伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

あのラストシーン

2010年01月30日 | エッセー

 およそ2年ぶりに訪れた。岬の周縁を巻いている道路を抜けきったところで、弓なりに湾曲する白砂青松の海辺が一望できる。とっておきのビスタが俟つポイントである。
  ―― まるで、「猿の惑星」だ! 
 映画史に残るあのラストシーンが甦った。砂浜に沿って十基に及ぶ発電用の風車が林立している。羽根の半径を計算すれば櫛比というにちかい。ドン・キホーテが立ち向かった牧歌風のそれではなく、支柱もプロペラも白ずくめの無気質な巨体だ。プロペラ飛行機が尾翼から砂に引きずり込まれ抗っているさまに見えなくもない。白砂青松の絶勝は切り刻まれ、台なしになっている。なんとも異形(イギョウ)の景観だ。
 二度目の引用になるが、司馬遼太郎の慧眼がせつなく、かなしく光る。
〓〓私どもはさまざまな点で奇民族だが、景観美についても、倭小な精神をもっている。すぐれた景観の自然のなかに村があっても、家々に塀があって、塀の囲いの中にちまちまとした庭をつくり、その小庭のほうをながめてよろこぶ通癖をもっている。「そとはすばらしい自然じゃないか」と、私の知人のイギリス人が私に理由の説明をもとめたことがあるが、私には説明ができなかった。ひょっとすると、自然や都市美を共有する精神がないのではないか。それにしても自分の小庭の植物は観賞に堪えうるが都市空間の植物についてはその私有植物の延長とも見ないというのはおもしろい。〓〓(「街道をゆく」第14巻より)

  このところあちこちで、国の肝入りがあってか風力発電の建設ラッシュだ。山の尾根づたいに並んでいるところもある。『山の上の扇風機』と呼んだ子どもがいるそうだ。だが、幼児の柔軟な発想を愛でている場合ではない。この扇風機、実はかなりの問題を抱えている。
 まず、風任せであること。オランダなどとは自然環境が違う。いつも一定の風力が得られる訳ではない。発電量にばらつきがある。風力発電の年間利用率は、全国で25%に過ぎない。機械としては極めて低い稼働率だ。ほかの製造業ではまずこんな機械は使わない。付け加えると、風が強い時は自壊を防ぐためにプロペラを止める。なんともコストパフォーマンスの低劣な発電機なのである。
 電力業界では、風力からの電気をごみ同然に嫌う。そのままでは安定供給できる代物ではないからだ。同じ鉄とはいっても、製品としての鉄板と鉄屑ほどの違いがあるそうだ。官民でスマート・グリッドの開発を急いでいるが、そのこと自体がかなりのコストアップ要因であり、技術的にもさほどスマートにはいかないらしい。
 さらに、現政権が進めようとしている強制的買い取り制度。電力会社の首を締めれば、早晩つけはコンシューマーが背負(ショ)わされる。イシューを絞った政策的誘導はもちろん必要だが、次世代電力はこれしかないかのごときゴリ押しは歪みを拡げるばかりだ。水力もある、深夜電力の活用もある。モーダルシフトという手もある。もっと総合的に知恵を絞り折り合いを付けるべきだ。
 また、各地で騒音や低周波によるものと見られるさまざまな健康被害が起こっている。昨年から国は調査に乗り出した。環境にはやさしいが、近隣住民にはこわい存在になりかねない。やさしいとはいっても、建設段階での厖大な化石燃料の費消、森林伐採、肉眼では見えないが鳥たちの往来に横槍を入れているかもしれない。
 遙かにプロペラの簇生を見遣ると、エントロピーの増大に油を注ぐ結果にならないか心許なくなってくる。
 
 ともあれ、すべてのオブジェクションを踏み拉(シダ)いて一瀉千里するこの国の行く末ははなはだ不気味である。枝葉には長けていても、肝心の要を忘れたのでは猿知恵になる。なれの果ては、砂に埋まり傾いだ風車に吃驚するラストシーンになりかねない。とんだ「猿の惑星」は御免だ。 □