伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

病友

2011年10月13日 | エッセー

 先日引いた浅田次郎著「アイム・ファイン!」は、これもかつて引いた「つばさよつばさ」の続編である。JALの機内誌に連載されたエッセーをまとめた作品である。前著は先月、文庫本となった。その「一病息災」と題する章に至って「おおーっ!」と雄叫びを挙げ、跳び上がるほどに驚いた。なんと、氏は08年夏、狭心症を患っていたのだ。

 「ひどくデモーニッシュな力で、ググッと羽交い締めにされるかのよう」な胸の痛みを感じたそうだ。歯医者のついでに行った内科で「狭心症」との診断は出たものの、「全然ピンとこなかった。なにしろ風邪ひとつひかない健康優良オヤジである。心臓には毛が生えているはずであった。」と高を括って、薬を飲みながらの暴飲暴食。果ては新潟競馬へ遠征。帰路、絶頂の痛みが。ついに医大病院でカテーテル検査を受け、冠動脈の一部が「九九パーセント閉塞」という病状が判明。そのままステント留置術となった。
 「エイリアンと格闘すること二時間、わたしの心臓は甦った。」そして、二週間の入院。
「退院時に医師から申し渡された今後の留意点は、かなり厳しいものであった。 
 まずは禁煙。一日千六百カロリーの食事制限。減塩。減糖。体重を六十三キロまで落とす。毎日の運動を心がける。サウナ厳禁は言うに及ばず。
 トホホ、である。このようにストイックな生活は考えるだに情けない。」
 「要するにこの先、禅僧のごとき生活を余儀なくされるらしい。」と、『泣きの次郎』が『ぼやきの次郎』へと変わる。
 
 実は同じ年の冬、わたしも同じ病に罹っていた。その折の体験は「囚人(メシウド)の記」と題して、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ と(病名は伏せて)本ブログに載せた(08年1月~3月)。わたしの場合、ステントは時すでに遅くバイパス手術となった。施術は7時間、入院は3カ月に及んだ。ⅠとⅡは、病床で看護師の目を盗みつつ綴った。Ⅲは、術前後のことでさすがに退院後に記した。
 6つの節を立て──
 誤診のために、措置が遅れたことを< 藪 >に。初めての体験で考えた入院という名の<逮捕>について。病院食に<刺身>が出た驚き。最後の晩餐か、病院倒産の自棄(ヤケ)のやんぱちか。手術直後の容赦ない看護婦の歩行指導を呪った< 鬼 >。早朝の採血、検査ばかりの医療への疑問を呈した<ドラキュラ>。浅田次郎著「壬生義士伝」に<インスパイア>されたこと。
──などなどを書き留めた。
 いま読み返して感慨一入。あらためて身につまされる。しかも結構、いい出来でもある(誰も誉めないから、自分で)。
 同病、相憐れむ。「相」でなく一通ではあるが、高名で、かつ敬愛する作家と同じ時期に同じ病に臥せたとは、なんとも光栄である。ならば、『同病、片慶ぶ』であろうか。あるいは、戦友ならぬ『病友』ともいえようか。愛読者冥利に尽きるというものだ。
 「退院時に医師から申し渡された今後の留意点」は、当たり前ではあるが当方と酷似している。ただサウナ厳禁は、風呂嫌いのわたしには痛くも痒くもない。今も続いているかどうは知らぬが、氏は禁煙はさして応えなかったという。わたしは禁煙ではなく、『卒煙』を宣言した。だから忘れたころに、懐かしい『同窓会』を催す。
 エッセイはぼやきで終わらず、次のように結ばれる。


 制約を受けた自分がいったいどんなふうに変容してゆくのか、興味も覚える。なにしろ五十六歳の今日まで、自由奔放に生きかつ書いてきたのだから、病という埒を設けられれば、これまで予想もしなかった世界が展(ヒラ)けそうな気がするのである。
 ともあれこのたびの椿事は、知れきった往生をせぬために小説の神様が与えて下さった、「一病息災」の好機であると思うことにしよう。


 流石である。転んでもただでは起きぬポジティブ人生。氏の掲げる「絶対幸福主義」であろうか。「知れきった往生」は市井の民にとっても厭わねばならぬ。あれから3年、「好機」は活かされているか。「今後の留意点」にわが身を照らし、『病友』の名に恥じぬ後半生を期したい。□