかしくもあり意味深くもある。お使いになる方々は、おそらく何の違和感もおもちではないのだろうが……。
 分解すると、「国民」と格助詞「の」、それに「皆さん」である。この格助詞は【所有】(例「兄の家」)や【所属】(例「彼の責任」)ではあるまい。【動作の対象】(例「旅行の相談」)も【……に関する】(例「数学の本」)もちがう。【指定の陳述】(例「五十歳の男」)が妥当か。
 とすると、「国民である皆さん」となる。さらに、「皆さんの中で国民である人たち」は穿ち過ぎか。 ―― 裏返せば、「国民ではない皆さん」も存在することになる。
 事典によれば、国民とは「国籍を有し一定の権利義務を持つ者。民族・種族に対して、統一的な政治組織を共有する者の集団。国家意志の遂行に協力する者」と定義される。となると当然、「国籍を有し」ていなければ「国民ではない皆さん」になる。が、はたしてそうか。
 「国籍を有し」ないのに「一定の義務」が課され、「統一的な政治組織を共有」し、かつ「国家意志の遂行に協力」させられるのに、「一定の権利」を持たない「国民ではない皆さん」がいる。歴史の波に翻弄され、この国で生き続けねばならなかった人びとだ。「国民の皆さん」は、この「国民ではない皆さん」を常に捨象していることになる。巧んで言うか、巧まずして言うか。置き去りにしていい問題ではなかろう。このまま跛行を続けるのか、この国の『美しさ』が問われる。
 さて、その「国民」である。東大大学院教授の姜 尚中氏は「愛国の作法」(朝日新書)の中でこう述べる。

  ~~ 美しい風土、美しい言語、美しい文化の共同体が、そのまま国民になるわけではありません。そのためには、一定の政治的意志をもって国家を形成し、その憲法体制を通じて国民の共通の課題や利益(公共の福祉)の達成を図ろうとする国民に「なる」必要があるのです。それは、社会契約論にみられるように、一定の作為(フィクション)による政治的空間の形成を不可欠としています。 ~~
 
 「皆さん」が「そのまま国民になるわけでは」ない。「一定の作為による政治的空間」の中で、まさに「なる」のだ。この辺りの事情は歴史に学ぶに如(シ)くはない。
 幕末、ひとり勝海舟のみが「国民国家」を構想した。それなくして列強の進攻を食い止める術はない、との危機意識からだ。国家の統一と国民の創出。勝の畢生の事業となった。
 司馬遼太郎は言う。

  ~~ 国民国家というのは、国民一人ひとりが国家を代表していることを言います。家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々で構成されている国家を言うのです。(朝日文庫「司馬遼太郎 全講演」より) ~~

 学者の語り口と作家のそれとはかくも違うものか。口ぶりはちがっても言わんとするところは同じだ。「国民」は人為である、ということだ。明治維新の直前、イタリアが統一された時、政治家マッシモ・ダゼリオは奇しくも言った。「イタリアはできた。今度はイタリア人をつくらなければならない」。そして民族主義運動に火が付く。フランスは革命の後、傭兵制に代えて「国民軍」をつくることで国民国家への道を開いた。日本は維新後、徴兵制を敷き西南の役で官軍にこれを当てる。皆兵制が「国民」を産むことになる。事情は同じだ。よくも悪くも、人為の極みに「国民」は誕生した。次のフェーズにいけるのかどうか。EUは世紀のトライアルだ。
 話柄を転じよう。「国民の意見」についてである。赤絨毯の館では慣用句だ。「国民」は先述した。この格助詞は【所有】であろう。問題は「意見」である。
 ひとつは、選挙だ。「国民の意見」はそこに集約される。しかし、投票率の難関がある。棄権はどう捉えるのか。積極的棄権は一つの意見表明ではないのか。ノイジー・マイノリティー がサイレント・マジョリティを駆逐する場合もある。「郵政選挙」のようにバイアスのかかった仕掛けもある。まず、ここは欠陥を抱えたシステムであると押さえておきたい。「民衆は選挙の間だけは主人だが、あとは奴隷である」とのルソーの嘆きは今も重い。
 では、世論調査か。どう検証するのかは判然としないが、最近はその精度が格段に上がっているという。そのためか、各メディアとも大同小異の結果が出る。では、これこそが「国民の意見」なのか。アンケートと同じく、問いかけ次第で回答は変わる。虚構性がつきまとう。代議制との関わりはどう捉えるのか。易きに流れるのは世の習いだ。当然、ポピュリズムの陥穽もある。ともすれば、世論と正論はアンビヴァレンツになりがちだ。世論に阿(オモネ)れば無責任の誹りが待つ。正論への固執は足元を崩す。拮抗する壁に事は膠着する。かつての「臨調」はその壁を破ろうとしたものだ。前政権からの「経済財政諮問会議」もその亜種だ。さらには遥か、「哲人政治」を志向する識者もいる。タウンミーティングのヤラセも、タウンミーティングそのものの虚構性がまずあることを忘れてはならない。
 三番目には、代議制だ。議員そのものが「国民の意見」であるとのスタンスだ。「選良」を前提とするにしても、最大のアポリアはその選び方である。試行と錯誤は果てしなく繰り返されるにちがいない。
 あるいは、議員にとって支持者こそが「国民の意見」か。ひょっとすれば、これこそが有り体かもしれない。となると、国政は「後援会」に限りなく矮小化されていくのか。これでは、話は振り出しに戻ることになる。
 民主主義とその制度。一皮めくれば穴だらけなのだ。最善でも、最高でもない。ならば、どうする。ほどほどのところで折り合いをつけるしかないではないか。うまくいっても次善でしかないと、肚を括るほかない。とりあえずのよし、で進むしかない。幻想は捨てるべきだ。民主と衆愚は背中合わせだ。ソクラテスを死に追いやったのはアテナイの陶片政治だった。自由は放埒に流れ、平等は悪平等に、人権は独善に堕しやすい。
 「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています」政治学者・丸山眞男の言葉だ。西洋には「結局、国民はそのレベルに合った政治しか持てない」という格言がある。ならば、件(クダン)の方々が「国民」と仰せになった時、「誰だ、それは?」と問い返そうではないか。□