伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

はじめてのねんきん

2011年10月15日 | エッセー

 振り込むという通知がきた。初めてである。ついに馬齢がそこにまで至ったかと涙を啜りつつ開封して、悲嘆は驚嘆に、驚嘆は慨嘆に変わった。尾籠ながら、仕舞にはタン(痰)まで出た。
 目を疑うほどの少額である。現役続行中とはいえ、あまりに少ない。日本年金機構とやらに電話して、これは月額であるか、さもなくば(ここはしっかりドスを利かして)年額であるかと確かめた。間、髪を容れず、窓口のお姉ちゃんにあっさりとかつ極めてさっぱりと、年額ですと返されてしまった。言葉を失い、嗚咽を堪(コラ)えながら、電話を切った。
 「年」金というのだから、やはり年額なのか。あわてて字引を繰ると、「一定期間、または終身にわたり、毎年、定期に支払われる定額の金」とある。ええい、紛らわしい。「定期」が曲者だ。毎年支払われるから年金だとして、こちとらには定期と定額が問題なのである。別けても定期が喫緊の関心事だ。定額の価値は定期によって変わる。もしや日額では、などとセコいわたしなどはいけない妄想をしてしまう。世にはこのような分からず屋もいるのだから、通知書にはそこをキチンと明記してほしいものだ。こんな不親切な通知書を五万と出しては、事務手数費の方が高くつきはしないか。
 想像や期待を裏切る少額は、きっと賦課方式によるためだ。仕送ってくれる若者たちの稼ぎが少ないのか、いただく側の頭数が多すぎるのか。たぶん後者であろう。人口変動が賦課方式のボトルネックであってみれば、止むを得ないことでもある。税方式に切り替えるべきだと主張する某政党もあるが、税額の急増と移行期間の不公平が思慮にない。だから、考えていないに等しい愚案といえる。
 しつこいが、少額である。この世との手切れ金にしてもあまりに薄情だ。これではお小遣いにしかなるまい。はじめてのお小遣い、いや人生二度目のお小遣いだ。孫でもいれば本物のお小遣いになるが、あいにくそのようなものを未だ持ち合わせていない。ならば、日ごろの労を労って荊妻に。んー、悪くはないがクセになっては薮蛇だ。では、コツコツ「使ったつもり貯金」でもするか。塵も積もれば山とはいうが、貯金などという悪癖、悪習はからきし身についていない。いっそ10倍ぐらいのデノミをしたつもりで、『大金』を自分で散財するか(デノミには下げばかりではなく、上げもある)。

 「はじめてのおつかい」という番組がある。隠し撮りには大目をつぶるとして、実にあどけない。かわいい。同じ枕であっても、「はじめてねんきん」ではあどけなくも、かわいくもない。だからここは「はじめてのお『こ』づかい」とオヤジギャグを飛ばして、かわゆくしてみようか。ひょっとしてあどけないとはいえても、断じてかわゆくはない。ええい、儘よ。貧乏花好き、どこかで『大金』に見合う「花」を探すとしよう。□