団塊の世代には記憶にあるだろう。NHKの連ドラ「おはなはん」。第17回芸術祭奨励賞を受章し、樫山文枝を一躍スターダムに押し上げた。昭和41年、奇しくもちょうど41年前のことになる。男勝りのお転婆が明治・昭和をまっすぐに駆け抜ける。まだまだ右肩上がりだった時代相ともマッチして随分と人気を博した。
残念ながら、未だ『女勝り』という言葉はない。もう数十年、いやもう数年は要する。いやはやどうにも、また、してやられたのだ。このミュージシャン、男勝りといわずしてなんと言おう。本ブログの9月30日付「秋、祭りのあと」でも触れた。だが、このままにしておくわけにはいかなくなった。昨年11月にリリースされた「宙船(そらふね)」の勢いが止まらない。瞬く間にヒットチャートを駆け昇ってしまった。
大晦日には、禁を犯して紅白のTOKIOを観た。長瀬が熱唱し、演奏もそつなくこなしているのだが、やはり御大の凄みはない。悲しいくらい、ない。彼らに『女勝り』を期待するのが、どだい無理か。家元を超えるのは並や大抵ではない。サビで、御大は拓郎の『怒鳴り節』よろしくシャウトする。終(ツイ)ぞ聴いたことのない歌いっぷりだ。これが凄みの一つではあるのだが、圧倒的なのは歌詞だ。『永遠の嘘をついてくれ』で痛打を食らったのだが、今度は足にきそうなカウンターブローだ。
その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ
お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな (「宙船」から)
これは団塊への叱咤と激励にちがいない。2007年問題への一つの回答でもあろうか。小癪というか、小憎いというか。『男の一分』も危うい今時の男どもに、ここまで啖呵が切れるだろうか。よくぞ言ってくれるものよ。団塊の同士諸兄、意気に感じよ。もう一度、オールを手挟(タバサ)め。断じて離すな。潰れて堅くなった手肉刺(マメ)の上に新しい手肉刺をこさえようではないか。その疼きはきっと新鮮なはずだ。
昭和45年、スチューデントパワーの嵐の中で吉田拓郎は叫んだ。
古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ
新しい海のこわさを (「イメージの詩」から)
この曲のなかで鬨の声が挙がったところだ。『オール』の奪取を宣言した瞬間だった。日ならずして『オール』を手にした一団が、いまそれを手放す時節(トキ)を迎えようとしている。『新しい水夫』に坐を譲るのか。それでいいのか。 ―― 「宙船」は遙かに時を超えたアンサーソングではないか。とすれば、御大、なかなか味なことをしてくれたものだ。ただ、合点(ガテン)はいっても納得がいかぬ。『団塊の一分』が納得しないのだ。
昨年暮れのコンサートで、拓郎は『つま恋』の裏話を披露した。「リハで、50センチの距離で素っぴんの彼女を見た。…… いよいよ、本番で彼女が登場する。ぼくはたまらず叫んだ。『あいつは誰だ!』」宜(ムベ)なる哉(カナ)、ことし、五十路半ばに達する。 ―― いや、これは筆が滑った。お詫びの上、訂正しない。してみると、御大も団塊ネクスト。半分、納得できようというものだ。
あとの半分はどうする。カウンターブローがまだ効いている。このままでは『団塊の一分』が立たぬではないか。
いかに男勝りとはいえ、おはなはんは女の一生を歩む。勝りつつも女に徹した。しかし、御大・中島みゆきはどうも事情が違う。ひょっとして、御大のなかには『おとこ』が棲んでいるのではないか。あとの半分の納得を得るため、こんな括(クク)り方をするのは失礼千万。それは承知の上だ。勿論、『女勝り』の秀作、絶品も数多ある。しかし、こんな『おとこ唄』を創造できる才能とは異質であるに相違ない。こうでも括らねば、『男の一分』が立たぬではないか……。□
残念ながら、未だ『女勝り』という言葉はない。もう数十年、いやもう数年は要する。いやはやどうにも、また、してやられたのだ。このミュージシャン、男勝りといわずしてなんと言おう。本ブログの9月30日付「秋、祭りのあと」でも触れた。だが、このままにしておくわけにはいかなくなった。昨年11月にリリースされた「宙船(そらふね)」の勢いが止まらない。瞬く間にヒットチャートを駆け昇ってしまった。
大晦日には、禁を犯して紅白のTOKIOを観た。長瀬が熱唱し、演奏もそつなくこなしているのだが、やはり御大の凄みはない。悲しいくらい、ない。彼らに『女勝り』を期待するのが、どだい無理か。家元を超えるのは並や大抵ではない。サビで、御大は拓郎の『怒鳴り節』よろしくシャウトする。終(ツイ)ぞ聴いたことのない歌いっぷりだ。これが凄みの一つではあるのだが、圧倒的なのは歌詞だ。『永遠の嘘をついてくれ』で痛打を食らったのだが、今度は足にきそうなカウンターブローだ。
その船を漕いでゆけ お前の手で漕いでゆけ
お前が消えて喜ぶ者に お前のオールをまかせるな (「宙船」から)
これは団塊への叱咤と激励にちがいない。2007年問題への一つの回答でもあろうか。小癪というか、小憎いというか。『男の一分』も危うい今時の男どもに、ここまで啖呵が切れるだろうか。よくぞ言ってくれるものよ。団塊の同士諸兄、意気に感じよ。もう一度、オールを手挟(タバサ)め。断じて離すな。潰れて堅くなった手肉刺(マメ)の上に新しい手肉刺をこさえようではないか。その疼きはきっと新鮮なはずだ。
昭和45年、スチューデントパワーの嵐の中で吉田拓郎は叫んだ。
古い船には新しい水夫が
乗り込んで行くだろう
古い船をいま 動かせるのは
古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も 新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ
新しい海のこわさを (「イメージの詩」から)
この曲のなかで鬨の声が挙がったところだ。『オール』の奪取を宣言した瞬間だった。日ならずして『オール』を手にした一団が、いまそれを手放す時節(トキ)を迎えようとしている。『新しい水夫』に坐を譲るのか。それでいいのか。 ―― 「宙船」は遙かに時を超えたアンサーソングではないか。とすれば、御大、なかなか味なことをしてくれたものだ。ただ、合点(ガテン)はいっても納得がいかぬ。『団塊の一分』が納得しないのだ。
昨年暮れのコンサートで、拓郎は『つま恋』の裏話を披露した。「リハで、50センチの距離で素っぴんの彼女を見た。…… いよいよ、本番で彼女が登場する。ぼくはたまらず叫んだ。『あいつは誰だ!』」宜(ムベ)なる哉(カナ)、ことし、五十路半ばに達する。 ―― いや、これは筆が滑った。お詫びの上、訂正しない。してみると、御大も団塊ネクスト。半分、納得できようというものだ。
あとの半分はどうする。カウンターブローがまだ効いている。このままでは『団塊の一分』が立たぬではないか。
いかに男勝りとはいえ、おはなはんは女の一生を歩む。勝りつつも女に徹した。しかし、御大・中島みゆきはどうも事情が違う。ひょっとして、御大のなかには『おとこ』が棲んでいるのではないか。あとの半分の納得を得るため、こんな括(クク)り方をするのは失礼千万。それは承知の上だ。勿論、『女勝り』の秀作、絶品も数多ある。しかし、こんな『おとこ唄』を創造できる才能とは異質であるに相違ない。こうでも括らねば、『男の一分』が立たぬではないか……。□