伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

“おや??”な2人

2017年09月12日 | エッセー

 「震災に続く様々な事情で亡くなった」とは、関東大震災の混乱時に虐殺された朝鮮人への認識を問われての応えだ。小池都知事が言う「様々な事情」の中には、もちろん人為的ではない災害死、災害関連死もあったろう。しかし圧倒的多数は「虐殺」であった。それは知れきった事実だ。人数のカウントが千人単位で変動するほど大規模であった。1人ですら紛れもない殺人である。たったひとつの紡がれつつあった人生が風評の嵐に突然消し去られた。それだけで充分罪だ。弔われるに十全な根拠がある。だが知事は「特別な形を控える」として、虐殺された朝鮮人などを追悼する式典への追悼文送付を取り止めた。去年は送付し、あの石原元知事でさえ寄せていた追悼文の慣行を突如破ったのだ。
 「歴史家がひもとくものだ」とも知事は述べた。どこかの虚言宰相と同じ言いぶりなのが気に掛かるが、94年もの間にとっくにひもとかれている。別けても、吉村 昭の「関東大震災」は出色だ。拙稿では11年11月『二つの大震災』と題し、同書を底本に同年の東北大震災といくつかの視点から比較衡量した。以下、抜粋。
 〈【朝鮮人来襲説】に類する事例は、今回皆無に近い。ラジオ放送の開始は2年後の1925年だった。当時は新聞しかなく、マスコミの普及は今日とまったく様相を異にする。なにせ、津波が襲う様子を全国がテレビでリアルタイムで観ていたのだ。ネット、ケータイなど情報事情もまるっきり違う。隔世そのものだ。さらに、韓流ブームである。ブームどころか、文化として根づきつつある。朝鮮人に関する限り、流言の生まれる土壌はすでにないとみたい。こちらも隔世した。〉
 「隔世」とはいったものの、「隔世の感」ではく「隔世遺伝」の隔世に横滑りしたようだ。なんとも、“おや??”である。どう考えても中止にベネフィットは見つからない。自民党都議からの中止要請に応じたとの報道もあるが、代議士時代に副幹事長であった日本会議議員懇の価値観がいまだに伏流しているのかも知れない。あるいは働きかけがあったか。議員懇の名誉顧問である某首相に戦略的配慮をしたのか。ともあれ、異常事態での風評事件は汚点であると同時に将来への教訓でもある。蓋をしたのではなにも生まれない。都知事自身の汚点にならぬよう願いたい。
 「偽情報がテロリストを助けている」と、あたかもフェイクニュースといわんばかりの言いぶりなのがアウンサンスーチー国家顧問兼外相である。これでは某国大統領と同等ではないか。ミャンマー西部で少数派イスラム教徒ロヒンギャが治安部隊の掃討を受けて虐殺、暴行が行われ10数万人の難民が発生している。明日には国連が緊急会合を開くなど国際社会に深い憂慮を生んでいる。同じノーベル平和賞受賞者であるマララ・ユスフザイ女史もミャンマー政府を「悲劇的で恥ずべき扱い」だと非難する声明を出し、スーチー氏に「同じように」非難するよう求めた。
 非暴力民主化運動の指導者と謳われたスーチー氏だが、意外な対応に戸惑う。長い軍部との抗争、角逐からやっと手中にした民主化のとば口を護ろうとする戦略的配慮なのかも知れない。隠然たる軍部勢力への深謀遠慮であることを願うばかりだが、人権の金看板に傷が付きかねない。やはり“おや??”だ。
 木で鼻を括ったような対応は2人に共通するのだが、“おや??”の核心にあるのは民族である。国内における少数民族への差別だ。奥にあるレイシズムの黒い影だ。怖気立つ人類の宿痾だ。
 イラン革命やベルリンの壁崩壊を予言したことでも高名な未来学者であるローレンス・トーブ氏は人類の進歩について肯定的である。人類の長遠な歴史の中で人種差別、性差別、宗教的差別、植民地主義的収奪や奴隷制度は罪とはされて来なかったが、19世紀以降に至って罪悪視が定着したと、氏はいう。曲折はあったものの、当該行為がなされる当事国には少なくとも国際に向けて正当性や根拠についての説明責任が生まれてきた。だから、人類は内面的に成熟し人間性に対する配慮を深めつつあるというのだ。だとすれば、2人にはこの大きな俯瞰図を決して手放してほしくはない。政争のレベルで近視眼になってはなるまい。民族が絡む事柄は今や決してドメスティックではない。国際の目が、歴史の目が光っていることを忘れないでほしい。なぜなら、それはほかならぬ人間そのものへの深刻な裏切りに直結するからだ。 □