伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アダムズ方式

2016年03月03日 | エッセー

 永田町が「アダムズ方式」で揉めている。衆院議長の諮問機関「衆院選挙制度に関する調査会」が定数配分にこれの導入を答申したのだが、自民が難色を示しているためだ。答申はこうだ。
──都道府県への議席配分は、各都道府県の人口を一定の数値で除し、それぞれの商の整数に小数点以下を切り上げて得られた数の合計数が小選挙区選挙の定数と一致する方式(いわゆるアダムズ方式)により行うこととし、各都道府県の議席は、その人口を当該数値(除数)で除した商の整数に小数点以下を切り上げて得られた数とする。──
 算数おんちの稿者は、ここにある「一定の数値」(=「当該数値《除数》」)に引っ掛かった。これは一体なにか?
 議席の配分方式として検討されたのは、2つの基数方式と7つの除数方式だったそうだ。基数方式とは人口規模に応じて比例配分する方法である。一見フェアな配分なのだが、総定数の増減と個別選挙区の定数が逆転する場合がある。実際にアラバマ州で起こったことから「アラバマのパラドックス」と呼ばれる。これはいかにもマズい。そこで基数方式を外して、アラバマパラドックスが生じない除数方式から選ぶことにしたのだろう。
 俎上に載せた7つの除数方式とは、ドント/サンラグ/修正サンラグ/ヒル/ディーン/デンマーク/アダムズの各方式である。要を得た略説をする力量はないが、小数点以下の処理の仕方が違うとだけはいえる。切り捨てるか、四捨五入するか、降順配分するかの違いで、切り上げるのはアダムズ方式のみである。ここが肝だ。アダムズ方式は以下の通り。
1.  一定の数値dを選ぶ。
2. 各選挙区の人口Pをdで割った商P/dを計算し、小数点以下を切り上げた値をもとに名区に配分される議席数を決める。
3. 議席数の総和が議席総定数と等しくなるまでdを増減してステップ2. を繰り返す。
 単純な例を挙げてみる。議席総定数を5とし、A県人口100人、B県60人、C県20人とする。
1.   dを40として
2.  人口を除すると、A県100/40=2,5で議席3。B県60/40=1,5で議席2。C県20/40=0,5で議席1となる。
3.  総定数が6となるので、dを50として
1.  再度、dを50で
2.  人口を除すると、A県100/50=2,0で議席2。B県60/50=1,2で議席2。C県20/50=0,4で議席1となる。
3.  総定数が5と等しくなって終了。
 これだと定数ゼロはあり得ないし、人口の少ない選挙区に極めて有利に働く。そこで、dである。これは、3. から2. を繰り返すなかで算出される値である。つまりあらかじめレギュレーションとして与えられた数値ではなく、総定数という結果から導出される変数ともいうべき値ではないか。「一定の数値」から定数を連想したためにど壺に嵌まったのだろう。まことに悲しいほど算数に弱い。さらに、「一定」とは「定まったと」いう以外に「十分ではないがそれなりの」との意味がある。この場合は後者か。
 ともあれ、引っ掛かりは消えた。おもしろいのはドント、サンラグは数学者の名前、ディーンも大学教授、ヒルはたぶん“the Hill”で米国議会のこと、デンマークは国名とあるなかで、アダムズは政治家の名前であることだ。それも第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クィンシー・アダムズである。
 父ジョン・アダムズは初代大統領ジョージ・ワシントンの後を襲った第2代大統領である。独立宣言を主導し、海軍を創設したアメリカ建国の父の中でも最も影響力があった一人とされている。両アダムズはアメリカで最初の親子二代の大統領だった。2組目はブッシュ親子である。親は措くとして子ブッシュは語る値打ちはあるまい。悲しいことにアダムズ父子は二人とも党内の抗争に悩まされ、2期目の選挙で敗れ大統領は1期のみで退いている。
 ジョン・クィンシー・アダムズも歴史に名を残した人物である。26歳でのオランダ担当大臣を皮切りにポルトガル、プロシャ、ロシア、イギリスの大使、公子を歴任し、その間米英戦争の停戦交渉に当たっている。モンロー政権では国務長官を務め、スペインと渡り合ってフロリダを獲得した。併せて長官時代、モンロー主義の確立、推進に大きく貢献した。未だ建国3、40数年。よちよち歩きの国家を背負っての外交である。後、その功績は高く評価され米国史上偉大な外交官の一人とされている。
 ただ大統領になってからはパッとしなかった。インディアンの土地を国費で買い取るという当時としては斬新な政策を推し進めたものの強烈な反対を喰らい、政争が絡んでさしたる業績は挙げられなかった。しかし、ここからが違った。ホワイトハウスを去ったのち、なんとマサチューセッツ州選出の下院議員として再び国政に乗り出したのだ。米国史上、大統領を経験した下院議員はジョン・クィンシー・アダムズただ一人である。
 捲土重来か、アメリカを代表するスミソニアン博物館を有するスミソニアン協会の設立に尽力し、また大統領時代からの懸案であった国立天体観測所の建設に足跡を残した。後世の歴史家は「フランクリンを除いて、アメリカの科学主義の前進に大いに貢献した人物はいない」と讃えた。
 その時期、新たな議席配分法案がイシューとなった。法案では議席総数が213から240に増えるのに、マサチューセッツ州の議席は13から12に1減するという。すわ一大事とアダムズが案出したのが如上の「アダムズ方式」であった。
 180年を越えて今もこの方式が長寿を保っているのは、おそらく「切り上げるのはアダムズ方式のみである。ここが肝だ」からではないか。その発想は「米国史上偉大な外交官の一人」だったからこそ、といわねばなるまい。利害損得を比較考量し押したり引いたりしつつ、かといって相手に致命傷や敗北感を与えずに落とし所をわが方(カタ)へ引き寄せる。そういう外交感覚を端数の「引き上げ」に見て取るのは穿ち過ぎであろうか。選挙の選出方式に万人の納得も完璧な正解もあり得ない以上、実に滋味のある妙案といえよう。そこの機微が飲み込めぬ自民党の諸君は野暮天揃いというほかあるまい。
 1848年初頭、下院でアメリカ・メキシコ戦争の従軍士官に謝意を捧げる提案の採決が行われた。元々この戦争に反対であったアダムズ・ジュニアは大きな声で「否」と応じ、数分後に倒れた。2年前に1度倒れ、復活してちょうど1年を過ぎた頃だった。すぐに下院議長室に移されたが、そのまま同室で2日後に息を引き取った。80歳、壮絶な討死とも気高き殉死ともいえる。「これがこの世の終わりか。私は満足だ」が、今際の言葉だったそうだ。わが永田町では絶えてなき話だ。
 赤絨毯の頓痴気たちに偉人の爪の垢を煎じて飲む気があるなら、すぐさま答申通りアダムズ方式を採用せよといいたい。 □