初春の13日、朝日新聞オピニオンの欄にキレ味鋭い投稿が載った。「笑点」でお馴染みの落語芸術協会会長・桂 歌丸氏である。以下、抜粋。
■ お笑いブーム ―― 透けて見える世の危うさ 桂 歌丸(落語芸術協会会長)
このお正月の寄席は連日満員の盛況でした。お笑いも大ブームです。テレビはお笑いタレント総動員で、テンポの速い漫才やコントで、それこそ笑いっぱなしにさせてくれる。
でも、どうでしょう、私は見ててくたびれちゃう。見た後に何も残らない。そして、聴いた後ジーンとくる、ほのぼのとする、そんなものが欲しくなる。寄席の盛況は皆さんのそんな気持ちの表れじゃないか。となると、落語ブームも、ただ喜んでばかりはいられないのかもしれません。ギスギスした世の中の反動じゃないかとも思うんです。
余裕のない、シャレの通じない世の中になってきました。去年を振り返っても、悲しいことや腹立たしいことがありすぎて、一つ一つあげられないくらい。
大体、政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。自民党の方がまだ表情に余裕がある。外国の政治家は必ず冗談を言います。笑わせること、人を楽しませることを大事にしてる。日本でやったら「不謹慎だ」って言われるでしょうが、政治家にもユーモアや人間味が欲しいですね。吉田茂、福田赳夫、大平正芳。みんな落語好きでした。今はいません。後援会の方々は時々団体で寄席に来るけれど、政治家本人は来ない。オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。
結局、大事なのはコミュニケーションなんです。落語は1人で演じますが、登場人物の会話で話が進みます。お客の顔を見ながら、反応を見ながらします。コミュニケーションの芸なんです。一方、漫才はぶつ切りの笑いを連続するだけで、最後のせりふは必ず「もうええわ」でしょ。コミュニケーションを断ち切ってしまう。議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なことじゃないですかねえ。笑いに限った話ではありませんよ。
一読して唸ってしまった。キレ味、抜群だ。そこいらの評論家なぞ顔色なしだ。
「見ててくたびれちゃう」とは、流行(ハヤリ)の言葉でいえば笑いに『品格』がないことも一因ではないか。品格の一つが『知的な香り』だとすると、タモリが『ボキャテン』、『トリビア』、『ジャポニカ』とウィングを広げるのはこの辺りが狙いか。タモリほどの芸人が、いまどきのお笑い事情に唯々諾々と身を委ねている筈がない。
落語ブームを「ギスギスした世の中の反動」と見るのは決して手前味噌ではないだろう。もともと政治ネタが十八番(オハコ)の噺家である。いわゆる「洒落のめす」のはお得意だ。『大喜利』の回答者時代、何度も絶品に快哉を叫んだものだ。
報道によると、民主党の党大会で例のテレビCMに大変なブーイングが起こったそうだ。以下、毎日新聞の記事。
―― CMは嵐の海を行く帆船でかじを取っていた小沢一郎代表が突風で飛ばされて倒れ、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長が脇から支える内容。同日の常任幹事会で「地元で大変不評だ。どういうコンセプトなのか」(平岡秀夫衆院議員)などの批判が出たほか、党大会では「小沢氏の昨年の入院騒ぎを思い出しヒヤッとした」(中野寛成前衆院副議長)との指摘も。(1月16日付)
「政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。」とは、言い得て妙だ。まさかアゲインストに吹っ飛ばされて笑っているわけにもいくまい。「コンセプト」ではなく、スクリプトがよくないのだ。どこの脚本家かは知らぬが、スクリプトが正直すぎたようだ。でも正直の頭に神宿るともいうし、難しいところではある。
吉田茂とくれば、「あなたは何を食べて生きているのですか?」との質問に「わしゃ、人を食って生きとるよ」がすぐに浮かぶ。これほど「人を食った」返答はない。名言・迷言には事欠かない名宰相であった。福田赳夫、「天の声も時々変な声がある」。総裁選で予想外の敗北を喫した時のことだ。同じ『天の声』でも知事のそれはいただけない。大平正芳、これはもう極めつき。「あー、うー」である。「声なき声」の元祖か。巧まざるユーモアからして、このお三方が落語ファンであったとは十分頷ける。
「オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。」とはオオイズミ君のことであろう。もっとももはや、『どこへ』『いつ』行こうとも文句を言われる筋合いはなくなったのだが。
続いての落語と漫才の対比。「もうええわ」はコミュニケーションの断絶であるとの切り込みには唸る。意表を突かれ、かつ納得である。何事によらず、断絶は悪に通ずる。「議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なこと」とはひとつの警抜な文化論だ。
養老孟司氏は、「コミュニケーションの基礎になっているのは、それぞれの脳が出している表現です。その表現の典型的なものが言葉です。人間はこういう大きな脳を持つことになって何をしたかというと、まず社会をつくりました。その社会の中ではコミュニケーションがどうしても必要で、それが脳と脳を繋いでいる」と述べる。(大和書房「まともバカ」より) 若干の差はあるものの、平均1350グラムの脳と脳を繋ぐのがコミュニケーションである。これが切れると、人の世が立ち行かなくなるのは道理だ。「切れ」やすい人間が増えているのはその兆候かも知れない。
師匠のはなしは実にキレる。無類のビール党であるわたしに言わしめれば、『スーパードライ』よりキレ味鮮やかだ。□
■ お笑いブーム ―― 透けて見える世の危うさ 桂 歌丸(落語芸術協会会長)
このお正月の寄席は連日満員の盛況でした。お笑いも大ブームです。テレビはお笑いタレント総動員で、テンポの速い漫才やコントで、それこそ笑いっぱなしにさせてくれる。
でも、どうでしょう、私は見ててくたびれちゃう。見た後に何も残らない。そして、聴いた後ジーンとくる、ほのぼのとする、そんなものが欲しくなる。寄席の盛況は皆さんのそんな気持ちの表れじゃないか。となると、落語ブームも、ただ喜んでばかりはいられないのかもしれません。ギスギスした世の中の反動じゃないかとも思うんです。
余裕のない、シャレの通じない世の中になってきました。去年を振り返っても、悲しいことや腹立たしいことがありすぎて、一つ一つあげられないくらい。
大体、政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。自民党の方がまだ表情に余裕がある。外国の政治家は必ず冗談を言います。笑わせること、人を楽しませることを大事にしてる。日本でやったら「不謹慎だ」って言われるでしょうが、政治家にもユーモアや人間味が欲しいですね。吉田茂、福田赳夫、大平正芳。みんな落語好きでした。今はいません。後援会の方々は時々団体で寄席に来るけれど、政治家本人は来ない。オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。
結局、大事なのはコミュニケーションなんです。落語は1人で演じますが、登場人物の会話で話が進みます。お客の顔を見ながら、反応を見ながらします。コミュニケーションの芸なんです。一方、漫才はぶつ切りの笑いを連続するだけで、最後のせりふは必ず「もうええわ」でしょ。コミュニケーションを断ち切ってしまう。議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なことじゃないですかねえ。笑いに限った話ではありませんよ。
一読して唸ってしまった。キレ味、抜群だ。そこいらの評論家なぞ顔色なしだ。
「見ててくたびれちゃう」とは、流行(ハヤリ)の言葉でいえば笑いに『品格』がないことも一因ではないか。品格の一つが『知的な香り』だとすると、タモリが『ボキャテン』、『トリビア』、『ジャポニカ』とウィングを広げるのはこの辺りが狙いか。タモリほどの芸人が、いまどきのお笑い事情に唯々諾々と身を委ねている筈がない。
落語ブームを「ギスギスした世の中の反動」と見るのは決して手前味噌ではないだろう。もともと政治ネタが十八番(オハコ)の噺家である。いわゆる「洒落のめす」のはお得意だ。『大喜利』の回答者時代、何度も絶品に快哉を叫んだものだ。
報道によると、民主党の党大会で例のテレビCMに大変なブーイングが起こったそうだ。以下、毎日新聞の記事。
―― CMは嵐の海を行く帆船でかじを取っていた小沢一郎代表が突風で飛ばされて倒れ、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長が脇から支える内容。同日の常任幹事会で「地元で大変不評だ。どういうコンセプトなのか」(平岡秀夫衆院議員)などの批判が出たほか、党大会では「小沢氏の昨年の入院騒ぎを思い出しヒヤッとした」(中野寛成前衆院副議長)との指摘も。(1月16日付)
「政治家に笑顔がない。特に野党の幹部。」とは、言い得て妙だ。まさかアゲインストに吹っ飛ばされて笑っているわけにもいくまい。「コンセプト」ではなく、スクリプトがよくないのだ。どこの脚本家かは知らぬが、スクリプトが正直すぎたようだ。でも正直の頭に神宿るともいうし、難しいところではある。
吉田茂とくれば、「あなたは何を食べて生きているのですか?」との質問に「わしゃ、人を食って生きとるよ」がすぐに浮かぶ。これほど「人を食った」返答はない。名言・迷言には事欠かない名宰相であった。福田赳夫、「天の声も時々変な声がある」。総裁選で予想外の敗北を喫した時のことだ。同じ『天の声』でも知事のそれはいただけない。大平正芳、これはもう極めつき。「あー、うー」である。「声なき声」の元祖か。巧まざるユーモアからして、このお三方が落語ファンであったとは十分頷ける。
「オペラや歌舞伎もいいけど、時には寄席にいらっしゃい。」とはオオイズミ君のことであろう。もっとももはや、『どこへ』『いつ』行こうとも文句を言われる筋合いはなくなったのだが。
続いての落語と漫才の対比。「もうええわ」はコミュニケーションの断絶であるとの切り込みには唸る。意表を突かれ、かつ納得である。何事によらず、断絶は悪に通ずる。「議論の必要なし、問答無用。こういう笑いに浸り続けるのは、考えてみると、危険なこと」とはひとつの警抜な文化論だ。
養老孟司氏は、「コミュニケーションの基礎になっているのは、それぞれの脳が出している表現です。その表現の典型的なものが言葉です。人間はこういう大きな脳を持つことになって何をしたかというと、まず社会をつくりました。その社会の中ではコミュニケーションがどうしても必要で、それが脳と脳を繋いでいる」と述べる。(大和書房「まともバカ」より) 若干の差はあるものの、平均1350グラムの脳と脳を繋ぐのがコミュニケーションである。これが切れると、人の世が立ち行かなくなるのは道理だ。「切れ」やすい人間が増えているのはその兆候かも知れない。
師匠のはなしは実にキレる。無類のビール党であるわたしに言わしめれば、『スーパードライ』よりキレ味鮮やかだ。□