伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

十年一筆を磨く

2016年03月28日 | エッセー

 昨日、3月27日で本ブログは満10年を迎えた。927本、200万字前後か。「十年一剣を磨く」とはいうが、とても「一剣」とは言い難い。せいぜい鉛筆がいいところだ。
   鞭声粛々、夜、河を過る
   暁に見る千兵の大牙を擁するを
   遺恨なり、十年、一剣を磨き
   流星光底、長蛇を逸するを
 頼山陽の名句に擬するなら──深更から暁に至るまで打鍵し十年一筆を磨いてきたが、並み居る億万のブログに押し遣られ、悲しいかな遂に長蛇を逃してしまった──とでもなろうか。ただ佶屈聱牙な本ブログにお立ち寄りいただいている皆さまには満腔の謝意を捧げたい。と同時に、引き続きのご愛顧を伏してお願いする次第である。
 第一稿は06年「寅さんの声が聞こえる」、同日に第二稿「ヘンなことば」を上げた。寅さん語録の紹介と、最近の言葉事情を愚考した。双方とも何度も取り上げたトピックである。自賛を赦されるなら、寅さんについては07年6月の拙稿「第100回記念 ―― 奇想!『寅さんの声が聞こえる』」が自信作である。ヒンドゥー教に説く「四住期」のうち「林住期」に寅さんの生き様を擬した。言葉考は爾来飽きるほど書き殴ってきた。本ブログの主要テーマの一つである。
 十年一昔という。確かにこの括りにはさまざまな事どもが去来した。個人では08年の手術が最大事であった。同年1~3月、「囚人の記」1. ~3. に綴った。付け加えれば、マドンナとの遭逢もあった。07年12月「訴えてやる!」、08年5月「へーん、しん!」と題して書き残した。中身はタイトルで御推察願いたい。
 社会においては、何といっても11年の東日本大震災と原発事故だ。今月12日「5年目の3・11」で述べた通りだ。一点、味噌を上げさせてもらうなら、発災直後に『空爆』と『国難』の二語を使ったことだ。今になって、同様の言葉で3・11を捉えた識者が少なからずいたことを知った(今月23日付朝日新聞特集『災後考』による)。半藤一利、御厨貴、田原総一朗、木田元(哲学者)、松谷みよ子(児童文学作家)、堺屋太一(作家・評論家)、猪瀬直樹(作家)、山崎正和(劇作家・評論家)の各氏だ。半藤氏は大空襲による「焼け野原の記憶がよみがえった」と証言し、田原氏は原発事故を「第二の敗戦」と捉えた。先つ日の拙稿では『国難』と『復興』のそれぞれに対して小考を記した。今稿では碩学養老孟司氏の炯眼を信倚したい。
 氏は3・11直後、「戦前、日本が曲がっていったのは関東大震災からではないかと考えている。大正デモクラシーがなぜ、軍国主義に変わってしまったか。震災の影響が非常に大きかったのではないか」と語った。刺激的で極めて深い問題提起だった。そして今月11日大震災5年目に、氏は朝日のインタビュー記事で次のように語った。以下、書抜。
◇突然、極端に異なる知覚、感覚が暴力的に入ってくるような事態を脳みそは嫌います。大震災などの天変地異が起こると、それぞれの人の脳に、暴力的ともいえる勢いで外部の事象が攻め立ててきて、意識の世界が妨害されます。未曽有の事態に直面した人間の脳みそは、それまでとは大きく変わったものになってしまう。
 少し前まで、豊かな都市生活が繰り広げられた場所に、焼け焦げた遺体が無数に転がった。それを目の当たりにする経験をした人々の心には、非常に深刻な影響が残りました。修羅場を体験した人は、あれから自分が変わったと思ったはずです。
 大震災から戦争まで一直線に流れていったのは、一晩であまりに多数の死を目撃し生の不条理に直面したことで、命をめぐって心に大転換が起きたからでしょう。人間の命の値打ちが軽くなり、戦争を始めるハードルも低くなった。あれほど絶望的な戦争が延々と続いたのも、大震災で心の大転換があったからとしかいいようがありません。
 自然界が人間の価値観と関係ない力学で動いていると直視すること。自然に善悪はありません。台風、噴火イコール悪でもない。外部世界をニュートラルに見ない社会は狂ってしまいます。既成のシステムも、その時限り、今の状況に過ぎないのに、これからも未来永劫、維持されると思い込む。それは頭の中毒です。中毒の行き着く先は原理主義です。◇
 戦争への顚落の導因を関東大震災に看取し、自然をありのままに直視しない社会は滅ぶと誡め、既存システムへの執着は頭の中毒だと断ずる。いつもながら、腑に落ち胸がすく大言論だ。
 してみると、本邦この5年の趨勢は「大震災から戦争まで一直線に流れていった」歴程を準っているといえば大言、過言の極みであろうか。「戦争を始めるハードルも低くなった」諸相をこの2、3年、目の当たりにしては来なかっただろうか。「意識の世界が妨害され」憲法で誓った平和への志向が霞んではいないか。大震災で崩れ去った安全と成長の神話に未だに執着するのは「頭の中毒」そのものといえる。足を洗えないのは中毒だ。「既存のシステム」への偏執から抜け出せずパラダイムシフトができない。「行き着く先は原理主義」だ。刻下の宰相に巣喰う反知性主義こそ原理主義の別称ではなかろうか。
 10年の節を跨越し、「長蛇を逸する」遺恨なきよう「流星光底」する一筆を磨かねばなるまい、などと分不相応な心組みを妄想して今稿を閉じたい。 □