伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

統帥権独立と7条解散

2017年09月26日 | エッセー

 百万陀羅というべきか、馬鹿の一つ覚えというべきか、二言目には「解散は総理の専権事項」が政府・与党で繰り返された。本当にそうかという疑義は学者の間にもある。玄人でもない一民草ではあるが、稿者には極めて耳障りなフレーズだ。突飛かも知れぬが、「統帥権干犯問題」が想起されてならない。
 昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣を軍部と時の野党が激しく攻撃した騒動である。慣例通りの交渉であり天皇の裁可も得ていたものを、政府が独断で兵力削減に応じたのは天皇大権である統帥権を犯すものだと、突如異を唱え大混乱となった。野党の急先鋒が鳩山一郎だったというから、宇宙人・鳩山由紀夫との隔世の感にたじろいでしまう。
 この「統帥権干犯!」が、妙に「専権事項!」に重なる。
 明治憲法は明治22年に公布された。その11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とある。このたった10文字が後々の元凶となった。実際には、陸軍参謀本部と海軍軍令部が陸軍省、海軍省にも優越し天皇に直属する幕僚となって軍隊の運用権限を独占する形となった。司馬遼太郎はこれを「超憲法的な思想」と指弾し、戦前日本を「鬼胎」に落とした正体と問詰し、ガン細胞と断じた。
 〈陸軍参謀本部というのは、はじめはおとなしかった。明治四十年代に、統帥権を発見した。憲法と勅諭とを根拠にして統帥権ができる。つまり、三権分立を四権にしてしまう。それだけではなく、他の三権を超越する。参謀本部は陸軍省ではないわけです。省の軍人は行政官ですからね。参謀本部は全部天皇の幕僚なんです。幕僚そのものに権力があるということになってしまって、たとえば辻政信が全部かき回すことになっていくわけでしょう。「師団長が何を言うか」と言われれば、師団長も黙ってしまう。〉(「司馬遼太郎対話選集」から抄録)
 司馬が「明治40年代に・・発見」というのは、日露戦後、明治41年に軍関係条例が大改訂され陸軍大臣からも独立する機関になり独走していった経緯を指すのであろう。
 内田 樹氏も同趣旨の見解を述べている。
 〈大日本帝国の最大の失敗は、天皇に属し、世俗政治とは隔離されているはずの「統帥権」という力を帷幄奏上権を持つ一握りの軍人が占有したことにあります。「統帥権干犯」というトリッキーなロジックを軍部が「発見」したせいで、いかなる国内的な力にも制約を受けない巨大な権力機構が出来てしまった。〉(「月刊日本」5月号から抄録)
 統帥権はプロイセン憲法を参考にして明治憲法に組み込まれた。君主制国家で君主が軍隊の最高指揮権をもつことはごく常識的だった。ただ日本では、君主がすべてに大権を振るうというより名目的な裁可が実態であった。その間隙に「統帥権を発見」されたり、「トリッキーなロジック」を差し込まれたのだ。しかし事はより複雑で、統帥権は憲法以前にすでに確立されていたのだ。明治11年、明治憲法の10余年前に「参謀本部条例」が勅令として発布されていた。
「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司トル」
 がそれで、参謀本部本部長は陸軍省から離れ天皇に直結する旨定められた。実はこの明治11年が肝だ。前年に起こった西南戦争での悪戦の原因が不鮮明な指揮系統にあるとみたようだ。急拵えの国軍は官位の横滑りや編成の不整合により齟齬をきたした。その反省に立って、まずは「帷幕ノ機務」を独立させようと図ったのであろう。加えて、陸軍を握る山形有朋の軍事的優位を離すまいとする思惑があったともいわれる。つまり憲法という一国の基本法に先手を打って既得権を確保していたことになる。なんとも巧妙というべきか。
 四捨五入して日本の歴史を振り返ると、過去3度大国の制度を取り入れ自国のシステムチェンジを図ったことがある。
 初回は律令制。701年の「大宝律令」がそれである。いわば法治国家へのグレードアップだ。ところが、唯一科挙だけは除いた。なぜか。100年前の603年に「冠位十二階」が制定され貴族制が布かれていたからだ。中国は貴族を排するため科挙という1代限りの厳格な壁を作った。だが本邦には貴族がすでにいた。だから既得権を手放すはずはなく、貴族制と官僚制が重畳する“変則”が連綿と維新まで続くことになる。武士は貴族制の先住者を追い出し入れ替わったに過ぎない。高位の武士が官位に拘り続けたのはその一象徴だ。
 2度目は明治維新。欧州の大国に倣いフルモデルチェンジを狙ったが、天皇の絶対化に伴い長州閥による既得権益が紛れ込んだ。それが如上の統帥権である。
 3度目は敗戦によるアメリカナイズ。ここでも換骨奪胎が行われた。その極めつきが「7条解散」ではないか。先月29日の拙稿『片翼飛行(承前)』で「民主制と独裁制は対立概念ではない」という内田 樹氏の洞見を引いた。では、立法と行政が一体化した独裁制の対立概念は何か。氏は、独裁制の対立項は共和制だという。共和制では立法権と行政権が分離され、統治機構の内部で権限が複数のセクションに分割されている。具体的には両院制、三権分立、弾劾裁判、憲法裁判制度などの様々な形を取るとする。しかし本質は制度ではなく「統治のマナー」にあるという。
 〈共和制であるために必要な条件は、ひとつだけです。それは、国政の根幹に関わること、国のありように関わるような重大な決定については、それぞれ立場が違い、ことの正否を判定する基準が異なる、複数の審級を経由させて、最終的な結論が出るまでに長い時間をかけるということです。国民の一時的な熱狂や、カリスマ的政治家の巧みなアジテーションには重要な決定を委ねてはならないということです。複数の視座から眺める。複数の度量衡を当てはめる。とにかくまずは頭を冷やす。共和制は、人間がことを急いで、熱狂的な状態で下した決断は多くの場合間違ったものだったという歴史的教訓から人間が汲み出した知恵です。〉(「アジア辺境論」から抄録)
 そしてさらに「共和制とは意図的に作り込まれた『決められない政治』システムのことです」と言い切っている。“民主政治”の画竜点睛はこれなのだ。これ以外にはない。実に溜飲が下がり、腑に落ちる。独裁への歯止めはここにある。しかし氏は続けて、
 〈日本人はどんな制度についても「アメリカでは……」と言って、それを模倣しようとするくせに、アメリカの統治システムの制度設計の基本原理であるところの「共和制的な制度によるリスクヘッジ」だけはまったく模倣する気がありません。〉(同上)
 と糾弾する。だから「7条解散」は共和制の対極に位置する、換骨奪胎の極めつきだというのだ。
 辺境国家の習い性か、悪知恵か。中心国家に学びはするがいつもバイパスを潜ませて換骨奪胎して、終にはエピゴーネンに堕してしまう。大括りにすれば、そうなる。
 付言しておきたい。
 少子高齢化とNKの脅威という2つの国難への「国難突破解散」だと、アンバイ君は宣うた。大層な言葉遣いは戦前志向の地金が出たといえるが、本当にそうか。少子高齢化は17年9・10月に突然降って湧いた災厄なのか。問題の立て方は別にして、長い長い国家的課題でありつづけてきたはずだ。それがなぜ刻下に抜き差しならぬ事態に立ち至ったのか、まったく料簡できない。「それぞれ立場が違い、ことの正否を判定する基準が異なる、複数の審級を経由させて、最終的な結論が出るまでに長い時間をかける」マターではないのか。それがなぜ今なのか。
 NKについては長年月にわたる数々の判断ミスと失策の累積として惹起したことだ。それを懺悔するならともかく、戸締まりを抜かっておきながら今さら縄を縫うのでは泥縄ではないか。まるで理屈があべこべだ。まさしく「国民の一時的な熱狂や、カリスマ的政治家の巧みなアジテーションには重要な決定を委ねてはならない」マターである。術中に嵌まってはなるまい。
 ともあれ、こんなのは『独裁突破解散』と呼ぶにふさわしい。「専権事項!」の連呼が軍部独裁を招いた「統帥権干犯!」に吹き替えられたようで堪らなく不快だ。是が非でも独裁『阻止』総選挙にせねばなるまい。 □