伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

見たくない番組

2017年09月03日 | エッセー

 狷介、因業な与太を飛ばすようだが、どうにも見ていられない番組がある。「愛は地球を救う」と高言する日テレの『24時間テレビ』だ。チャリティー番組だという。「視聴者から寄せられた寄付を、国内外の福祉・環境保護・災害復興の支援に役立てる事を目的」とし、社会福祉法に基づいて厚労大臣の許可を得て募金活動・慈善活動・資金配分などを行っているそうだ。
 引っ掛かるのは「視聴者から寄せられた寄付」である。なぜ、視聴者なのか。TV局ならスポンサーではないのか。それに、チャリティーの美名の元に普段と変わらずCMが流れるのもおかしくはないか。それではスポンサーがチャリティーの場を提供し、視聴者はせっせと小銭を持ち寄るという図になる。一時(イットキ)の慈心は得られようが、本気で集めるなら“大銭”(オオゼニ)を狙うのが常道ではないか。大銭はもちろんスポンサーだ。日々汲々としている庶民の懐に手を突っ込むより、400兆もの大銭を内部留保している大企業にトリクルダウンの太っ腹を見せてもらうてーのも乙ではないか。
 アンバイ政権になって資産を2倍にも3倍にも増やしたのは柳井、孫の2氏だが、彼ら儲け頭にフォーカスしてもいいのではなかろうか。因みに昨年の資産総額、柳井氏は1兆8000億。奉加帳の筆頭に来ておかしくはない。孫氏も推して知るべし。
 寄付ならば赤い羽根をはじめ既存のものはいくらでもある。災害時にもそれなりに用意される。敢えてテレビ番組として企図する必要があるのか。なんだか胡乱だ。作られた感動。涙。チャリティー・マラソンの空々しさ。完走にベットするなら解るが、芸人が100㎞走ればなぜ「地球を救う」ことになるのか。とんと思案が及ばぬ。まあどう考えても、チャリティーの大看板を担いで芸能人や歌手が視聴者を巻き込み「一時の慈心」にグルーヴしているとしか見えない。
 寄付すべき対象があるのはなぜか、正面から問いかける企画は皆無だ。ましてや政治や社会の怠慢や欺瞞を突くコンテンツなどありはしない。なんのことはない、24時間昼夜兼行のお祭り騒ぎでしかない。慈心の狂騒がまやかしのデドックスを生んでいるだけとは過言であろうか。これで一番にほくそ笑んでいるのは政治ではないか。この手のお祭りが盛り上がるほど、「寄付すべき対象」に最も責任があるところに矢が飛んでこないからだ。永田町や霞ヶ関にとっては絶好の目眩ましであろう。
 昨夜のこと、TBSが「炎の体育会TV」を放送していた。スポーツに異才をもつタレントたちが現・元プロアスリートにハンディをもらって挑戦するという番組だ。芸人なら芸を磨けといいたいところだが、余芸だか本芸だか見境のない手合いが増えたためか、最近はこの種の企画が多い。
 それはともかく、昨日は「松岡修造プレゼンツ小学生大縄跳び選手権」なるものが行われていた。小学校のクラス単位12名で参加し、2人が縄を回し10人が跳ぶ。勝敗は跳んだ回数で決める。
 同じ学校の隣組同士が対戦し、勝敗の明暗に歓喜と涙のドラマ。キャプテンが負傷してメンバー交代。それでも勝ちを掴んだチーム。惜敗し、「勝たせてやれなかった」と泣き崩れる担任。巧まざる勝負の劇。歓声と嗚咽。敗れたチームには松岡修造が、人生の苦難に直面した時この敗れた経験が活きるんだと熱く語る。まことにその通りなのだが、なんだか違和感が残る。
 小学生の時から敗戦の経験が必要なのか。野球やサッカーをはじめリトルリーグが盛んだが、1点に喜び1点に泣く勝負の体験が不可欠なのであろうか。それでなくても子どもたちは学校の勉強で悲鳴を上げている。塾通いをしている子がほとんどだ。もう充分に淘汰圧に晒されている。その上まだなにをさせるのか。そんなことより好きにさせればいいのではないか。仕掛けられた感動よりも、田舎にでも行って巧まざる自然の中に浸ったほうが数倍ためになる。英語教育の義務化を筆頭に、グローバルな時代を勝ち抜ける企業戦士をつくるのが政権の教育方針だ。だが、そんなものは鼻で笑ってしまえばいい。なにより教育は子どもたち自身のためにある。国のためでも企業のためでもない。松岡クンには悪いが、たかが遊びに人生訓とは大袈裟すぎる。もっというなら、たかが遊びをなぜわざわざ1点勝負の競技になぞ変形してしまうのか。大人の勝手、テレビの都合ではないか。視聴率のために子どもを使うなといいたい。メタボ芸人にでも跳ばせればよっぽどためになる。
 もとよりTVは玉石混交だが、近ごろでは石が多すぎる。それもスカスカの軽石だ。4Kなり8Kになったところで、コンテンツが進化しないのではタレントの皺だけが目立って終わりだ。 □