伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

東大のディープな・・・

2015年10月31日 | エッセー

 ここ2、3年『東大のディープな日本史』に嵌まっている。12年にKADOKAWA 中経出版からリリースされた。著者は東進ハイスクール講師の相澤 理氏。同僚に林 修氏がいるが、こちらはギャグもトリビアもなく、ひたすら東大の入学試験攻略に余念がない真っ当な先生だ。ほかにもちがう執筆者による『東大のディープな』世界史・英語・数学・古文漢文があるが、『3』まで出しているのは日本史だけだ。タイトルに「歴史が面白くなる」と冠されているように唸るほど深く鬱するほど難しくはあるが、決して落とさんがために重箱の隅をつついた奇問、珍問の類いではない。さすがは東大、悔しいが東大。「歴史が面白くなる」問いかけに満ちている。
 今年8月の『3』に、以下のような極めて興味深い問題が取り上げられている。

 植木枝盛は、人権の無制限での保障・政府に対する抵抗権などを盛り込んだ民主的な私擬憲法「東洋大日本国国憲按」の起草者として知られる自由民権運動家です。その枝盛が大日本帝国憲法を歓迎したという事実は、「日本国憲法は〈民主的〉、その裏返しで大日本帝国憲法は〈非民主的〉」というステレオタイプな見方を、真正面から撃ち抜きます。
 次の文章を読んで、設問A・Bに答えなさい。
 一八八九年、大日本帝国憲法が発布された。これを受けて、民権派の植木枝盛らが執筆した『土陽新聞』の論説は、憲法の章立てを紹介し、「ああ憲法よ、汝すでに生れたり。吾これを祝す。すでに汝の生れたるを祝すれば、随ってまた、汝の成長するを祈らざるべからず」と述べた。さらに、7月の同紙論説は、新聞紙条例、出版条例、集会条例を改正し、保安条例を廃止すべきであると主張した。
設問
A 大日本帝国憲法は、その内容に関して公開の場で議論することのない欽定憲法という形式で制定された。それにもかかわらず民権派が憲法の発布を祝ったのはなぜか。3行以内で説明しなさい。
B 7月の論説のような主張は、どのような根拠にもとづいてなされたと考えられるか。2行以内で述べなさい。(14年度東大入試問題から)

 相澤氏は「なぜ大日本帝国憲法は民権派に歓迎されたのか?」と題し章を立て解説している。要約してみる。
1. 大日本帝国憲法には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、天皇の統治権の行使は憲法に制限されるという立憲主義の原理が埋め込まれた。
2. 法律は議会で制定するもの、それが立憲主義の大原則である。ならば「第七十六条 法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス」との条文は画期的だった。これで憲法に条例の改正・廃止の「根拠」を求めることができる。
3. 枝盛が改正、廃止を求める新聞紙条例、出版条例、集会条例、保安条例は政府が独自に発した条例であり、議会の審議を経ていない。しかも、それらは2. の「法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」にも反し無効となる。
4. 日本国憲法では「侵すことのできない永久の権利」とする基本的人権を、「法律ノ範囲内ニ於テ」と制約しているようだが、法律によって具体的な取り決めがなされ初めて実質的に保障される。
5. 自由や権利を政府の恣意的な「命令」によって侵害することは許されない、だから法律で守る。それが「法律ノ範囲内ニ於テ」という文言の(本来の)意味である。
6. ところが後年戦争へと向かって行く中、治安維持法などが制定され「法律ノ範囲内ニ於テ」が権利を制約するものとして運用されていった。
 これらをまとめると、<解答例>は──
A 民権派が求めてきた公選による議会の開設が翌年に約束されるとともに、予算・法律に対する議会の協賛も憲法に明記されており、憲法による国家権力の抑制という立憲主義の原理が貫かれたから。
B 憲法では法律の範囲内における言論・集会・結社の自由が認められており、また、議会の審議を経ていない弾圧法令は無効である。──となる。
 アンシャンレジームの象徴である帝国憲法をプログレッシブの象徴である植木枝盛が絶賛する。確かに「歴史が面白くなる」論点だ。圧倒的なマイナスからゼロに近いマイナスへの一気の上昇が枝盛を高揚、歓喜させたなどと事を矮小化してはなるまい。解説にある分析こそが学びの面白味であろう。
 ギリギリまで括ると、
 「自由や権利」は
  ① 憲法以前、政府に都合よく制約されていた
  ② 憲法で保障され、「法の範囲内」で認証された
  ③ 後、「法の範囲内」が制約に逆用された
 となろうか。これをなりふり構わず牽強付会なステロタイプに押し込めて、
 「集団的自衛権」は
  ① 『憲法解釈』以前、政府に都合『悪く』制約されていた
  ② 『憲法解釈』で保障され、「法の範囲内」で認証された
  ③ 後、「法の範囲内」が『拡張』に逆用された
 とするといかがであろうか。最大の難点は③ である。これまでこのイシューについては右顧左眄してきたが、とどのつまりは③ に行き着く。「逆用された」と過去形で書きはしたが、これからの話だ。だからこそ、難しい。ためらいは続く。
 今年の4月「ウロボロス撃退法」と題する拙稿を上げ、次のように語った。
〓ギリシャだけでなく、アステカ、古代中国、ネイティブ・アメリカンにも同様のものがあるという。ヘビは太古の昔から地球全域に生息してきたのだから、案外正解かもしれない。つまり、ヘビにテメーの尾っぽを噛ませることで自死に至らしめるという奇策である。最低限、周りに危害は加えなくなる。ワナも毒も要らない。刃物もハジキも使わない。極めて人道的、というか“蛇道”的撃退法ではないか。
 「存立危機事態」は限りなく「個別的自衛権」に近似してないか。いや、個別的自衛権そのものである。「集団的自衛権」という毒ヘビに「存立危機事態」というテメーの尾っぽを噛ませることだ。ぐるぐる回っているうちに力尽き、やがてヘビは自死に至る。自縄自縛の高等戦術といえなくもない。〓(抜粋)
 本来「ウロボロス」は単に円環形のエンブレムをいい、転じて無限であるさまをいう。如上の愚慮はそのイメージを膨らませた奇想である。しかし廃案にする以外、この撃退法しか③ を回避するよすがはあるまい。東大のディープな難問からそれ以上にディープな土壺に行き着いてしまった。こちら、ひとっつも面白くない。 □