伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

スリル

2018年10月17日 | エッセー

 先月の小稿「子どものための大人の本」で紹介した上野耕平。CDを元プロのサキソフォン・プレイヤーに聴かせてみた。ジャズ畑を歩んできた彼は高度な技術に脱帽しつつも、「スリルがない」とひと言。値千金の一句である。おそらくそれはインタープレイによるケミカルの妙を「スリル」と言ったのではないか。
 脳科学者の茂木健一郎氏は、音楽を聴くことは太古夜の森で気配を聴き取った行為を始原とするという。だから「音楽は、他の芸術とは一線を画するように感じられる。最も生命原理に近い、生命哲学の根幹にかかわる」(『すべては音楽から生まれる』、以下同様)とする。なるほど胎児の五感は聴覚から始まる。胎教の所以だ。麻酔や失神から最初に回復するのも聴覚である。対極にある死の間際まで働いているのも聴覚だそうだ。だから“music”の語源から、音楽を奏で聴くことは生の本質と考えられていたと語る。耳の形は胎児を象っているという説もある。脳科学でも音楽の喜びを感じる回路と食欲が充たされて感じる本能的な喜びの回路は共通だと明かす。空気の振動に過ぎない音楽を「受け止めることは抽象的な感覚」であり、同時に「それが、生物として非常に基本的な喜びにもなる」意外さに着目している。
 物理的な音を抽象的に受け止め、かつそれは本能に直結する。「ダ、ダ、ダ、ダーン」を運命が扉を叩く音だと料簡しカタルシスを覚えるのは人類のみだ。サルはおそらく跳び上がるだけだろう。
 クラシックとジャズは基本、インストゥルメンタルである。物理的な音だけで成り立つ。しかし抽象性は圧倒的にクラッシックが高い。比するに、ジャズは即物性が高い。アドリブやインタープレイは即物性に拠るともいえる。
 ここから飛躍する。
 武人にとって最も重要な資質は臨機応変であったとするのは内田 樹氏だ。
 〈軍は上意下達の組織ですけれど、実際の戦場では「こんなことが起こると思ってもいなかったこと」が起きる。そのときに「指示待ち」でフリーズしていたら、みんな死んでしまう。その場合には、上位者からの指示を待たずに、現場判断で最適解をためらわずに選択する能力が必要になります。武道は本来そのような能力、いつも僕が使う言葉遣いでいえば「どうしていいか分からない時に、どうしていいか分かる」能力の開発のためのプログラムです。〉(「変調『日本の古典』講義」から)
 “物理的な音を抽象的に受け止め”ていては臨機応変は適わない。抽象を素っ飛ばして即物的に応変せねばならぬのがジャズだ。「上位者からの指示を待たずに、現場判断で最適解をためらわずに選択する能力」が求められるのは武道と同等ではないか。その鬩ぎ合いは「スリル」に満ちている。
 ジャズはアメリカの地で生まれた。アフロアメリカンの音楽をヨーロッパ系の軍楽隊形式に乗せたのが発端である。このアマルガムが祖型である。となれば、端っから「ケミカルの妙」を具していたことになる。今年の「ケミカルの妙」はなんといってもノーベル賞受賞者本庶 佑先生だ。発見は偶然だった。細胞死に関わる遺伝子を追ううち、「何だこいつは」に出会した。大発見は往々にしてそうだが、それがケミカルの世界で起こった。まさに化けたのである。
 8月の拙稿「美意識」で触れたように、アルバート・アインシュタインを筆頭に理系の碩学にはクラシック愛好家が多い。本庶先生も同類で、京大時代には大学交響楽団に属していてフルートを吹いていたそうだ。サキソフォンとは同類である。同オーケストラは今でもトップ3に入る実力を誇り、メンバーの3分の2が理系。弦楽器はほとんどが理系の学生だという。凡愚には理由が掴めない。
 さらに同オーケストラの演奏会すべてを取り仕切る責任者も担っていた。交渉、予算、大所帯の意思統一。それを一手に引き受けた。その中で培われたマネジメント能力が、ほとんどの製薬会社が背を向ける中で小野薬品との共同開発に道を付けたとも評される。一徹な学者魂と製薬会社の捨て身の挑戦がアマルガムとなり、オプジーボを世に送り出した。これもまた「ケミカルの妙」といえなくもない。
 世はスリルに溢れている。人がスリルを好むのは、たぶん生き残りの過程で獲得した属性にちがいない。 □