伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

横綱不在の意味

2018年11月27日 | エッセー

 シャーロック・ホームズは「起きて然るべきことがなぜ起きなかったのか?」と問いを立てて推理していく。「横綱不在でもなぜ場所は低迷しなかったのか?」と起きて然るべきことがなぜ起きなかったのかと疑問を呈すると、小結・貴景勝の大活躍があったからだと即答が返る。簡明すぎる推理だ。つまりは、大相撲の興行面において横綱の在不在は関係がないという有力な推論が成り立つ。横綱が不在であれば星の潰し合いやダークホースの登場で意外性のある展開が起こり、むしろ盛り上がるからだ。
 しかし、如上の見解には違和感を持つ向きがあるにちがいない。大相撲は単なる興行ではなく、より神聖なものではないのか。横綱以下のヒエラルキーが整序されてこその大相撲である、と。あるいは敵失に付け込むのはスポーツマンシップに悖る、鬼の居ぬ間の洗濯では値打ちが半減する、とも。そこで、碩学の卓見を徴したい。
 〈相撲とは何か。プロスポーツなのか、格闘技なのか、見世物なのか、伝統芸能なのか、神事なのか。いずれの要素も相撲には含まれている。そして、そのどれを除いても、相撲はもう相撲ではない。相撲は発生的には呪鎮儀礼であり、中世以来久しく異形異能の人々を受け容れる遊行の芸能集団だった。そこにスポーツマンシップや市民的常識を求めることは、たとえそれが抗いがたい歴史的趨勢であったとしても、どこか「筋目が違う」という気が私にはする。「だったら、八百長も賭博もありなのか」と凄む人がいるから、それ以上は言わない。けれども、相撲にコンプライアンスや透明性やNHK的な「お行儀の良さ」を求めるときに、相撲は古代から継承してきた何かを失うことになるだろう。〉(「内田 樹の大市民講座」から)
 スポーツと興行、伝統芸能と神事、それらが渾然一体となったアマルガムが相撲である。「そのどれを除いても、相撲はもう相撲ではない」のだ。それを現代の価値観で捌こうとすれば、当然フリクションを生む。その一つが“貴の乱”だったかもしれない。となれば、貴景勝は“乱”のエンダーになったといえなくもない。
 ともあれ、過剰適応による勝利至上主義の汚い“大”横綱・H鵬がポーズするだけでこれだけ大相撲は沸く。裏返せば、一強がどれほど後進の活躍の芽を摘んできたことか。いかばかり大相撲を沸かないものにしてきたか。横綱、就中一強の不在には大いなる意味があるというべきだ。永田町のあの一強にも通ずることだが……。 □