伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

夜郎自大のおそ松くんたち

2010年01月27日 | エッセー

 昨年、「9月の出来事から」で以下のように述べた。(抄録)
〓〓朝日新聞の声の蘭から
 ―― 戦争連想する「国家戦略局」
 民主党の重要ポスト「国家戦略局」の名前の響きと文字から受ける感触は、戦争経験のある私たち世代にとって震えが来そうなほど嫌悪感がある。
 政権交代の第一歩から、こんな名前を思いつく無神経さには驚かされる。
 平和国家であることを第一に、「たかが局名ひとつ」と思わず、大切に考えてもらいたい。 ――
 「震えが来そうなほど嫌悪感がある」は、決して誇張ではないだろう。このようなネーミングひとつに、この政党の持つなにものかが表れてはいないか。
 事々然様にこの政権、党名の割には権力指向芬々だ。市『民』が『主』役が由来らしいが、自己撞着が心配だ。市『民』の『主(アルジ)』とも読めるぞー。〓〓
 この稿で指摘した「権力指向」が、ここのところいよいよ露わになってきた。権力を指向するするというよりも、権力からの指向、ないし思考である。小沢幹事長の政治資金問題に絡んでだ。
 幹事長の検察との対決宣言を受けてか、石川議員の逮捕を不当だとする議員の会が結成された。次いで、検察からの情報リークを検証するグループもつくられた。ほかに、女性議員だけによる小沢支援の動きもあるそうだ。さんざテレビに出たお陰で知名度を上げ大臣の椅子までたどり着いた原口総務相さえ、取材源に託(カコツ)けた見え見えのマスコミ批判を始めた。とんだ背信だ。放送局の許認可権をもつ大臣にしては、あまりに率爾だ。綸言汗の如しである。睨んだ通り、やはり尻軽の口軽男か。また可視化法案の取り上げ方もあまりに急拵え過ぎる。菅谷さんは出汁に使われ、さぞ傍迷惑であろう。さらに千葉法相は指揮権発動について明確に否定はしていない。誤解を招きかねない優柔さだ。
 自民党の谷川参議院幹事長は、小沢幹事長を「公人であり、政権与党の幹事長なのだから、検察が話を聞きたいと言えば率先して行くべきだ。『何様だと思っているんだ』という気持ちだ」と憤った。さらに前記の検証グループについては「呆れている。本来は『検証する会』ではなく、『反省する会』を作るべきだ。このままでは『隠蔽する会』になる。大政翼賛会のようだ」と斬った。いつもながら、このジイさん、なかなか言う。
 たしかにかつての自民党でさえ、ここまであからさまな検察批判はしたことがない。ある自民党の有力議員は「権力のなんたるかが判っているのか?」とコメントしていた。君に言ってほしくないという気もするが、的を外れてはいない。鈴木宗男氏がエールを送るのは納得するにしても、首相の「戦ってください」発言は悲しいくらいお粗末だ。どう言い繕っても、あのコンテクストでは戦う相手が検察であるのは子どもでも解る。直後の番組で、たけしが「おかしいよ。首相は検察の親分だろ。親分が自分の子分と戦ってくれっていうのは」と語っていた。さすがに、たけしだ。よく見ている。
 今回の検察の動きを、霞ヶ関の総意を受けた脱官僚路線への意趣返しだとの穿った見方もある。笑ってしまうほど穿ち過ぎだが、逆は言えそうだ。つまり、近くは昨年3月の代表辞任に至った西松建設献金事件、遠くはロッキード、佐川急便事件での領袖たちの無惨。そのルサンチマンに引火しなかったはずはなかろう。取り巻きの手前勝手な強権的言動は、「生みの親」を離れれば生きてはいけない俗な事情による追従にちがいない。半年前に吹き荒れたヌエのような『世論』の威を借る夜郎自大な『おそ松くん』たちと呼んで、さして附会ではあるまい。オブジェクションらしきものといえば、歯切れは悪いが仙谷大臣ただひとり。あとは異形(イギョウ)の一枚岩。「民主集中制」が十八番(オハコ)の共産党さえ顔色を失うほどだ。

 政治資金規正法は政治家個人から資金管理団体への献金は、上限年1000万円と定めている。たとえ本人の資産であろうとも、その形成に企業や団体が関わっていれば政治に歪みを生じさせる恐れがあるからだ。今のところ貸し付けは対象から外れているが、抜け穴になる可能性がありこれにも制限を設けようとする意見がある。この法は事件、疑惑のたびに網を広げ目を細かくし、いたちごっこの末に清水に魚棲まずにまで至った感がある。人間の暗い性(サガ)と向き合うようで、なんとも切ない法律だ。
 ともあれ、「その形成に企業や団体が関わって」いたかどうかに検察のイシューはある。つまり企業との癒着構造、延いては贈収賄の事件性をも視野に入れているであろう。奇しくも渡辺嘉美・みんなの党代表が言った「極めて古典的なスキャンダル」である。以前にも述べたが、庇を貸したつもりが母屋を取られてしまったのがこの政党の顛末だ。しかも新しい家主が苔むすような古株で、「古典的」な流儀を引きずって来ていた。なんとも皮肉なことだ。
 また後藤田正純衆院議員は、自民党の「小沢問題追及チーム」として小沢氏の個人事務所など十一カ所の不動産を視察しこう語った。
「なんで一等地にこんなたくさんの土地やマンションを買えるのか。政治資金を使っているなら政治家失格だ」「土地建物を政治資金で買うというのは、今までの政治家の発想にはなかった。なぜ不動産屋みたいなことをやる公党の幹事長が許されるのか」
 さすがにカミソリの跡継ぎだ。切れ味がいい。なるほど「不動産屋」の勘が働くところは角栄ばりというか、師弟の命脈は健在のようだ。

 評論家・西部 邁(ススム)氏の論を引こう。17年前、氏はこう述べた。
〓〓政治を世論のうちに深々と沈ませること、それが民主化の徹底であり、世論と政治を直結させるという意味での「民主化の過剰」もしくはウルトラ・デモクラシー 、これこそが日本のみでなく先進各国の政治を根腐れにしているのだ。
 どだい、議会制民主主義あるいは代議制は政治にたいする世論の直接的影響を断ち切るための制度である、という簡明な真実が忘れ去られているのはいったいどうしたことか。世論にそのまま添って動くのが直接民抗制なのであって、代議制という形をとる間接民主制は世論から一定の距離をとる、または世論の及ぶ範囲を限定するものである。
 あっさりいえば次のようなことだ。選挙民は、平均としては、個別の政策について、ましてや諸政策の連関について、分析したり判断したりする能力に不足している。しかし、代表者の人格や識見や経験についておおまかな審判を下すくらいの能力は選挙民にも備わっている。このように考えた上で、政策の決定を議会に委ね、選挙民の世論を政策決定においては単なる参考材料の位置にとどめておくのが代議制である。
 ついでにいっておくと、代表者つまり代議士にとりわけ必要な資質は、議会が「討論の府」であることからして当たり前のことだが、討論についてのそれである。たとえば、選挙民にたいしてなした自分の公約をも、議会における討論の結果として誤りであると判明すれば、拒否してみせるのがあるべき代議士の姿だといってよい。
 民主制は世論にたいする信念と疑念のあいだのあやうい均衡の上に成り立つ。それ以上のものでもそれ以下のものでもありはしない。的確な代表者を選ぶくらいの能力は持っているだろうと予想する点では、民主制は世論に信をおいている。しかし、政策についての分析・判断にかんしては民主制は世論に疑を差し向けている。世論にたいする信の過剰は衆愚政治を招来し、それにたいする疑の過剰は独裁政治を帰結する。このようにみなすのが民主制の正しいあり方ではないだろうか。〓〓(「27人のすごい議論」文春新書から抄録)
 激越だが、本質を語っている。「議会制民主主義あるいは代議制は政治にたいする世論の直接的影響を断ち切るための制度である」とは、瘴気はあるものの正鵠を失してはいない。だから、「自分の公約をも、議会における討論の結果として誤りであると判明すれば、拒否してみせるのがあるべき代議士の姿だ」となる。現政権の迷走はこの理解が欠落したところから発している。マニュフェストなるものに強圧され、自家撞着を起こしている。かつ唯一の政治的スローガンであった『交代』の実(ジツ)を挙げねばならない。大向に見せねばならぬ。加えて率直さや、根回しをはじめとする慣習から距離を置いた政治を「売り」にしている。みなさん、初の大役でもある。蹣跚(マンサク)たる歩みは至極当然だ。いうならば『民主主義ファンダメンタリズム』、しかも誤解のそれだ。「普天間」はティピカルである。

 かつて安倍総理が辞任した時、仙谷由人氏(現 特命担当大臣)は、「あんな子どもに総理大臣なんかやらせるからだ!」と切って捨てた。蓋し、名言である。その伝でいけば、あの夜郎自大のおそ松くんたちには「あんな子どもに政権与党なんかやらせるからだ!」とでもなろうか。 □