伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ダルビッシュゆう

2018年10月30日 | エッセー

 今月26日、朝日は次のように伝えた。
 〈ダル、安田さんへの自己責任論に反論「ルワンダ勉強を」
 内戦下のシリアで拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリスト安田純平さん(44)に「自己責任論」が出ていることに対し、大リーグのカブスに所属するダルビッシュ有投手(32)が自身のツイッターで反対意見を述べた。
 ダルビッシュ投手は80万人以上が犠牲になったとされる1994年のルワンダ大虐殺の例をひき、「危険な地域に行って拘束されたなら自業自得だ!と言っている人たちにはルワンダで起きたことを勉強してみてください。誰も来ないとどうなるかということがよくわかります」などとつづり、安田さんの解放に「一人の命が助かったのだから、自分は本当に良かった」とした。
 投稿に賛否両論が相次ぐなか、サッカーの日本代表で活躍した本田圭佑選手(32)も反応。「色々と議論がなされてるみたいやけどとにかく助かって良かったね」とつぶやいた。〉
 なぜダルビッシュ? という向きが多かったのではないか。稿者もその1人だ。プロアスリート、別けても野球選手としては異例のコメントである。しかし出自を当たってすぐに氷解した。彼はイラン人の事業家を父にもち、母親が日本人のハーフである。だから中東には無縁ではない。もちろん親戚、縁故もあるだろう。イランはシリア・アサド政権の支援国だ。中東情勢に関心が高かろうことは容易に察しがつく。ダルには中東に“土地勘”があるということだ。
 かつて国際化とは隣に外国人が住む時代をいうのではなく、親戚に外国人ができることをいうのだと聞いたことがある。当然人的ネットワークも地球規模に拡がる。伴って視野も拡大する。ダルビッシュ有がダルビッシュ“言(ユ)う”となる道理だ。
 さて、安田純平氏についてである。こういう案件には決まって「自己責任」が囂しく飛び交う。フリージャーナリストの個人的活動、取材である。身代金を始め救出に公金や労力を使うのは筋違いではないかと。迷惑である、と。
 しかし本当にそうか。先ずなにより邦人保護は国家として当然の義務である。国外追放者でない限り、理由の如何に関わらず自国民を擁護できずになんの国家か。また、メディア大手は危険地域への取材にはフリージャーナリストを使う。ほとんどが雇用契約ではなく個々の取材情報を買い取る形であろうが、アウトソーシングに違いはない。だからあながち「個人的」と断ずる訳にはいかない、ともいえる。広く社会的使命を担っているともいい得る。「君子危うきに近寄らず」を“義士”が肩代わりしているともいえよう。SNSが普及しているとはいえ、それにさえ無縁の人々がいる。外から入っていかなければ実情が掴めない危険地帯は数多い。“戦場”の実態は彼ら義勇の士によって世界に発信されているのだ。命を賭しての国際貢献である。現に、16年は156人で過去10年間で最悪。シリア内戦では12年から5年間で110人以上の記者が命を落としている。人間が尊厳を踏みにじられ存在までも抹消される紛争地や圧政の社会。その現場をリポートすることは現代社会における『人権の斥候兵』であり、大いに称讃されるべき人たちではないだろうか。斥候がいなければ本隊は進路が取れない。
 危殆のど真ん中に身を投じるジャーナリストたちは職務責任というよりも公的責任、さらには人類史的責任を背負っているといっても過言ではなかろう。未だにカニバリズムの悪弊を抜け切らないのは類としての恥辱ではないか。
 そもそも、メディアとは何か。生物学者福岡伸一氏の洞見を徴したい。
 〈メディアといえば新聞やテレビのことを意味するが、生物学の世界では、メディア(単数形はメディウム)とは、シャーレの中で育つ培養細胞を浸す栄養液のことを指す。細胞たちはおそらく自分たちを取り囲む、この媒体の存在を自覚してはいない。ちょうど水の中に棲む魚が水という媒体の存在を知らないように。あるいは、私たちが空気や重力や温度といった媒体の存在を気にしないように。しかし、メディアは、生命と常に接し、生命活動を支えている。メディアとの接点を通じて、物質とエネルギーと情報の交換が絶えず行われる。それが化学反応を引き起こし、生命という平衡を保つ。つまりメディアとは、何かをためこんだアーカイブではなく、動的な流れとしてある。〉(「動的平衡2」より抄録)
 「シャーレの栄養液」つまり「媒体」がメディアである。魚にとっての水だ。無自覚ではあるが、不可欠である。mediaはラテン語Mediumから派生した。「中間」「介在」を意味する。しかも福岡氏は「アーカイブではなく、動的な流れ」だという。社会に置き換えれば、まさにメディア(情報媒体)ではないか。今の世界に向き合う。人類の進むべき道を過たないために。『人権の斥候』に栄光あれ、だ。 □