伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

御高説を傾聴すべし

2007年12月25日 | エッセー
 裁判員制度については何度か取り上げた。
 07年5月11日 「お言葉」を拝して ―― 欠片の主張 その5
 07年8月30日 奇想ではなく 「赤紙」!

 今月20日、朝日新聞に元最高裁判事の団藤 重光氏へのインタビュー記事が出た。死刑廃止が主題だが、返す刀で裁判員制度にも一太刀見舞っている。一部を引用する。少々長いが、まずはご一読願いたい。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
<団藤 重光>
団藤氏は終戦後、刑事訴訟法全面改正に指導的役割を果たした。東大法学部長を経て、74年から83年まで最高裁判事。死刑廃止論に転じた決定的契機は、最高裁時代の、毒殺事件の法廷だった。被告は否認したが、高裁判決は死刑。「絶対に間違いないか」と悩んだが、重大な事実誤認があるといえなければ、最高裁は高裁判決を破棄できない。「何とも仕方なかった」。上告棄却を宣告した裁判長と、団藤氏が退廷しかけた時だ。「人殺しーっ」。傍聴席から鋭い声が響いた。「一抹の不安を持っていたから、こたえました」。死刑がそもそもいけないと確信を持つようになった。最近も、著書「反骨のコツ」(朝日新書)を出版し、死刑をめぐる法務省の勉強会にメッセージを寄せるなど、死刑廃止を求める発言を続けている。

■ 死刑廃止なくして裁判員制度なし   
―― 鳩山法相は「西欧文明はドライだが、日本には死をもって償うウエットな文化がある」と説明しています。
 日本では9世紀初めから「保元の乱」まで、実に300年以上、死刑は停止されていました。「死をもって償う」というのは自分から命を絶つのであって、刑罰として人の命を奪うことと混同するのは、少々教養がないね。日本の文化は「和をもって貴しとなす」。「和」と死刑は矛盾するんじゃないかしら。
―― 家族や親しい人を殺されたら、犯人を殺したいと思う感情を持つのは当然ではないですか。
 当たり前ですが、そうした「自然な感情」を持つのと、それを国が制度として、死刑という形で犯人の生命を奪うのとは、全く違うことです。戦争だって「人情から当然だ」といって是認するとしたら、とんでもない。
―― 世論調査では「死刑存置」が多数です。政治家は世論に従うべきだとは考えられませんか。
 政治ってのはそういうもんじゃない。民衆の考え方に従いながらも指導しないと。川の流れを流しっぱなしにするのでは、水害が起きる。かといって、流れを止めてもいけない。土手をつくり、水を正しい方向に導いていけばいいんです。
―― 死刑に代わる最も重い刑としては何が考えられますか。
 さしあたっては、仮釈放のない終身刑をつくるべきでしょう。恩赦の可能性は残した上で。そうしないと死刑より残酷になる。その先、将来的にどういう刑を考えていくかは、私にもわかりません。制度をだんだんと改善していくべきでしょう。
―― 日本では、09年5月までに裁判員制度が始まります。
 裁判員は民衆から起こってきた要求によるものではない。政府が考えた根無し草。もし裁判員制度が始まるのなら、どうしても同時に死刑を廃止しなければだめです。ヨーロッパの参審制の国では死刑が廃止されているから、国民が国民に死刑を言い渡すことはない。「死刑廃止なくして裁判員制度なし」です。
―― 誤判の可能性があることを、死刑廃止論の根拠として強調されてきましたが、市民が参加したら誤判の確率も高くなるとお考えですか。
 それはそうですよ。ジャーナリズムが「被害者は、こんなにも悔しい」とむき出しの感情を流していては、国民は法的な判断力を持てないままになる。そうした国民が出す判決は、それだけ間違う可能性も高まります。
―― 団藤最高裁判事は法廷で「人殺し!」と叫ばれました。裁判員制度が始まれば、死刑判決に関与した裁判員も「人殺し!」の声を受けることになるのでしょうか。
 なぜ「人殺し」かっていえば、そういうことをしているからね、人殺しだって叫ばれるわけですよ。そう言われた方がいいんですよ。 (12月20日付)
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 朝日は裁判員制度については賛成の立ち場で論陣を張ってきた。だが、このような否定的見解も載せる。まことに大新聞は懐が深い。
 12月1日の同紙社説では、広島地裁で放火殺人事件の被告に対し無罪判決が出されたことに関し次のように述べている。
―― 放火殺人で死刑を求刑された被告に対し、広島地裁が「非常に疑わしい点があり、シロではなく灰色かもと思うが、クロと断言はできなかった」として、無罪を言い渡したのだ。
 なぜ、クロと断言できなかったのか。
 物証がないうえに、被告の捜査段階での自白が信用できなかったからだ。
 ここから浮かび上がるのは、裏付け捜査を十分にしないまま、自白だけに頼って有罪に持ち込もうとした捜査のもろさである。
 1年半後に始まる裁判員制度は、法廷でのやりとりを中心に短期間で審理をする。自白調書が被告から否定されれば、信用性を長々と吟味することはできず、証拠から外されることも考えられる。
 捜査当局が自白に頼る手法を改めない限り、裁判員制度で無罪が相次ぐことになりかねない。それは事件解決の機会を自らつぶしてしまうことでもある。
 そうした裁判員制度をにらめば、捜査当局が今回の判決からくみ取るべき教訓はたくさんあるはずだ。(抜粋) ――
 捜査当局の自白偏重に警鐘を鳴らすため裁判員制度を引き合いに出したのであれば、なんとも論旨がお粗末ではないか。捜査の公正、厳正は裁判制度のいかんとは本来無関係の筈だ。それに、千人の真犯人を逃すとも一人の冤罪者を生むなかれ、との大原則を知らないわけではなかろう。まるで裁判員制度では何百人もの真犯人が野に放たれるとでもいいたいのであろうか。
 詰まるところ裁判員制度そのものが、どだい天下の愚策なのだ。戦後築き上げてきた裁判制度への画蛇添足、希代の愚法なのだ。だから朝日にしたところで、この制度に軸足を置く限り論旨はふらついてしまう。痴人説夢の類いに堕ちる。
 さて、団藤氏のインタビューである。さすがに大御所の御高説はひと味もふた味も違う。そうなのだ。刑事裁判の究極の選択肢は死刑なのだ。
 「ヨーロッパの参審制の国では死刑が廃止されているから、国民が国民に死刑を言い渡すことはない。『死刑廃止なくして裁判員制度なし』です。」この主張は重い。鋭い。頂門の一針である。
 集団リンチの無法から決別して裁判制度は創られた。それが「市民化」の衣を纏い『先祖返り』してしまう。裁判員制度とはそれほどの危険性を内包する。今はない終身刑の創設と併せ、まずは死刑制度の存廃こそ俎上に載せるべきであろう。
 さらに、政治家の役割に言及する部分。ここも含蓄ある卓見である。ただ選良が選良たり得ない悲しさ。これについても07年7月14日、「祭だ、祭だー!」で取り上げた。

 あれもこれも未解決のまま今年も暮れる。『欠片の遠吠え』も、今年はこれで吠え納めとしたい。皆さま、よいお年を。□


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