伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

歪んだ「士農工商」

2016年01月12日 | エッセー

 一驚を喫した。もう十数年前から教科書には「士農工商」が消えているそうだ。90年代から研究が進み、言葉はあっても身分制度としてはなかったことが証明されたからだ。暗い江戸時代の象徴として刷り込まれた者にとっては青天の霹靂だ。
 元来は古代漢籍に「士農工商、四民に業あり」とあり、単に職分を表すイディオムでしかなかった。「老若男女、皆の衆」と同じである。順に、官吏、農民、職人、商人を意味した。上下関係はない。ただ農業が経済力の基盤であるため、プライオリティーを上げることで荒仕事の農から商工への流入を食い止めようとした意図は窺える。留意すべきは「士」は武士ではなく、官位をもち人民を差配する者、つまりは官僚の謂であった点だ(他に指導的立場との含意から知識人をも表意した)。順番も中国古典には「農士工商」も「士商農工」もあった。
 本邦には奈良時代までに入り本来の意味で使われていたが、「士」については武士集団の擡頭と共に次第に武士に限定されるに至った。特に戦国後期の兵農分離から病的なくらい保守的な徳川政権に至って職業、身分が固定され、「士」が支配者層として四民の最上位に置かれた。しかし江戸時代に四民が支配制度として成立していたわけではなく、実際は「士」を上位者として「町人」と「百姓」を下位に併置する支配構造であった。もちろん百姓は農業者に限らない。細野善彦が解明した通り、海運や手工業を営む者も含んだ雑多な職業の総称だ。職能というより、地方(ジカタ)、町方の居住圏による立て分けといえる。
 前時代の胎動から江戸中期になると、産業が更に振興し貨幣経済が一層広まる。同時に商人が力を得、大名貸や様々な特典を与えられるようになる。さらに医師は四民の枠を外れた特権が認められた。また武家との養子縁組、御家人株の売買、武士の帰農などによって身分にかなりの流動性が生まれた。決してカースト制度のような千古よりの累々たる軛、足枷ではなかった。
 社会が刷新されると、アンシャンレジームは散々に叩かれる。明治には、単なる職分だった士農工商を身分制度と言い募り「四民平等」を誇らしく謳った。爾来戦後を過ぎ、20世紀末葉に至るまで『士農工商=身分制度』が先入主となり固定観念となってきたわけである。
 さて、もう一度原義に戻ろう。「士農工商、四民に業あり」に上下関係はない。かつ、「士」は官吏であった。愚案を巡らすと、古代中国を徴するに四民にさらなる上位者がいるのではないか。皇帝もしくは王という支配者を四民を超えた最上位に措定しないと、理路が開かない。主権者たる帝の元に、その意を体し具現化する行政官。次に生産者たる「農」「工」、仲介者「商人」が連なる。概観すると、それが国のありようである。これが原義ではないか。現に最上位者には、ある時は天皇が、またある時は将軍がいた。戦後は誰がいるのか。「国民」である。
 憲法前文にはこうある。
──ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。──
 「国民主権」である。最上位者である国民から「信託」された権力は「国民の代表者がこれを行使」する。権力は三権に別たれるが、41条には
──国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。──
 とあって、実態は国会が最上位者に擬せられる。ならば、官吏たる「士」は行政府をもって準えることができよう。最上位に国会、「士」に行政府である内閣、1次、2次産業としての「農」と「工」、3次産業の「商」が並立する。そういうスキームではないか。
 ところが刻下、「士農工商」が原意から乖離し畸型を呈しつつある。「士」が極大化し最上位者を喰いつつあるのだ。内田 樹氏の慧眼を参照したい。
◇法の制定者と法の執行者が違う政体を「共和制」、制定者と執行者が同一である政体を「独裁」と呼びます。その定義に従えば、国会への法案上程に先立って制定を既成事実であるかのように語ったとき(引用者註・昨春、米国議会で安保法制の成立を約束したこと)、安倍首相は「独裁」を宣言したことになります。その後実際に安倍総理は、法の制定者たる国会にはもう立法者としての実力がないことを、あらゆる手段を尽くして国民に周知徹底させ、それに成功しました。国会はただの諮問機関であり、内閣が提示する法案をいじりまわすセレモニーの場であり、国会での野党質問は「ガス抜き」であり、採決はただの茶番なのだということを、メディアを通じて徹底的に訴えました。最後の参議院特別委員会での強行採決も、議会のルールを平然と破って大混乱のうちに終わらせました。あれは安倍さんの失点ではなく、成功なんだと僕は思います。あれこそ彼が日本人全員に見せたかった絵柄なんです。上が指示したら、与党議員はみんなロボットのようにそれに従う。誰ひとり自分の意見を言わない。指先での指示通りに立ったり座ったり拍手したりする。それだけ。質問には閣僚はまともに答えない。総理大臣は口汚いヤジを飛ばす。あらゆる絵柄が「国会は国権の最高機関として機能していない」という印象を国民に刷り込んでゆく。これこそ独裁を目指す行政府にとっては最も願わしい展開なわけです。
 一度選挙に勝って与党になれば、それ以降は、国会審議はただのセレモニーであり、行政府がやりたい放題というのが今の日本の政治の実態です。この1年間の国会の威信低下・機能劣化はあらわな官邸とメディアの共作という気がします。こうやって政策審議過程をドタバタ騒ぎとして報道することで、最終的には、「国政の方向を決定するのは国会ではなく内閣である、国権の最高機関は国会ではなく内閣であり、国民の代表は国会議員ではなく内閣総理大臣である」というアイディアを、メディアを通じて国民に刷り込んでいる。そうやって三権分立・主権在民という立憲デモクラシーの根本にある信念を切り崩している。そして、たしかにそれに成功している。◇(「『意地悪』化する日本」から)
 独裁的ではない。すでにして独裁なのだ。「原意から乖離し畸型を呈しつつある」国の病理をこれほど深く抉り取った論攷を他に知らない。「『士』が極大化し最上位者を喰いつつある」病状をこれほど顕わに曝け出した眼光に喫驚し、たじろがざるを得ない。
 「一度選挙に勝って与党になれば」については、稿を改めて述べる。ともあれ、「士農工商」が歪で醜悪な位階秩序に貶められている。最上位者を蹴落とし、「士」のみを上位者とした畸型に。
 新手の歪んだ「士農工商」に、今度ばかりは誑かされてはなるまい。 □